第268話 ニセモノの王子は兄である
エンバーゲールは昔から、煌びやかな社交界に身を置くことを苦手としていた。
流れる音楽も、舞うドレスも、洒落た会話も──彼にとってはすべて退屈で、まるで自分だけ異物のように浮いてしまう場所だった。
むしろ己の剣を研ぎ、汗を流す騎士団の鍛錬場のほうが、はるかに生きている実感があった。
政治や経済に心を寄せることもなかった。
二番目の王子としてそれは致命的だったのかもしれない。だが、兄と競い合うことがなかったのは、むしろ王国にとっては幸運だったのかもしれない。
今となっては、それら全て意味をなさないのだけど。
あの時、トリアングロへ行き、クアドラードを裏切った。
後悔など、当時はひとかけらもなかった。自分の決断は正しいと思っていた。
だが、たった数人の冒険者と、いつもストーカーように付き従う従者の存在が。エンバーゲールの描いていた結末を容赦なく変えてしまった。
「私は、間違ったのだろうな……」
絞り出すような呟きは、誰に届くこともない。
クアドラードが失ったものは少ない。だが、エンバーゲールが失ったものは数えきれない。
トリアングロの王城の二階。
エンバーゲールを迎えに来たエリアと、幹部フロッシュ、そして異世界人カナエ。
そこで三人は命を落とした。
『クアドラードの差別の根源は、全て魔法だ! 俺は魔法が悪だとは思わない、無くなってしまえとは思えない! だが、魔法による差別を国が変えられないまま栄華を保つなど、無理だ。耐えられない!』
『生きていればいつか』
『そうだね、きっといつかは来るよ。今までの苦しみも今抱えている不安も、全てを帳消しにしてくれる幸せが、きっと来るよ』
カナエの睨む、憎む、あの瞳が。綺麗事ばかりの自分に突き刺さった。
『そのいつ来るかも分からない未来が来るとしても、それが今なんの救いになるの!?』
『──カナエをこれ以上利用させてたまるか』
『おかしいですねっ、聞き取りしなきゃならないのはそうなんですけど、殿下を庇うつもりは微塵もなかったのに……』
『生きて、欲しかったんですかねぇ……。個人的に』
あの場で生き残ったのはエンバーゲールだけだ。エルドラードらしくない結末を迎えたエリアに、生かされたこの身だけ。
後遺症でつきりと肺が痛む。
「エンバーゲール、お前を王子にはしておけん」
「……はい。わかっています。私は許されないことをした」
「──だが、お前には他の子達の盾になってもらう」
父である国王陛下から言われた言葉に目を開く。
「ヴォルペールにトリアングロの領地の統合を任せようと思っておる」
「彼に?」
「知っていると思うが、ヴォルペールは戦争を集結させた経由ではある。だが……政治的立場は非常に弱い」
国王として信頼はあるが、貴族からの信頼がない、という事だ。
それはヴォルペールがメイドの子であり後見人が居ないせいでもある。
「そこでエンバーゲール。お前はヴォルペールの盾になれ」
『正当な王子でもないくせに』と言ってくる弟の敵を庇う、旗役になれと言っているのだ。
「私の命は、この国のために有ります」
その結果これだよ。
「──リー」
ヴォルペールがリアスティーンに話しかけて、普段会うことの無い従妹に自分も挨拶をした。
「ごきげんよう」
「リアスティーン、元気そうで良かっ……っ!!??」
後ろにトリアングロの幹部おるんだが????
カデュラ・エンガス。
緑の騎士団の貴公子と呼ばれていた、クアドラードからトリアングロに亡命したものだ。
衣装も似ているし、パートナーとも勘違いしそうだが、立ち位置が明らかに護衛……もとい介護要員みたいに見える。
聞きたいところだが、リアスティーンとの会話をおざなりにして従者に話しかけるなんて出来ない。むしろ空気のように扱わなければならない。
更に、エリィと呼ばれる緑髪のエルフがリアスティーンにまとわりついた時、その色彩に既視感があった。
「(なんだ……?)」
どこかであったことがある、見たことがある組み合わせなのに。微妙に違うような気がしてエンバーゲールは思考の渦に沈みこんだ。
そのトリアングロ幹部が『お久しぶりです』とエンバーゲールを煽っていても、能天気とも言えるエルフの子と従妹の姿に目眩がしそうになる。この子達本当に大丈夫か。
そう考えていた時、ひとつの叫び声が聞こえた。
「──カデュラ!!!」
叱りつけるその声はエンガス家の当主であり、赤の騎士団の魔法部隊の小隊長だっただろうか。
バルサム・エンガス子爵。
王子も、リアスティーンも無視して、頭に血が登った男はトリアングロの元幹部に掴み掛った。
「貴様がなぜここにいる! よりにもよってリアスティーン嬢に気安く語りかけるなど、恥を知れ!」
「(恥は、どちらだか)」
エンバーゲールは心の内で冷笑を浮かべる。
バルサムの振る舞いは、この社交の場において完全なる悪手。
緊張が走り、場の空気がわずかに軋んだ
トリアングロの元幹部とはいえ──今はデビュタントの主役たるリアスティーンの傍らに控えているのだ。
辺境伯令嬢と聞けば軽く響くが、王弟の末娘とあらば。子爵風情と比べるのも失礼な話である。
しかも、マナーがなっていない。
礼を失した振る舞いは、本人だけでなく一族全体の品位を疑われる。
社交場では一挙手一投足が「家の格」として値踏みされるのに──それを理解していない。
まるで居酒屋で家族喧嘩を始めるような真似を、この華やかな舞踏の場で晒すとは。
「カデュラ! なんの目的で」
怒声が響いたが、リアスティーンは全く怯む気配を見せなかった。
涼しい顔でエルフの子へと穏やかに笑みを向ける。
まるで、隣で火事が起きているのに『少しき音が暑いですわね』と言いたげな態度である。
それにならってか、カデュラは叫ぶ父親をガン無視。
ひとつ視線を向けただけで、給仕からグラスを取りリアスティーンにわたす。
それに倣ったのか、カデュラも父親を完全に無視した。
給仕からグラスをひとつ受け取ると、自然な仕草でリアスティーンに手渡す。
彼女は嬉しげに笑みを浮かべてそれを受け取り──その笑顔に、カデュラはさらに口元を綻ばせる。
その光景に、エンガス家の者たちは揃って苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
本来ならば、同じ家門の者が彼女の傍らに立つはずなのに。
なぜ裏切り者にその役を奪われ、しかも笑顔まで向けられているのか。
視線の端々に「なぜだ」「認められるものか」という嫉妬が滲み、抑えきれぬ苛立ちが渦巻いていた。
……それに対してカデュラは父親の怒声など聞こえぬかのように、ただ従妹の笑みに応えるのみ。
「(なんっっか、リアスティーンを愛おしげに微笑んでいるとは思えないんだよな)」
嘘くさい笑顔だ。
「カデュラ……久しぶりだな」
昂る感情を抑えてきたのか、それでも『目上』を無視してガザニアが微笑んでカデュラに声をかける。
確か宮廷魔法士だったか。
「(それにしても…………随分、服装がみすぼらしいな)」
安定した仕事に就く家の割に、纏うドレスや燕尾服は既製品の匂いが強い。
既製品そのものが悪いわけではない。だが、こうした社交の場では致命的だ。
それは『仕立ててもらえるだけの人脈や財力がありません』と公言しているのに等しい。
贈られるべき布地も、馴染みの仕立て屋も持たないと示すことになり、結果として──後ろ盾が弱いと判断される。
品位を損なうのは布の質より、その選び方と立場の貧しさなのだ。
「兄上……彼女から離れてもらいましょうか」
敵意を隠そうともせず割り込んできたのは、エンガス家の三男だった。こちらも宮廷魔法士である。
エンバーゲールは記憶を辿り、ようやく名を呼び出す。──モカラ・エンガス。
「……」
隣に控えていたヴォルペールの視線が、横合いから刺さる。
『殿下、そろそろご出陣いただいてもよろしいかと』──まるで無言の合図だ。
なるほど。口を出すタイミングか。
エンバーゲールはわざとらしく、大きく溜息を吐いた。
すると、それまで存在にすら気づいていなかった者たちが一斉に振り返り、愕然とする。
「っ! こ、これは……! エンバーゲール殿下。ご挨拶が遅れましたこと、まことに申し訳ございません」
遅れてやってきた母親も揃って頭を下げる。
……何もかもがが遅い。
「いや、気にすることはない」
わざと柔らかく微笑みながら、しかし一語一語を重く響かせる。
「私の従妹は、あまりにも美しく可憐で、目も心も奪われてしまうほどだ。……だから王族に背を向け、礼儀を欠くなど、つい仕方なくやってしまうのも理解できる」
意訳:王子を無視してまで何をやってんだ?
エンバーゲールの言葉を助け船だと思ったのか、慌てたように同意した。
「……も、申し訳ございません! 殿下のお言葉の通り、リアスティーン様のご美貌に我ら一族、完全に心を奪われておりまして……!」
当主バルサムが必死に笑みを作って弁解を並べる。
その隣で息子達も、わざとらしく大きく頷いてみせた。
「えぇ、まったくもってその通りです! 私ども、あまりに見惚れてしまい……はは、礼儀を忘れるなど本来あってはならぬ失態を……!」
「大変申し訳ございません!」
「ご容赦を! どうかご寛恕を!」
母親まで加わり、四人人揃って声を重ねて頭を下げる。
あまりにも芝居がかっている。
場の周囲にいた貴族たちは目を伏せ、ある者は眉をひそめ、ある者は口元を覆い隠し……笑いを堪える姿さえあった。社交の禁忌を二つ、三つと踏み抜いているのだから当然だ。
エンガス家が一族総出で必死に言い訳をしている滑稽さが、余計に目立っている。
「おや、そういえば──」
エンバーゲールは、ことさらに思い出したように首を傾げる。
「私の従妹に、祝辞の一言もなかったかな?」
意訳:目を奪われていたのは〝彼女〟ではなく、その背の従者のほうだろう?
リアスティーンに挨拶すらしていない状態で従者にだけ話しかけた。
それで「美しさに目を奪われていた」などと、どの口で言えるのか。
当主の顔がギクリと強張る。
その瞬間、場の空気ごと凍りついた。
エンバーゲールは心中で冷淡に結論を下す。評価を、さらに一段階下げる。
王子として振る舞うのは、ただの慣れではない。
ヴォルペールを守るため。そして、第一王子が不在の今、最高位の王子は自分だ。
ならば「無礼者への見せしめ」もまた、務めのうち。
それで恨みを買っても、正当な王子である第一、第三、そして婚外子の第四に向かう前に自分に行く。
「……っ、リアスティーン様、本日は誠に──」
「ご機嫌よう」
妖精のようにキラキラ光る温かみのある令嬢のなんて事ない一礼が、むしろ痛烈な拒絶に見えた。