一年前
コラフラン王国には、黒にも見える濃紺の美しい髪に黒い瞳の美しい王女がいた。第二側妃の娘で、名はクラーラ。上に腹違いの姉二人、兄二人がいる末の王女で、病弱であまり表には出てこず、公式行事に参加しても控えめに姉兄の陰に隠れている。俯きがちにほほ笑む様子が、可憐でありながら泡のように儚く消えてしまう人魚姫のよう、と言われていた。
母は元は王妃付きの侍女で、王から望まれ断り切れずに側妃となった。側妃となってからも王妃への忠誠心は誓ったままで、与えられた離宮からはほとんど外出することなく、娘と二人でひっそりと暮らしていた。
ある天気の良い午後、クラーラは王宮の王妃の部屋に呼び出された。離宮を出るのは久しぶりだったので、窮屈なコルセットに新しいドレスを着た。これは先日の18歳の誕生日プレゼントに王妃から贈っていただいたドレスだ。
警備の騎士に案内され入った王妃の部屋には国王と王妃が並んでソファに座って待っていた。クラーラは優雅に礼をする。
「久しぶりね、クラーラ。かしこまらなくていいわ。座ってちょうだい」
「ご無沙汰してしまって申し訳ありません。本日はお招きありがとうございます」
「ドレス着てくれたのね、とっても似合うわ」
王妃と王が視線を合わせてにっこりとほほ笑む。その様子につられてクラーラも口の端が上がる。
「素敵なドレスをありがとうございました」
「いいのよ、私はかわいい娘を着飾るのが大好きなのよ」
侍女が紅茶をテーブルに置くと、すっと静かに部屋を出た。部屋には王と王妃とクラーラの三人だけになった。
「今日は、あなたに大切な話があるの」
王妃がちらりと王を見やる。王は寂し気に目を細めてクラーラを見ていた。なかなか口を開けないでいる王に、クラーラは確信した。
「陛下?」
話を促すように首をかしげると、王がやっと話し出した。
「クラーラ、お前をバジョーナ国に嫁に出すことにした」
側妃の娘ではあるが第三王女であるクラーラは、いつか自分も国のために政略結婚をすることになるであろう、と覚悟を決めていた。そして、王の様子からそれが決まったという事に気づいた。そして、それがあまり好ましくない相手であることも。
「かしこまりました。ありがとうございます」
「相手は聞かぬのか」
「いつでも結婚する覚悟はできておりました。この国のためになるのであれば、どのような方でも」
王と王妃が困ったようにすうっと目を細める。
「相手はバジョーナ国のレミーオ・キエガ公爵だ。次期宰相と言われておる優秀な男だ」
「公爵様ですか。かしこまりました」
「あっさりしてるのね。自分の旦那様になる方よ? 気にならないの?」
「国のためになるのであれば、どのような方でも」
王妃が頬に手をあてて考え込む。王がそんな王妃をチラチラと見る。
「……何かしら問題のおありになる方なのですね?」
「うーん、ちょっとだけね。ちょっとだけ」
王妃が右手の親指と人差し指で、ちょっとだけ、のポーズを取っている。王が咳払いをして、背筋を伸ばした。
「キエガ公爵は非常に温厚で人望が厚いと評判の公爵だ。幼少の時分から神童と言われ、優秀なまま王の側近として仕え、次期宰相に内定している。人柄、身分については問題のない方である」
「では、周りの方に問題がおありになると」
「さすがクラーラ。公爵には愛人様がいらっしゃるの」
王妃がさらっと言った。
「あ、愛人?」
「しかも3人」
「さんにん!?」
「もちろんクラーラは王女だからね、嫁ぐとしたら正妻よ」
さすがに、ぐう、と黙ってしまった。聞かなきゃよかった。
「全員を平等に愛でられる公爵様のお人柄のおかげか、その愛人様お3方はとっても仲良しでいつもお庭でお茶会なさってるそうよ。楽しそうでしょ」
「はあ」
「お屋敷はいつも笑い声が絶えない平和なご家庭らしいわ」
「ほう」
側室が二人いるせいか王が若干肩を縮こませている。
クラーラはあごに指を置いて少し考える。側室の娘である自分にはお似合いの旦那様なのかもしれない。そもそも政略結婚に何かしらの問題は付きものである。
「かしこまりました。国のためになるのであれば」
三回目である。
早く離宮に戻ってバジョーナ国の勉強をしたい。隣国なのである程度の知識はあるが、そこに住むためにはまだまだ足りない。
「政略結婚ではあるんだけど、それだけじゃないの」
王妃が優しい笑顔でクラーラを見つめた。
「クラーラは真面目なダニエラの教えを守ってほとんど外に出ないから、同年代のお友達がいないでしょう。これからどこかの貴族に嫁いだとしても、貴族同士の探り合い足の掬い合いばかりでお友達と知り合うきっかけなんてないと思うの。きちんと私たちも内偵を入れて調べた結果、愛人様お3方は噂通り仲良しだったわ。お家に仲良のいい同年代の女性がいるって、とても心強いのではないか、と私は思ったのよ」
ふう、と一気に話した王妃は息を吐いた。
王妃はいつもクラーラのことを心配してくださる。昨年母が亡くなってからは、特に。
「それにね」
紅茶を一口飲んで喉を潤した王妃が、凛とした表情で言う。
「愛人が何人いようとそんなこと気にならないくらい、イケメンなのよ」
クラーラは固まった。王妃は一体何を言っているのだ。
「公爵様は、ものすっごく、イケメンなのよ」
王妃ははっきりとそう断言すると、紅茶を飲み干した。隣で王が遠い目をしている。
「……ジネビラ様のお話、よぅく分かりました。国のためになるのであれば、喜んで嫁がせていただきますわ」
四回目である。
王妃の話をまとめるとこうだった。
昨年、とある国で会議があり、それほど重要な会議ではなかったので王と王妃は旅行気分で二人で訪問したそうだ。その際、バジョーナ国王に側近として仕えるキエガ公爵と出会ったらしい。その人柄と優秀さ、特に顔にほれ込んだ王と王妃はクラーラの伴侶候補として密かに調査を始めた。そして、あっさり愛人が発覚。あっさりもなにも、愛人は全く隠されていなかったのだが。
こりゃだめだ、と一度はあきらめたものの、愛人3人が公爵と仲良く暮らしている平和な状況がどうしても気になる。気になりすぎて、むしろ、クラーラにぴったりなんじゃないか、と思い始めた。公爵とクラーラとの間にならそれはもうかわいい孫も期待できる。それとなく公爵と接触し、非公式に打診してみたら二つ返事で「いいですよー、楽しい毎日になりそうですー」的な返事が返ってきたそうな。
離宮に戻り、いつもの楽な服に着替えたクラーラはベッドに腰かけた。
いつかは政略結婚すると思っていた。上二人の姉はすでに嫁いでいる。もちろん姉たちも政略結婚ではあったが、王と王妃が選びに選び抜いたお相手だったので今でもとても仲睦まじく暮らしていらっしゃる。
だから、そろそろ自分の番だと覚悟はしていた。
昨年、流行病で母を亡くした時、一番初めに思ったことだ。
王と王妃、姉兄にかわいがってもらってはいるが、側妃とはいえ守ってくれていた母を亡くした自分の身の頼りなさは十分わかっていた。
大切にしてもらえるのであれば、一番でなくたって。
自分だけ、だなんて、私には過ぎた願いだわ。
クラーラはしばらく天井を見つめたあと、ぴょんとベッドから飛び降りソファにかけてあったエプロンをつけた。
「こんな時は掃除にかぎるわ!」
髪を適当にひとまとめにし、廊下へ駆け出す。いつものように離宮のメイドたちの輪に加わる。じゃあ私はこっちね! と慣れた手つきで天井まである廊下の窓を拭き始める。
窓拭きは一番好きな家事だ。
きれいに磨いたガラス越しに見る城下の街並み。あの屋根の下にはどんな人が住んでいるのだろう。どんな暮らしをしているのだろう。城壁を超えればすぐそこなのに、この離宮の窓を隔てるだけでそこはとても遠い。まるで恋慕するように、クラーラはうっとりと外を眺めた。
母のダニエラは元は王妃の専属侍女だった。
王妃ジネビラは王女のアンナと王子のエルネストを産んだ後、病で子供を望めなくなった。王子が一人では心もとないと言う声が上がり、同盟国の公爵の娘だったパトリツィアが側妃となった。パトリツィアは王女のアマリナと第二王子のアウギュストを産んだ。それでもまだ念のため王子がもう一人欲しい、と貴族の間で側妃の座を狙う争いが起きた。もういい加減面倒になって「退位しちゃおうかな」と言い出した王を見かねて、王妃が一番信頼している侍女のダニエラを側妃に推薦したのだった。クラーラが生まれた頃には、王子二人も健康に育っていたのでこれ以上の側妃の話は持ち上がらなくなった。
自分はあくまでも王妃様を支える影であると言っていたダニエラは、娘にも同様に教育をしていた。クラーラは決してでしゃばらず、どうしても出席しなければならない公式行事に出る際も、姉たちよりも地味なドレスを選び、一番端の一歩後ろに並んでいた。色白で細身の体形に加えて、挨拶もそこそこにすぐに裏にひっこんでしまう彼女の姿は滅多に見られないこともあって、彼女は病弱で控えめなおとなしい姫とされていた。
だが、実際はこうして元気よくモップ掛けをし、スカートをまくり上げて階段掃除をするような健康そのものの姫であった。
ダニエラは娘を姫ではなく一人の娘として育てた。
側妃の娘なんていう不安定な立場にあぐらをかいてはいけない、いつでも一人で生きていけるように、としっかりと家事を教え込まれた。メイドの仕事を奪わないように気を付けながら、いつもみんなと笑いながら家事をこなしていた。
この楽しい日々も、あと一か月で終わるのね。
クラーラは朝からメイドたちと庭でカーテンの洗濯をしていた。スカートをまくり上げて踏み洗いをしていたら、屋敷の方から騒がしい声が聞こえてきた。
「あーーっ、見てよ、兄上。クラーラのやつ、またメイドと一緒になってあんなことして」
「ははは、涼しそうだな、クラーラ」
「兄様!」
クラーラは足についたせっけんの泡を払いながら二人に駆け寄った。
「ごめんねえ、みんな。ちょっとクラーラを借りていくよ」
アウギュストが洗濯をしているメイドたちに愛想良く手を振る。メイドたちは頬を染めながら頭を下げた。
「朝からお二人揃って離宮にいらっしゃるなんて、めずらしいですわね」
「そりゃあ、クラーラが嫁に行くって聞いたから、あわてて駆け付けたんだ。そうしたら途中で同じように離宮に向かっているアウギュストに会って、一緒に来たんだよ」
もう皆知ってしまったのか、とクラーラは少し照れた。兄たちの前ではまだ子供のような気持ちでいたので、自分の結婚の話をされるのは何だか面映ゆかった。
「そうだよ、クラーラ。俺たちは結婚を止めに来たんだ」
「「えっ?」」
クラーラとエルネストがそろって驚いた。そのことにアウギュストが驚いた。
「アウギュスト、お前結婚に反対なのか」
「兄上はこの結婚に賛成なの?」
「クラーラがいいのなら」
「まじで? 愛人いるんだよ、相手の公爵」
「まあ、貴族と言うのは愛人を持っている者も少なからずいるからな」
「いやいやいや、最初っからいるとかないでしょ」
「クラーラは正妻として迎えると言っているのだろう」
「最終的にイケメンは正義ってジネビラ様は言ってたけど、結婚てそういうもんじゃないだろ」
「女性にとってもそういうものなのではないか?」
王宮に帰ってからそういうのやってくれないかなあ、面倒くさいなあ。と思いながら、クラーラは自分で淹れた紅茶を飲んだ。しかも二人が自分の幸せを考えてくれているだけに邪険にしにくい。
「クラーラは本当にそれでいいの?」
アウギュストはそう聞くと、冷めかけた紅茶に手を伸ばした。
「国のためになるのであれば、私は何でもかまいません」
「そんなことは考えなくてもよい!」
エルネストが声をあげた。
「私たちも息災だし、姉たちも嫁ぎ先でうまくやっている。クラーラは末っ子らしく国のことより自分のことを考えればよい」
「そんなわけにはいきません。私も王女の端くれです。少しでも国のお役に立たないと」
エルネストとアウギュストが顔を見合わせる。
「あーあ、ダニエラさんの教育が行き届いちゃってるなあ。クラーラは好きな奴とかいないの?」
「いません。ここからほとんど出ませんので、出会いなんてありませんもの」
「……なかったのかあ」
アウギュストが、クラーラ的にはまだなのかあ、とかつぶやいて頭を抱えている。エルネストが咳払いをして場を正す。
「現時点では、キエガ公爵が一番有力なのであろう。王と王妃がかなり悩んで決めたようであるから」
「確かにね。でも、もうちょっと待ってやってくれないかなあ」
「クラーラをいつまでも離宮に一人で閉じ込めておくわけにいかないだろう」
二人はこそこそと話し合っているが、エルネストの声が大きいので丸聞こえだった。まるで、他にも候補がいるような言い方である。
「愛人の方々も私と仲良くしてくれるそうなので、私も正直なところ、結婚生活よりも同年代の女性と楽しく暮らすことの方が楽しみなのです」
「クラーラがそう言うのならば、応援するしかないであろう」
「……どう考えてもろくな男じゃないと思うけどなあ」
「アウギュスト兄様が何を言おうと、もう決まったことですもの。来月バジョーナ国に行きますわ。早めに行って愛人の皆様たちと仲良くなった方がいいとのことで。結婚式には来てくださいね」
「「もちろん」」
アウギュストは最後まで不満そうだったが、エルネストに引きずられるようにして帰って行った。
私はどこへ行ったって大丈夫。
クラーラはバジョーナ国の歴史書を開き、嫁ぐための勉強を始めた。