夫婦円満の十か条
ドアをノックする音がして、クラーラが顔を上げた。そっと中を窺うように、ジューリオが入ってくる。
「まだ起きてましたか」
「もちろんよ! ジューリオを待ってたわ!」
パタパタとスリッパの音をさせてクラーラはジューリオに駆け寄った。ジューリオの左腕を両手で掴み、ぶんぶんと揺する。
「お疲れ様です、ジューリオ」
「遅くなって申し訳ありません」
お互い名前で呼び合う決まりにしたが、ジューリオは慣れないらしくまだ呼んでくれない。そのまま腕をひっぱってソファまで誘導する。ジューリオは愛おしむような笑顔でされるがままにソファに座らされる。慣れた様子でその横にぴったりとくっついてクラーラが座った。
こうして毎日ジューリオがクラーラの部屋を訪れるようになるまで、実は軽くひと悶着あったのだ。
クラーラがエルネストに苦情を申し立てた数日後。クラーラはアウギュストに連れられて王太子の執務室にいた。
「というわけで、完成は半年後だ。今ならまだ内装の変更はできるらしいぞ」
応接の一人掛けソファに腰掛けたエルネストが図面を広げながら言った。並んで座ったアウギュストとクラーラがそれを覗き込む。二人の前のソファは空席で、その向こうの壁際にジューリオとカルロが並んで立っている。ジューリオはこの話の当事者なのでソファに座るよう言われたのだが、慣れないので、と断ってカルロと並んでいる。
「私は別にこのままでいいわ。ねえ、ジューリオはどう思う?」
「私も問題ありません」
クラーラ様がいるならどこだって、とジューリオの小さなつぶやきが聞こえてしまったカルロが思わず肩を揺らす。
クラーラとジューリオは結婚後、クラーラが元々住んでいた離宮に住むことになった。
二人の為に王城近くの土地や空き家を探したが、良い場所が見つからなかったのだ。ジューリオは職務上家を空けることが多いので、王女であるクラーラが住むには警備をしっかりしなければならない。そう考えると手狭な土地しか残っていなかったのである。
そこで、賓客用に改装中であった離宮を急遽変更して二人の住まいとすることにした。王城内の土地であるため騎士団が常に警備をしているし、新たに家具や使用人を用意しなくても良いというのは合理的なクラーラの性分にあっていた。また、入り婿の様な立場になってしまうのでは、と心配されたジューリオ本人が、すぐに王城に出仕することができるのはありがたい、と言ったので、この話はすぐに進められた。そして、離宮の完成に合わせて結婚式を行うことになった。
「半年かあ、きっとすぐだな」
アウギュストがいつものように足を組んでソファの背に両腕を伸ばした。クラーラがクッキーに手を伸ばす。
「じゃあ、私、離宮が完成するまではジューリオの部屋に引っ越すわね」
「「「「は!?」」」」
クラーラ以外の男どもが揃って声を上げた。
「待って、クラーラ。どうしてそんな話に」
「だって結婚前は、仲良くなるようになるべく一緒に過ごすようにって言われたわ。だから私は昨年バジョーナ国に行ったんでしょう? ジューリオは忙しいから、私がお部屋で帰りを待ってた方が会えるじゃない」
「クラーラ様、それは無理です。私は近衛騎士の宿舎に住んでいますので」
「騎士の宿舎!? 行ってみたいわ!」
ジューリオとカルロが揃ってぶんぶん首を振る。
「クラーラ、騎士の宿舎なんて女の子が行くところではない」
「エルネスト兄様は行ったことがあるのね」
「そりゃあ、王城の敷地内の建物は全て見に行っているが」
エルネストが真面目な顔でクラーラを諭している中、アウギュストがへらりと笑う。
「でもさあ、近衛は騎士団より王城に近い棟に宿舎があるし、さらに専属護衛のジューリオは他の近衛たちとは違う階だし。できないこともないよねー」
「本当? じゃあ決まりね! 騎士団の食堂楽しみだわ!」
「食堂目当てかよ!」
「余計な事を言うな、アウギュスト」
「いやあ、騎士団の宿舎に王女が住んでいるのを見てみたいって言うか、自室にクラーラがいて慌てるジューリオが見たいって言うか」
「どうしてだめなの? 騎士団の宿舎なんて、王城で一番安全な場所じゃない」
「どうしてって……確かに安全ではあるが、ある意味一番安全ではないからだ。狼の群れの中に放り込めば狼以外の敵には襲われないが、狼には襲われるだろう」
「言ってる意味がわからないわ」
壁際ではジューリオとカルロが相変わらず青い顔でぶんぶん首を振っている。エルネスト殿下がんばれ。ちなみにカルロは現在王城近くの王都に家族と住んでいるが、独身の時は宿舎に住んでいたので、宿舎の有様はよくわかっているのだ。
「時間を作って毎日クラーラ様の部屋に行きますので、宿舎に住むことは諦めてください」
ジューリオがそう言うと、クラーラは少し考えた後素直にうなずいた。
「まあそうよね、護衛対象が宿舎にいたら皆気が休まらないわよね。食堂は個人的に行くことにするわ」
「やっぱり食堂目当てじゃねーか」
今度連れてってやるからさ、とアウギュストが言うので、クラーラは溜飲を下げた。
というようなやり取りがあり、今の所毎日ジューリオは仕事前か終わりにクラーラの部屋を訪れている。
「今日は何をされていたのですか」
「今日はね、見て! 刺繍の練習をしていたの」
クラーラがテーブルに置いた刺繍布を取ってジューリオに広げて見せる。
「昼間にドレスのデザイナーさんとお針子さんがいらしたの。その時に、お針子さんに刺繍のコツを聞いたのよ。ジューリオを待っている間、さっそく試してみたの」
「とても上手です」
「そのうちジューリオのご両親にお会いするでしょう? その時に刺繍のお話ができれば、お義母様と仲良くなれるかと思って」
「…………!」
ジューリオがはっと驚いた表情をした。
「ご両親は領地にいらっしゃるんでしたっけ? いつ王都にいらっしゃるのかしら。それとも、私が領地に伺ったほうがいいかしら」
「…………」
「ねえ、もしかして」
「……はい」
「まだ、ご両親にお知らせしていない、……なんて」
「…………忘れていました」
「どのあたりから、伝えていない、のかしら」
「……申し訳ありません。浮かれていて……両親のことなどすっかり忘れておりました」
ジューリオは片手で口元を押さえながら固まっている。どうやら本当に家族に伝えるのを忘れていたようだ。
浮かれていた、なんて言われるとクラーラの心がちょっとだけ跳ねる。
いつも動じることなく表情をほとんど崩すことのないジューリオが、実は内心浮かれていたなんて聞かされて嬉しくないわけがない。
「近々、手紙を書こうと思います」
「えっと、すぐ書いた方がいいわ。王城からの婚約式のお知らせが先に届いてしまうわ。ご両親きっとびっくりしちゃうから」
「……」
ジューリオが、やばい、という顔をする。
珍しくいろいろな表情も見られたし、意外とうっかりしているということも知れたので、クラーラはとても満足した。
「ジューリオは私の家族と仲良くしてくれているから、私もアスティ家の皆さんと仲良くしたいわ。十か条のひとつだものね」
「十か条?」
「あら、知らないの? じゃあ、これは庶民の間の約束事なのかしら。銀のかわうそご夫婦に教わったのよ。夫婦円満の為の十か条」
「どのようなものですか?」
「名前で呼び合う、相手の家族を大切にする、でしょ。待ってて、教えてもらった時にメモを取ったの。今持ってくるわ」
クラーラが走って寝室に駆け込み、すぐに飛び出してくる。滑り込むようにジューリオの隣に座り、メモ用紙を広げた。
「急がなくていいんですよ」
「早く教えてあげたくって。これを守っているとね、ずうっと仲良しでいられるんですって」
「それは興味深い」
「そうでしょ。えっとねえ、次は」
クラーラはかわうそ夫婦から話を聞いた時の様子なども交えてひとつひとつ丁寧に説明した。するとあっという間に時間は過ぎ、いつの間にか月は高い位置に昇っていた。
「遅い時間まで申し訳ありません。続きは、明日また聞きますね」
「ううん、まさか5つめまでしか説明できないなんて思わなかったわ……」
クラーラは自分のぐだぐだと長い話に嫌な顔ひとつしないで聞いてくれるジューリオがますます好きになったと同時に一人でしゃべり過ぎたことがとても恥ずかしくなった。ジューリオにたくさんの話を聞いてもらいたくて、自分のことを知ってもらいたくて、いつもこうしてしゃべり過ぎてしまっては毎日反省しているのだ。
「明日も仕事なのに、ごめんなさい。忙しい時は、毎日来なくてもいいのよ」
寝室のドアを開け、ざっと部屋を見渡し異常がないか確認した後、ジューリオがクラーラを室内へ促す。
「平気です。毎日ここに来るのが楽しみなので」
一歩寝室へ入ったクラーラがくるりと体の向きを変えて、おやすみなさい、と言おうとしたその頬を、ジューリオの左手がとらえた。クラーラが、ん? と思った時には目の前に黒髪があって、唇に柔らかいものが触れた。
「!?」
がばっと大股で一歩後ろに飛びのいたクラーラを見て、ジューリオが悪い顔をして口の端を上げた。
「十か条のひとつ、おはようおやすみのキスは欠かさない、でしょう? ……おやすみ、クラーラ」
ジューリオの長い指がするりと頬を撫で、ドアがぱたりと閉まった。クラーラは耳から首まで真っ赤になったまま、床に倒れた。
自分のものになったらわりと手の早いジューリオ




