第260話 滅びの道は快速急行
「──なぜ、あの男に気取られた……ッ!」
怒声が、屋敷の応接室に響き渡った。
高価な陶磁器が棚から投げつけられ、音を立てて砕け散る。
モザブーコ男爵。
商人上がりの成金貴族。爵位こそ持ってはいるが、彼にとって重要なのは名誉ではなく金。それも、潤沢な現金である。
表向きは香辛料商人。だが、その香辛料に『別の品』を混入させてしまい国内に流し、大きな利益を得ていた。
裏稼業としては破格の安定性だった。取り引き先は多く、護衛の手配も抜かりない。
戦争の影響でトリアングロから麻薬の供給が止まってしまって焦ってはいたが、それでもこのままの取引であれば半年は安定する。
在庫も、航路も、万全だったはずだった。
全てが狂ったのは、倉庫と船が立て続けに破壊されたあの日からだった。
被害の中身は香辛料。麻薬ではない。仕入れに使う船と在庫の香辛料であり、被害を受けたのはあくまで『表の顔』──だからこそ、堂々と国に補償を求めた。
ぴえんぴえん。たすけて国王さま〜。
こちとら被害者だぞ、と。香辛料の被害なので本当に被害者であることは間違いなかったからだ。図々しくも補助金だって貰っている。
後は船が直るか、国内生産の無事終われば『次』に進めた。再開の目処がたったはずだった。
怒りの矛先はただ一人──ヴァルム・グリーン。
クアドラードの地方領主のひとり。緑豊かな農地が治める領地の大半という、取るに足らぬ存在であったはずの男だ。
「ヴァルム・グリーンめ!!!」
ガシャン。部屋の中に怒り狂った男の投げた様々なものが飛び交う。
「あの男が! 生産を止めなければ!!!」
そして今度は──国内生産地が正式に生産を停止された。
領主が自ら正式に生産を停止させたことによって、モザブーコ家は『新しい販売』が出来なくなったのだ。
新しい船も無く交易が出来ない。
倉庫も破壊され在庫が無いことは国に把握されている。
さらに補填に回せるはずだった国内分も消え失せた。
もし順番が逆なら、『船や倉庫の破壊?いえいえ、こういうこともあろうかと隠していたものが』と無理矢理在庫で誤魔化せたかもしれない。
今となっては、香辛料が一袋も手元にない。
手札が無いことを知られている。
「くそっ! なぜ、俺ばかり……!」
椅子を蹴り倒し、また一つ銀皿が床を滑った。
現金の流れは止まったくせに、支払いと焦りばかりが膨らむ。
男爵という立場も、資金が尽きればただの飾りに過ぎない。今や雇いの私兵たちすら、次の給金に疑念を持ち始めている。
子どもたちは何も知らず、相変わらず好き放題の暮らし。
女たちも金目当てばかり。いざとなれば一斉に背を向けるだろう。
「──当主様」
そのとき、低く落ち着いた声が後ろからかけられた。
男の名前はサンバン。No.3やサードと言えば聞こえはいいが、三番目に買われたからサンバンだ。
必要なときにだけ現れ、感情をほとんど見せず、的確に事務を処理する、屋敷で実務を担う秘書であった。
ただし、彼は決して忠臣ではない。
主の暴走に口を出すこともなければ、あえて沈黙することもない。
彼が取るのは、常に嵐が過ぎるのを静かに待つような姿勢だった。生きるために必要なら術だった。イチバンもニバンも既に事故に遭っている、と言えば正しいだろう。
「来客ございます。こちらにおいでですが」
「返せ!」
「承知しまし……」
モザブーコは苛立ちをぶつけるように、もう一つカップを投げつけた。
「……おや。これはまた、随分と賑やかに荒れていらっしゃる」
その声は、投げつけられたコップを砕く音に紛れて、まるで冷や水のように部屋に差し込んできた。
握りしめた拳がサンバンの顔を庇う位置にある。
「……! こ、これはこれは……っ、クレイン様ではありませんか」
モザブーコは慌てて身を起こし、咄嗟に破れた書類を靴で隠した。
荒れ果てた室内、飛び散った食器、粉々になったグラス。それらすべてが彼の無様さを物語っている。
そして、来訪者の靴裏に、その破片が小さく鳴く。
「お久しぶりですね」
静かな声と共に、男は一歩、また一歩と歩み寄ってくる。
若く、涼やかな目元に淡く微笑を浮かべた青年──ブレイブ・パスト・グルージャ。
麻薬の取引相手の家の者だ。本人に直接会うのは数度だけ。主に取引をしていたのは彼の妹だった。
戦争が始まり、トリアングロが敗北し、連絡はぷつりと途絶えた。消えたと思っていた貴族の一人が、今ここに立っている。
「新たに取引を出来そうなので提案を持ってきたのですが」
グルージャは冷ややかに荒れ果てた男を見下ろした。
「ふふ、随分可哀想ですね」
その一言に、モザブーコの顔が見る間に赤く染まる。
それは羞恥でも屈辱でもない。怒りだった。
この若造が──! 年若い男に、己の落ちぶれた様を笑われるなど!
だが、今ここで怒りを爆発させれば、せっかくの取引話が潰れる。
どれだけプライドを傷つけられようと、金の匂いがする以上、耐えなければならない。
「(リィンちゃん。この哀れな男、君にむちゃくちゃにされる前に殺してあげた方が優しいと思うんだけど)」
ナチュラルサイコパス救済系男。一人そんなこと考えるがちゃんと『殺すすたらどうなると思う?お前(グルージャの男性器を見ながら)』と釘を刺されているため、できないのだった。ひでぇ話だ。
「へ、へへ。そうなんですよ。どこぞの誰かのクソ野郎に香辛料を潰されまして」
モザブーコは己の身に降り注いだ悲劇を語った。
「そうですか、可哀想に」※犯人
にこりとグルージャは笑みを返す。
まるで、いや、本当に哀れな人間に救いの手を差し伸べる菩薩な顔だった。
「そういえば──最近、新しく事業を始めようとしている家がございましてね。由緒正しい、素晴らしい方々です」
「ほう?」
「モザブーコ様、もしよろしければ。投資と……材料の援助など、なさってみてはいかがでしょう?」
「材料……?」
「ええ。せっかくお持ちなのに、使い道がないのは勿体ないでしょう? 軌道に乗れば、我が家としても取引再開の余地が生まれます」
なにをとは言ってない。犯罪援助では無い。これはあくまでも、良い提案なのだ。
「…………なるほど」
余った在庫はある。隠し倉庫には被害に遭ってない麻薬がいくらか残っている。
それを提供すれば、再びあの儲けが戻ってくる。
そう理解したとき、モザブーコの目が光を取り戻した。
──まさに、悪魔が差し出した救済だった