王家の森で②
「エルネスト兄様がここに来る気持ちが少しだけわかる気がするわ」
気持ちはわかるが、今はとても落ち着かない。なぜならすぐそばに婚約者候補がいるからだ。ここでもし断られたら、平気な顔で帰れる気がしない。とはいえ、馬で来た以上は馬で帰らなければならない。ということは、何があってもジューリオに連れて帰ってもらわねばならないのだ。
アスティ様は優しいから、きっと傷付くようなことは言わないはず。
片や国随一の騎士、片や側妃の出戻り末姫。考えれば考えるほど、ジューリオには得がないように思える。
「あ! 私、お弁当作ってきたんです。持ってきますね」
「殿下はそのままで。取りに行くついでにレガーロに水を飲ませて参りますので」
すばやくジューリオが立ちあがりレガーロの元へ行ってしまったので、クラーラはタイミングを失いその後ろ姿を見ているだけだった。
ジューリオはレガーロに括り付けていた荷物を手際よく外し、水を飲ませていた。レガーロは満足したのか、足を折りたたんで草むらに座って落ち着いている。
ジューリオの持ってきたバスケットを受け取り、クラーラはふたを開けて後悔した。仕事終わりのジューリオにたくさん食べてもらいたくて、バゲットサンドにしたのだ。具もたくさん入れられて食べごたえはあるのだが、大きな口を開けて食べなければならない。
「アスティ様、全部どうぞ」
「殿下は食べないのですか?」
「わ、私は、お腹空いていないし! アスティ様の為に作ったのですし!」
「そうですか……。殿下が食べているところを見るのが好きなのですが……残念です」
ジューリオがそう言って目を伏せた。
「そうなの? じゃあ一個だけ頂こうかしら」
「はい。お好きなものを、先にどうぞ」
そっかあ、すすすすす好きなのかあ。これはもうおいしそうに食べて存分に見てもらって、すすすすす好きに、す、好きに……なってもらいたい。
スクランブルエッグの入ったバゲットサンドを手に取り、なるべく小さな口で上品にかじる。んー、おいしい。王城の厨房のフライパンは大きくて使いやすいから上手に作れたのよねえ。卵も新鮮だったし。と、気付いたらバクバクと大きな口で食べていて、残り一口になっていた。しまった、とおそるおそる振り返ると、ジューリオが二個目を食べながら楽しそうにクラーラを見ていた。目が合うとにっこり微笑まれた。クラーラは最後の一口を口に放り込み、目を逸らした。
ジューリオはバスケットからナプキンを取り出し、クラーラの口元をそっと拭いた。
「わわわ、ありがとう。ついてたかしら?」
「ええ、玉子は口につきますよね」
あああ、気遣いが余計に心に痛い。しかも微かにくすりと笑われた気もする!
クラーラは頬の熱さを隠そうと両手で顔を覆おうとしたが、その手にさっと水筒を持たされた。うながされるまま水筒の果実水を飲み、ほっと一息ついた。
ジューリオはとても気が利く。エルネストに重用されている理由がわかる。
食事はあっという間に終わり、二人は黙ったままだった。視界にあるのは空と木と草。それだけ。クラーラは視線を彷徨わせ、最終的には雲一つない空を見上げることにした。
「抜けるような青空ってこういう空のことを言うのかしらね」
「……」
「……?」
返事がない違和感に、わずかに首を動かし後ろのジューリオを窺うと、彼は腕を組み左の握りこぶしを顎にあて難しい顔をしていた。きっと言葉を選んで選んで、見つけられないでいるのだろう。クラーラは自分のことなんかで悩ませているのが申し訳なくなった。
「あの、アスティ様。断っていただいていいんですよ? とっても大切なことだし、一生にかかわることですし、もし断ったとしても待遇が変わるなんてこと、兄様たちはしません。私じゃなかったら、ほ、ほっ、ほかっ、他のっ、素敵な女性を探してくださるそうなので……私のことは気にせずに、私は大丈夫ですから、アスティ様のお気持ちのままに」
「ちょっと待ってください。何の話ですか」
ジューリオに腕を掴まれ、クラーラは涙目の顔を上げた。
「何って、兄様から私との結婚を打診されたのでしょう?」
「ああ、やっぱりその話ですか」
ジューリオはそのままクラーラの手を引き、あぐらをかいた自分の膝に乗せた手のひらの上に置いた。手をつなぐわけでもなく、かと言って離すわけでもなく。微妙な距離感に、クラーラはあっという間に頬が赤くなっていった。
「私がクラーラ殿下を拒むことはありえません」
ありえない、という言葉を選んでくれたことに、クラーラはつい心が跳ねてしまった。
「すみません、ちょっとこういうことに慣れていなく……うまく伝えられるかわからなかったので少しぼうっとしてしまいました。失礼な言葉を使ってしまうかもしれませんが、ご容赦ください」
「いいんです、おっしゃってください」
結婚の否諾にそんなに言葉を選ぶことがあるだろうか、とクラーラは覚悟を決めて頷いた。
「エルネスト殿下からクラーラ殿下との婚姻の打診を頂いたとき、とても嬉しかった。ただ、次の瞬間には、私としては与えられるのではなく、自分で望みたいと恐れ多くも思ってしまいました」
「与えられるのではなく……?」
「……エルネスト殿下が、私が騎士団の蛮族狩りに参加したことや、バジョーナ国へ随行した件を評価してくださり、褒賞を与えてくださると。騎士として当然のことをしただけですので辞退したのですが、やはり頂こうと思います」
急に何の話!? とクラーラが目を見開く。騎士団の蛮族狩りに参加したの!? なぜ? というか、蛮族が来たの!? いつ?
「褒賞として、クラーラ殿下を賜りたいと思うのですが、いかがでしょうか」
「ホウショウトシテ……タマワル……」
言葉の理解が追い付かなくなっているクラーラに、ジューリオはとろりと優しい目を向けた。
「私のような者が、クラーラ殿下を望んでもよろしいでしょうか」
クラーラは思わず肩を揺らし、乗せていただけの手でジューリオの指先をぎゅっと握った。口をぱくぱくさせて言葉にならないクラーラの様子にジューリオは少し笑い、手を握るでもなく親指をそっとクラーラの指先に添えた。
クラーラはジューリオのこの目に弱い。
儚げを演じている王女の時も、取り繕わないただのクラーラの時も、変わらない優しい瞳。
いつも辺りを警戒するような鋭い切れ長の目が、クラーラの前でだけはこうなるのだ。
いつまでも変わらずに、このままの瞳で見つめてもらいたい。
国の為になるように生まれてきた王女ではあるが、それを望んでもいいのだろうか。
「私なんかが褒賞になるのかしら」
クラーラがおずおずとつぶやく。
「これ以上ない僥倖です」
ふわりと温かい風が草原を抜け、クラーラの襟足のおくれ毛を揺らした。微かに木の葉が擦り合う音がする。
「殿下はただ、許可してくださればいいのです」
ジューリオの言葉に背中を押されたような気がして、クラーラは頷く。
「私で良ければ、もらって下さい」
クラーラが握っていたジューリオの指にきゅっと力を入れると、応えるように指先だけで握り返してくれた。
触れている指先が熱い。
どんどん頬が、顔が熱くなってきて、耐えられなくてうつむいた。そのまま蹲ろうとしたら、肩を引かれてジューリオの胸に押し付けられた。
ジューリオはクラーラの頭を抱えるように柔らかく抱きしめ、髪を撫でた。
「一生大切にします」
耳元で囁かれ、クラーラはもう限界だった。
ジューリオの腕から逃れようともたもたともがいたが、緩く巻かれた腕は許してくれなかった。見えないけれど、ジューリオがほほ笑んだ気配がした。
「見張りの塔から見えてしまうわ」
「番兵は近衛騎士です。他言は致しません」
「そそそそういうことじゃなくて」
「大丈夫です。見せつけてやりましょう」
大丈夫って、私が大丈夫じゃないんですーーー!
それでももがいてやっと、ジューリオは腕を離してくれた。茹で上がった顔を両手で押さえてしばらくの間、悶絶していた。
「そろそろ戻りましょうか」
クラーラの様子を見て笑っていたジューリオが、ふと空を見てそう言った。つられて空を見上げていたら、手を差し伸べられた。そのまま手を引かれ、レガーロの元へ連れて行かれる。ジューリオは手早く荷物を括り付け、クラーラを抱えるとすんなりと馬の背に乗った。
「やっぱり騎士様はすごいですわね!」
「殿下は軽いので」
レガーロは来た時と同じようにゆっくりと足を運び、草原を歩き始めた。クラーラは見上げるように後ろのジューリオを振り返った。
「ねえ、私たち、け、結婚するのだから、殿下はやめましょう。名前で呼んでくださって結構です」
「……善処いたします……」
「また連れてきてね」
「かしこまりました。クラーラ……様」
王城まではまだ距離がある。誰もいない二人だけの時間が、できるだけ長く続けばいい。クラーラはレガーロのたてがみを撫でた。気持ちが伝わったのか、レガーロは首を揺らし、ゆったりと楽し気に足を進めた。
クラーラが目を開けると、そこには見慣れた天蓋があった。
「えっ!? まさか夢!?」
がばりと起き上がって見回せばいつものクラーラの寝室だった。窓は茜色に染まっていて、これが朝焼けなのか夕焼けなのかわからなかった。
布団をめくり、あわててベッドから下りてふと自分の足元を見た。乗馬服を着ていることに気付いて、胸をなでおろす。
レガーロに乗って王城に戻る途中で記憶が途切れている。お日様が暖かくて、揺れが心地よくて、体重を預けてもびくともしない背もたれに安心して、うとうとしていたのは確かだが熟睡してしまうとは。
多分と言うか間違いなく、背もたれにしてしまったジューリオが寝室まで運んでくれたのだろう。
「わあああああ……」
せっかくお出かけに誘ってくれたのに途中で爆睡してしまうなんて!
クラーラが床で蹲って頭を抱えていると、寝室のドアが開きリーチャが顔を覗かせた。
「クラーラ様、起きました? ……何してるんです?」
「……リーチャ、今何時?」
「夕方ですよ。もうすぐ夕餉の時間です。どういう状況か理解いたしましたが、とりあえず着替えましょうか」
「うん……」
リーチャの手を借りて普段着のワンピースに着替える。レガーロが優秀だったとは言え、お尻は全く痛くなかった。さすがアンナ姉さま、あの乗馬服、使える……。
「あ、じゅ、えっと、……アスティ様は、今は、どちらに」
「アスティ様はクラーラ様を寝室まで運ばれた後、すぐにお帰りになられましたよ。明日は早朝からエルネスト殿下の視察に同行予定なので来られないとおっしゃってました」
「兄様ったら休みも与えずに働かせすぎよ! 近いうち兄様に面会を申し込んでおいてくれる?」
「あらあら、かしこまりました」
リーチャが嬉しそうに含み笑いをする。
「何よ」
「うふふ、何ですか」
「リーチャこそ何よ」
「クラーラ様ったら、急に奥様らしくなられて」
「えっ、アスティ様が何か言ってらしたの!?」
「いえ、何も。そうですか、ご結婚決められたのですね」
「誘導したわね!」
「クラーラ様ったら分かりやすいんですもの」
「ぐぬぬ……」
脱いだ乗馬服を畳み、それを両腕で抱え込むと、リーチャは深く頭を下げた。
「おめでとうございます。お幸せに」
「……まだ、正式に決定されたわけじゃないわ。これから陛下の所に行くから。でも、……ありがとう」
「これからも誠心誠意、お仕えいたしますわね」
「落ち着いたらリーチャの旦那様も探してあげるわね」
「まああ、素敵な旦那様がおありになる方は余裕がございますわねっ」
リーチャと笑い合っていると、ぐうう、とお腹がなり、また笑った。夕餉を早めてもらいましょう、と部屋を出るリーチャの後ろ姿を見ながら、クラーラはこれから始まってゆく新しい生活に想いを馳せた。
やっと、です。




