第261話 滅びの道はブロードウェイ
穏やかな陽が、窓辺から金糸のレース越しに差し込んでいる。静かに、けれど確かに、その光は午後の終わりを告げていた。
エンガス家。
魔術を極めた家系として、かつては王国に名を馳せた貴族のひとつ。古の記録にその名を刻まれしその血統は、今なお純粋なる魔の才を誇っている。
余りに才が純粋すぎて、一度ならず二度までも「もしかして金の血では?」と勘違いされたことがある。調べたのはもちろん金の血狂いのエルドラード。ガチ勢の精密な調査により、違うと断言されている。
魔法に関しては優秀。ただし地位はない。
この長く続く家系も、爵位としては未だ子爵。数百年の歴史を背負っているのに下から数えたほうが早いあたりで察してほしい。
そんなエンガス子爵家は現在ひとつの問題に直面していた。
「資金面が不安だな」
そう洩らしたのは、この家の現当主。バルサム・エンガスである。
陽の光が落ちる執務机の上で、書類の束を指先で揃えながら、彼は軽く息を吐いた
「まぁ父上。久しぶりに家族全員の休暇なんですから」
長男のガザニアが優雅に微笑みながら足を組んだ。銀髪の長髪を後ろでゆったりと結んでいる。
「そうよ。焦ることはないわ。私たちは商売人じゃないもの。魔術士として、任務のある限りは食いっぱぐれないでしょう?」
そう続けたのは、紅茶を啜っていた母、カメリア。淡い花柄のローブに身を包み、涼やかに目を細める彼女の手元には未来の娘になるであろう人物から送られた花の形を模したお茶菓子があった。
「だが、ガザニアもモカラも急に収入がある減ったじゃないか」
「ええ、確かに……けれど、致命的というほどではありませんよ」
ガザニアは優雅に脚を組み替え、真珠のボタンが光るシャツの襟を軽く整える。
「贅沢を控えれば、まだまだ十分に暮らしていけますし。それに──」
「えぇ。なにより、ね?」
ガザニアの隣に座った三男・モカラがふっと照れたように微笑んだ。
「うちの弟に春がようやく来たんですよ?」
言葉にこめられたのは淡い感慨と、未来への小さな期待。
彼の指先には、品のいい香りをまとう便箋。オレンジ色の差し色が小さく咲いたそれは、まるで希望の花のようだった。
「病弱な子で、外にはなかなか出られませんけど……それでも、彼女は、僕のことをとても気にかけてくれているんです」
「家に来たときは、本当に頑張って来てくれたんでしょうね」
ガザニアの言葉にカメリアが目尻に笑みを浮かべて頷く。
「ええ。挨拶も礼儀正しくて、気品があって。私、あの子が本当に好きよ。うちに嫁いできてくれたら、って……何度も思ってしまうのよねぇ」
バルサムも、珍しく茶を注ぎながら、頷いた。
「リアスティーン嬢は、人格者だ。話すと分かる。教養もある。あれは、辺境伯の教育の賜物だろうな。……それに、モカラにはあれくらい穏やかな方がいい。よく笑ってくれるしな」
「本当に。欲しいものがあったら素直に言ってくれるんです、贈り物が苦手な僕に気を使ってでしょうか」
モカラは続けた。
その語り口はどこか、誇らしげで、陶酔したようでもあった。
「ドレスや宝飾品はもちろんですけど、魔道具や……珍しいお菓子、薬草、貝殻細工なんかも。彼女、世界に興味はあるんですよ。ただ、身体が追いつかないだけで」
贈り物の一覧が並ぶたび、ガザニアは口を挟むことなく頷き、母は「あの子には妖精のように淡い緑のドレスが似合うのよね」と既に嫁入りや未来のドレスの話を始めていた。
──まるで、もう家族になったかのように。
リアスティーンの話題になると、エンガス家は穏やかになる。
兄弟の仲がぎこちない日も、父と母の意見が割れる日も、魔物の討伐で草臥れた日も、彼女の手紙ひとつで全部、柔らかく包み込まれる。
『良縁をむすぶこと』は、いつの間にか『未来を語る上での前提』となっていた。
「この婚姻が決まれば、エンガス家の未来は安泰だわ」
カメリアが囁いたその言葉は、家族の誰もが否定しなかった。
まるで夢を見るように。
それが『伯爵家なら普通でも子爵家にしては過剰すぎる投資』であること。
それが『伯爵家の娘』にしては、あまりに軽々しく会いに来てくれること。
それが『病弱』を理由に、まだ一度も向こうの家から正式な挨拶がなされていないこと。
そんな些細な違和感は、香り高い便箋と彼女の筆跡の前では、すべて気にしなくていいこととして処理された。
解決策は、ふたつあったからだ。
ひとつは、リアスティーンの嫁入りによってもたらされるであろう、持参金。
あれだけ愛らしく、品があり、優しく笑う娘ならば、あの子が選ばれたとあれば、反対する者などいない。
まして伯爵家の末っ子。体が弱かろうと、そこに価値はある。
エンガス家にとって、この縁談は宝くじのようなものだった。
そして、もうひとつの策。
「男爵家からの提案で、治療薬の開発と流通をするんだったな?」
そう問うたバルサムの声には、淡い手応えがにじむ。頷いたのは長男のガザニアだった。
「はい、回復薬の方です。傷の治癒よりも、体力回復や疲労の軽減に重点を置けば……理論的には可能かと」
新たな事業。しかも魔法分野。
魔法士の家系としては、これ以上ない誇らしい展開だった。
エンガス家が魔道の家柄として再評価される布石になるかもしれない。
失われつつある名誉も、資金も、何もかも。このふたつの道が開かれれば、取り戻せる。立て直せる。
家族の誰もが、そう信じていた。
カメリアは『せめて来年の春までに、体力回復薬の流通が始まれば……』と静かに計算を始め、モカラは『リアスティーン嬢に試してもらおうかな』と笑った。
まるでそれが、未来の嫁へのプレゼントか何かのように。
そしてもうひとつ。ここ最近話題に上るのが新しい宮廷相談役の話題だった。
「……まぁ、相談役殿が導入した結界を維持する仕組みで、息子達の給料は少し下がったけれどもね」
とカメリアが呟けば、輝くひとみでガザニアが見た。
「ですが母上、魔法の才覚は本物ですよ。確かに開発した分野が私とモカラの分野で割を食っているのは確かですが。あの方の助言がなければ、戦争は敗北していたとか」
「あら、戦争で活躍していたという魔法士は冒険者じゃなかったかしら?」
「その話題もありますが、流石に一人でなんでも出来るわけではないでしょう?」
実質一人で全部やったとは夢に思わず、性別も姿も年齢も知らない宮廷相談役に思いを馳せた。
「一度、講義を拝聴できればありがたいくらいだ」
バルサムの目には、なんとも素直な尊敬の色が浮かんでいる。
削られた俸給の痛みよりも、未知の魔法を仕組みを作り上げた相談役の実力に、心を奪われたのだ。
魔法の永久化など、まるで前任のエルフの様だ。あの方にもお会いしたいというのに。
「いつかご縁があれば……学ばせていただきたいものですね。お近づきになれれば、それだけでも名誉です」
魔法に生きる者たちにとって、知の高みを歩む存在は、たとえ誰であれ魅力的に映る。
たとえ正体が不明でも。
どれほど無口で、顔を隠していても。
どれだけ……──滅びに誘う者だとしても。気付かなければ全て神秘だ。
「それに魔法の『改良』まで出来てしまったらしいですよ」
「それはあまりにも素晴らしいな」
「まぁ、空間魔法ですが。いや、だからこそ素晴らしい。エルフではなく人間の身で空間魔法を理解し尽した叡智」
拳を握るモカラの眼は、まるで少年のように輝いていた。
そこには、もはや現実の懸念も、経済的な切迫もなかった。
魔法の未来。
愛する彼女との未来。
そして、エンガス家の未来。
──全ては明るく、穏やかで、暖かく続いていくはずだった。
「……さて」
バルサムが、ふと話題を切り替えるように声を上げた。
「モカラ。今度の贈り物は、何にするつもりだ?」
「そうよねぇ、北から取り寄せたお薬のセットは前回渡したでしょう? あと、枕元用の香炉も」
カメリアが指を折って確認すれば、ガザニアがすぐに続けた。
「ドレスとアクセサリーは二回分送ったな。前回は濃い青で、前々回は春色だった。お菓子は?」
「ミローネ商会が新しく出したローゼクラフトのマカロンとチョコレートを。ものすごく喜んでくれて。家族で食べたんだと」
「ファルシュ家は人数がいるからな……。菓子ならそれなりの量を贈ってあげる方が喜ぶだろう」
「すごく可愛いのよねぇ……。きっと家族が大好きなのね。私たちのことも家族だと思って貰えるようにしなきゃね」
──この贈り物が、どこに届いているかなど。
──その費用が、どこから出ているかなど。
──そもそも、彼女の病弱さが本物かどうかなど。
何ひとつ、誰も考えようとしない。
──次は、何を贈ろう?
それだけが、彼らの心を満たす問いだった。
「やっぱり、冷えない羽毛の敷布ですかね。魔道具店で見つけたんです。触れるとちょっとだけ、体温より温かいんですよ。寒がりな彼女に、ぴったりです」
「いいじゃない。それと一緒に、ハーブティーの詰め合わせでもつけましょうか」
カメリアが嬉しそうに提案し、バルサムも頷いた。
「よかろう。王都の調合師に調合を頼もう。どうせ暇している者もいるしな」
「じゃあ、僕は詩を書きます! 今度は手紙じゃなくて、短詩集みたいな感じに」
どこまでも平和で、どこまでも緩やかな、滅びへの午後。
崖の先にあるのが深淵であることに、誰一人として気づかないまま。
エンガス家の、幸福な家族の会話は、今日も花のように咲き続けていた。
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