第36話 滅びの一手
トリアングロ王国。
それはクアドラード王国と同じくレーン島に位置する国の名だ。リィンの暮らすクアドラード王国と違い、軍事に力を入れている。
それもそのはず。
クアドラード王国とトリアングロ王国は現在戦争中であるが、20年前、『あること』を理由に両国が不可侵条約……つまりは停戦の契約を結んでいる最中。
戦争が行われている訳では無いが、停戦と終戦では全く意味合いが違う。
停戦中、2つの国は互いに睨み合いを続けていた。
戦争の予兆を肌で感じ取り、国に攻め込まれぬように国境に位置する領地が、クアドラード王国で言う『ファルシュ領』なのだ。治めるは辺境伯。貴族だ。
トリアングロ王国は3つの組織がある。
空軍、陸軍、海軍。
3つの軍部には、それぞれ『神の使い』ともなりうる名前を持つ幹部が居た。
例を挙げるとするならば、空には鷲や烏。海には亀や鯉。
もっとも、ただ名前を冠しているというだけで動物そのものではないし、鯉は海に居ない。
そして陸には──
「こんばんは」
闇夜の中でも目立つ白髪の老人が、ダクアの外壁でもたれかかっている男に声をかけた。
「やはり来たか……」
フードを深く被り、もはや口元しか見えないだろう。壁にもたれていた体を起こし、老人を一瞥した。
黒くカッチリと着こなした燕尾服。その姿はやや流行遅れと言えるが、主人を立てることを考えれば納得がいく。
白いタイに白い手袋。そしてきっちり磨かれた革靴。
怠ることを知らぬその身だしなみ。
「執事の仕事が随分似合っているじゃないか」
──老人は執事であった。
「ほほっ、何年も従事しておりますからな」
穏やかに笑う顔に『悪意』は見えない。
笑顔にあるのは『正義』だけだ。
「シュランゲ。子爵に潜り込んで、一体何をしている」
トリアングロ王国の〝白蛇〟シュランゲ。
グリーン子爵の傍で執事として約20年も間、従事してきた男の、本当の名前だ。
「おや。心外な。ルナール殿の仕事が早すぎるだけです。私はせっせと反吐の出る様な仕事をこなして信頼を得ている最中だというのに……」
しくしくと泣き真似を見せる。
子爵の執事は決してシュランゲという名前ではない。だが、この月明かりの中では、彼の本当の姿であった。
「どうだか……」
男、ルナールはため息を吐き出した。
シュランゲは昔からこの狐が嫌いだ。子供の頃から無愛想でユニークの欠片も面白味も全く無い。
生真面目な仮面を被り他人と関わることを酷く嫌い、冷酷で取捨選択が得意。目的のために淡々とミッションをクリアし、そして自分の父親をも殺してみせた。『つまらない男』というのが彼を表すに最も相応しい言葉だろう。
トリアングロ王国では『神の使い』ともなりうる名前を冠している者が、幹部。
そして例えばだが……──陸には蛇や狐がいる。
「ルナール殿。いや、狐の。此度のスタンピード、なぜ『狐』の名が出たのかお聞かせ願いたい」
フードで顔は分からないはずなのに、眉間にグッと皺を寄せたのが気配でわかった。
「リィン、と言いましたかな。あの小狐」
「言っておくが、こちらとは一切関係ない。狐の名を冠したのも、偶然だろう」
クアドラード王国で狐を使う。
その拙さは無知以外考えられない。
「狐の。……あの小娘、殺さないのですか?」
貴方なら殺してしまうでしょう。
そう瞳で伝える。
「スタンピードの折に殺そうとした。が、上手い具合に邪魔をされる。それに……悪運の強いことにコンビを組んでしまったからな」
つまり四六時中、コンビの傍に居るということだ。
「あぁ、あの女好きのライアー……。でしたかな」
「……。」
「ルナール殿も見習えばよろしいのに」
「黙れ」
強い殺気。それほど嫌なのか。
それでもシュランゲは年寄りの余裕を見せるために朗らかな笑みを浮かべ続ける。
「まぁ、精々そちらはそちらで頑張ってくだされ」
執事として染み付いている礼儀作法に倣い、恭しくを腰を曲げる。だが、目を伏せた一瞬の隙に眼前から狐の男はいなくなっていた。面白くない。
「あぁ……我らが祖国……。今、今に」
シュランゲ……──白蛇は、空に浮かぶ月を眺めながら。
自分がクアドラード王国を滅ぼす一手になるべく、祈りを捧げた。
「この悪魔の国に、裁きの鉄槌を」
その為ならば自分は喜んで死のう。
リィンに近付く刃は、すぐそこに。