二人きりの夜①
閉店後の掃除を終え、クラーラはエプロンを外しながら窓の外を見た。
アスティ様が護衛で残ってくれるって言ってたけど、どこにいるのかしら。
てっきり店で待っていてくれると思ったのだが、アウギュストと一緒に帰ってしまった。わがままなアウギュスト兄様をちゃんと送り届けてから戻ってくるのかもしれない、カルロ様との引継ぎが滞っているのかもしれない。兄様のわがままのせいで。
クラーラはゆっくりとドアを開けた。命を狙われているかもしれないので、すぐには飛び出さず、そっと外の様子を窺うように頭だけを出した。
すぐに頭の上から影が降りてきて、ドアを押さえられた。はっとして顔を上げると、ジューリオが無表情で立っていた。
「アスティ様」
「お送り致します」
振り返ると、カウンター越しにグレタとマウロが心配そうにこちらを見ていた。笑顔で手を振ると、二人はほっとしたように手を振り返した。
「お送りすると言っても、家は店のすぐ裏なのよ」
「一歩でも外に出られるのならば、護衛いたします」
「今到着なさったのですか?」
「いえ、店の前でカルロと交代した後、この付近を見回っておりました」
「まあ、お店で待っていてくださればよかったのに」
「邪魔になりますので」
短い会話を交わせばすぐにクラーラの部屋につながる階段へ到着してしまう。
「私は部屋の見える場所で待機しておりますので、殿下はいつも通りお過ごしください」
家を監視していると宣言されていつも通りに過ごすなんて無理だわ。
クラーラは思ったが、この真面目そうな騎士には何を言っても無駄だろう。ほほ笑みながらうなずくと、部屋へと続く階段を一気に駆け上がった。ドアがきちんとしまるまで、ジューリオが見ていた。
玄関ドアの鍵をしっかりとかけ、縛っていた髪をほどいた。鏡を見たら、泣いたせいか目がうっすらと赤く腫れている。先にお風呂に入ってから晩ご飯を作ろう。
夜が更けてきて通りは人通りが少なくなってきた。この辺りは住宅地ではないため、店が閉まるとしんと静まり返る。店の向こうの大通りをゆっくりと馬車が走る音が響いていた。怪しい足音も気配も今の所ない。月明りから隠れるように、ジューリオは小さな路地に佇んでいた。ここからならクラーラの部屋を見守ることができ……。
「!?」
部屋の窓の向こうで、クラーラがきょろきょろと外を見ている。暗いこちらからは、彼女の表情ですらよく見えてしまう。
何かあったのか!?
ジューリオが通りから飛び出すと、クラーラがはっとしてこちらを向いた。そして、……笑顔でこちらに手招きしていた。
目立った真似はしないように、と言ってあるのに……。
ため息をつきながら玄関に向かうと、クラーラが勢いよくドアを開けた。
「アスティ様、晩ご飯まだでしょう? 一緒に食べましょう」
エプロンをしたクラーラを前に、ジューリオががちりと固まった。
「ささ、どうぞ、入っていらして」
「いや、あの、クラーラ殿下」
「寒いから早くドア閉めてくださいな」
「あ、はい」
素直に玄関に入りドアを閉めるジューリオ。ぱたぱたと足音を立てて台所へ走るクラーラの後ろ姿に思わず見とれてしまった。
「殿下、私は結構です。それに、恐れながら、無暗に窓に近付かないようにしてください。外からは明るい室内がよく見えますので」
「あら、いつも通りに過ごすんでしょう? 私はいつもそこの窓から外を見るのが日課なのよ。アスティ様、好き嫌いはないのかしら。と言っても、選べるほど食材はないんだけど」
「いえ、殿下」
「食べてもらわないと困るわ。たくさんシチュー作ってしまったし、お肉もたくさん焼いたわ。アスティ様が食べてくれないと、私3日間これを食べ続けないといけなくなるわ」
クラーラが悪い顔で、ふふふ、と笑う。何となくアウギュストに似ている。観念したジューリオが、一応服のほこりを払ってから部屋におそるおそる入ってきた。
「何かお手伝いできることはありますか」
「そうねぇ……あ、そろそろ冷えてきたから、暖炉に火を入れてもらえるかしら」
「かしこまりました」
「お願いね」
薪を並べながら、ジューリオはちらりと部屋の様子を確認した。必要最低限の簡素な家具、ところどころ床のきしむ古い部屋。
このような小さな部屋でひとりで暮らしていたとは。
それでも、室内は見渡す限り清潔に磨かれていて、毎日自分でせっせと掃除していたのかと思うと、胸がぎゅっと締め付けられた。
鍋がぐつぐつ煮える音とパチパチと薪が爆ぜる音が絡み合うように部屋を満たしていた。
鍋の火を止めたクラーラが、おもむろに一人掛けのテーブルを音をたてて引きずり始めた。
「どちらへ動かしますか? 私がやります」
「まあ、アスティ様ありがとう。ベッドの脇に置いてくださる? 椅子が一つしかないから、私はベッドに座ろうと思います」
「いえ、私は立ったままでも大丈夫ですので、殿下が椅子をお使いください」
「アスティ様、立って食べるなんて行儀が悪いわ。温かいうちに一緒にいただきましょう」
「いえ、私のような者が殿下とご一緒するわけにはいきません。それから、名前も呼び捨ててくださって結構です」
「アスティ様、いいえは禁止します!」
クラーラが胸の前で腕を組んで頬を膨らませた。
か、かわいい……。
ゆるみそうになる口元を手で押さえ、ジューリオは目を逸らす。それを聞かないふりをしていると思ったクラーラが一歩前に踏み出した。つられてジューリオが一歩下がった。そしてもう一歩。二歩。狭い室内で壁に追い詰められるジューリオ。じりじりとした攻防を制したのはクラーラだった。
「さ、一緒に食べましょう、アスティ様。椅子におかけになってください」
「……はい」
ごろごろと大きく乱雑に切られた野菜の入ったシチュー。少し焦げた肉。ちぎっただけのサラダは彩りよく盛られている。初心者ながらも丁寧に作ったのがわかる手料理に、ジューリオは感動していた。
もうこれだけで胸がいっぱいで食べられそうもない。どうにかしてこのまま持ち帰り家宝として代々……。
思考がおかしな方向へ向い始めたところで、シチューの湯気の向こうでクラーラが期待に満ちた瞳でこちらに微笑んでいるのに気づいた。
「たくさん食べてくださいね! パンはね、今日店で焼いたものをもらってきたからまだ柔らかいですよ」
籠に山に盛られたパンに視線を移した後、ジューリオは鼻から静かに息を吸い心を鎮めた。これは任務だ、課せられた任務を遂行するのみ。クラーラには焦点は合わせない。外に怪しい気配がないかそちらに神経を集中させる。
クラーラっぽいシルエットの何かが、今日の賄いがおいしかった、とか、鍵屋のじいさんは普段足元もおぼつかないのに道路を渡る時だけスタスタ歩く、とか、他愛もない話を楽し気に話している。頬を膨らませてもぐもぐしながら喋るかわいらしい姿に思わず焦点を合わせてしまいそうになるが、ぐっとこらえた。
喋ってないで手を動かしなさい、と食事の際はよく母に怒られたものだった。クラーラは初めての来客に高揚していた。バジョーナ国は同じ言語を話すとは言え、久しぶりに聞くコラフラン王国特有の言葉が懐かしく、それが拍車をかけて浮かれていた。行儀が悪いと思いつつも、しゃべり始めたら止まらなくなってしまった。
確かアスティ様は伯爵家のご出身だったわね。
騎士には無骨なイメージを抱いていたが、ジューリオの食事の所作の美しさに貴族の品の良さが表れていた。
「アスティ様は変わりませんね」
「えっ……そ、そう、ですか」
テーブルや窓の外にばかり視線を向けていたジューリオが、一瞬クラーラを見た後すぐに目を逸らし、一拍置いた後、再び静かに食事を開始した。
アスティ様は変わらない。
儚げな人魚姫と呼ばれているクラーラは、実際はそうではない。護衛にやってきた騎士が密かにがっかりしていることも多々あった。しかし、彼は夜会で大人しくしているクラーラにも、離宮で兄とのおしゃべりにはしゃぐクラーラにも、いつも変わらない優しい瞳を向けてくれていた。この侘しい部屋の質素な暮らしぶりを知っても、不憫そうな顔をしたり軽蔑したりしない。クラーラだけを見てくれる。それが心地よくて、ついついクラーラは食べる手を止めて話しかけてしまうのだった。
すっかり庶民感覚のクラーラ




