何もないわけがない
早朝からマウロが厨房で仕込みをしているので、暖炉の火は消えているがクラーラの部屋はほんのり暖かい。グレタの娘が子供の時に着ていたという毛糸のカーディガンを羽織れば何とかなる暖かさだ。ちなみにこれはグレタの手編みらしい。子供用と言っていたが、細身のクラーラには少し大きいくらいだ。一度会ったことのあるグレタの娘はすでに子供を産んだはずなのに、グレタくらいウエストがあった。
今日の朝食はベーコンエッグと野菜の切れ端のサラダだ。固いパンは昨日の夜でなくなってしまった。今日もパンが売れ残るといいなあ、と不謹慎なことを思いながら固いベーコンをはぐはぐと噛みちぎった。
いつものブラウスとスカートに着替え、家を出て階段を駆け下りる。玄関前の掃除をしている近所の店の人たちに元気よく挨拶をしながら銀のかわうその扉を開けると、ふわりと焼きたてのパンの香りがした。
「ふわ~~! おいしそうな香り~~幸せー」
グレタとマウロが満面の笑顔で迎えた。
涙目で山になった玉ねぎを刻み、それが終わったらひたすらエビの殻を剥く。灼熱のオーブンとぐつぐつ煮立つ鍋の前で汗だくで働いているマウロを見たら、弱音なんて吐いていられない。クラーラは無心で手を動かした。
「ララ、そろそろ店を開けようか」
「はい! ドア開けてきまーす」
クラーラはエプロンで手を拭きながら、ドアの鍵を開けて看板をくるりとまわして『営業中』に変えた。
「ん?」
何だか視線を感じて振り返ったが、誰もいなかった。店に戻ろうとすると、走ってくる足音が近づいてきた。
「ララさーん、今日のランチは何ですか?」
「ディートハルトさん。おはようございます。今日はお魚のフライです」
「魚のフライかあ。とりあえずモーニング食べて考えます」
「お肉派ですもんね。いらっしゃいませ、どうぞ。グレタさーん、ディートハルトさんにモーニングお願いしまーす」
ディートハルトは朝食と昼食をたいていこの店で済ませる。夜もわりと来る。
男爵家のご飯はあまりおいしくないのかしら。でも、豪商の家なのだから、そこそこ良いものが出ると思うのだけれど。
ディートハルトをカウンターのいつもの席に案内しているうちに、次々と客が入ってきて、クラーラは考え事をする暇もなくなってしまった。
ランチの時間にはディートハルトは来なかった。他の店でお肉のランチを食べたのかもしれない。クラーラは遅めのお昼の賄いを食べ終わり、皿を洗うと客もまばらな客席へ出た。暇なときにもう一度きちんとテーブルを拭いておこう。
鼻歌を歌いながら付近でテーブルを拭いていると、カラン、とドアの開く音がした。
「いらっしゃいま、せええええええええー?」
クラーラが奇声を発しながら椅子をぶっ倒してしまったので、グレタがカウンターから飛び出してきた。
「ララ! どうしたんだい!」
「ご、ごめんなさい、ななななな何でもっ、ないですっ」
「それで何にもなかったら逆にびっくりだよ!」
ドアの前には地味目な服を着たアウギュストが片方の口の端をゆがめて立っていた。一歩離れた後ろには、護衛の騎士が緊張した面持ちで控えている。
あら、あの方は。
目立たない服装を着ていたとしても、アウギュストは佇まいで高位貴族だと分かってしまう。護衛騎士を連れている時点でバレバレであった。何かを察したグレタが、一番奥の人目につかない席に二人を案内し、クラーラにコーヒーを二つ持たせた。
「ララ、あんたも飲むかい?」
「いえ、喉を通りそうもありません……」
あわわ……覚悟していたとはいえ、こんな急に迎えが来てしまうなんて……。
始まってしまった終わりに、クラーラは手の震えが止まらなかった。コーヒーカップがカチャカチャ鳴ると、グレタが優しく腰を撫でた。
「しっかりおし。どうなったって、あんたには私たちがついてる」
クラーラが涙目でうなずくと、グレタがいつものように、がはは、と笑った。彼女の奥歯を見たら、なぜだか手の震えが少し収まった気がした。
アウギュストはいつものように足を組んで偉そうに椅子に腰かけている。その隣で、ジューリオが居心地悪そうに座っていた。
コーヒーを二人の前に置き、クラーラはアウギュストの向かいの席に座った。
「いやあ、コーヒー久しぶりだな」
アウギュストはカップを手に取り、コーヒーを一口飲んだ。
「あら、誰ともわからない人が淹れた物を口にするなんてめずらしいですわね」
「ララ、が持ってきてくれたんだ、信用するさ」
ララ、とはっきりと発音されたことで、クラーラが説明するまでもなくアウギュストが全てを知っていることを悟った。気まずくて顔を背ければ、瞬きもせずにじっとコーヒーを見つめるジューリオが視界に入った。
「あの、アスティ様は、エルネスト兄様の専属ではありませんでしたか? 配置換えがあったのですか」
ジューリオがはっと顔を上げる。頬にさっと朱が入ったかと思ったら、すぐに横を向いてしまった。
「……今回のみ、特別にアウギュスト殿下の護衛として随伴いたしました」
「特別に? なぜ?」
クラーラがきょとんとした表情で首を傾げると、ジューリオは大きな手のひらで口元を隠したまま、答えなくなってしまった。
「ジューリオの名前、覚えてたんだな」
「当たり前でしょう。いつもエルネスト兄様と一緒に離宮に来てくれていた方だもの。お顔を見たらすぐに思い出しましたわ」
クラーラがそう言うと、ジューリオは手で口元を隠したままちょっと震えている。どうしたんだろう。
「アスティ様、寒いですか? 席代わりましょうか?」
「ララ、大丈夫だから、あんまりジューリオの名前呼ばないであげて。使い物にならなくなっちゃう」
アウギュストに睨まれたジューリオが、すっといつもの無表情に戻った。何だかよくわからないが、寒いわけではないようだ。
「とりあえず、俺が何をしに来たか、わかっているよね?」
「…………はい」
「自由な暮らしを楽しんでいるのはわかるけれど、これは国際問題だ。クラーラひとりが我慢したら済む話じゃない」
クラーラは膝の上に置いた両手をぎゅっと握った。
「他国の王女を蔑み、我々に浅はかな嘘をついてごまかし続けている。クラーラの支度金は王家が預かったままで公爵へ渡されていない」
「え? 公爵様へ渡っていないのですか?」
「どうやら近々行われるキエガ公爵とイネス王女の結婚式の資金となるようだね」
「えええー、どうしてそんなことに」
「もらえるもんはもらっとく、もらったらこっちのもん、ってことなんだろ。この国は」
「では、私は公爵家のただの居候だったのですね」
「たいしたもの食わせてもらってないだろ。気にすんな」
アウギュストはしれっとそう言うと、コーヒーを一口飲んで喉を潤した。
「話の行き違いや勘違いじゃ済まされない状況なのは分かるね?」
「……はい」
「俺たちは3日後にコラフランへ帰る。クラーラを連れて」
「…………はい」
アウギュストが俯くクラーラの頭を優しく撫でた。
「今日までよく一人で耐えたな」
「……ふぁい」
ぱたぱた、とクラーラの手の甲に涙が落ちた。エプロンで涙をぬぐっていると、横から真っ白のハンカチが差し出された。
顔を上げると、ジューリオが心配そうな表情でクラーラを見ていた。遠慮なくハンカチを受け取り涙をぬぐった。
「ありがとうございます。洗ってお返しします」
「いえ、お気になさらずに」
「むしろそのまま返したほうがいろいろと、いてっ! おい、足を踏むな、お前っ」
「すみません、殿下の足が長いもので」
「確かに長いけども! 今のは完全にわざとだろ!」
「料理を注文いたしましょうか。そんなに口が開くのなら、何か詰め込んだほうが良いのではないかと思われます」
「昔から思ってたけど、お前、俺と兄上をあんまり敬ってないだろ」
「まさか、そんな。私は忠誠心しかありません」
二人がわあわあとじゃれているのを見ていたら、涙はひっこんだ。クラーラはハンカチをエプロンのポケットにしまい、アウギュストのコーヒーに手を伸ばした。残っていたコーヒーを飲み干すと、ぴんと背筋を伸ばした。
「では、3日後に迎えに来てくださるのですね」
「できればこのまま俺の滞在している部屋に連れて帰りたいところなんだが、王城は言わば敵の本陣だからね。それにちょっと事情もあって、クラーラは3日後まで今まで通りここで働いていてほしい」
「いいんですか!?」
「いつも通り、変わらず過ごしてほしい。けっして普段と違う行動はしないこと。しかし、必要以上に出歩かないこと。あと、ジューリオを護衛として置いていく」
護衛? ジューリオを見るといつもの無表情のまま、小さくうなずいた。
「事情ってなんですか? 護衛だなんて」
「わからない? バジョーナ国はキエガ公爵夫人は現在病に臥せっていて面会謝絶って言っているんだよ。兄の俺ですら会わせてもらえない」
アウギュストは両手でテーブルに頬杖をつき、小声で言った。
「密かにクラーラを始末して、キエガ公爵夫人は病死したということにすればいい。伝染病だったからすぐに火葬した、と言われれば、抗議もできない」
クラーラは息を飲んだ。何の権力もない第三王女の自分が命を狙われるだなんて想像したこともなかった。
「この国が愚かなのは確かだけれど、どれくらい愚かなのかはまだわからない。だから、クラーラは絶対に俺たちの手の内にいてもらわないとならないんだ」
「わかりました。でも、兄様の護衛が減ってしまって大丈夫なのですか」
「今回は俺の専属護衛のカルロとジューリオを交換して来てたんだけど、今日カルロがバジョーナ国に到着したんだ。だから、今頃兄上が騎士団長と息苦しく過ごしていると思うよ」
騎士団長は背も高くがっちりとした体格で、あの方がひとりいるだけで室内の酸素が薄くなる感じがするお方だ。エルネスト兄様はさぞかし窮屈な思いをされていることだろうな、とクラーラは思わず手を合わせた。
「カルロがバジョーナ国に出発する際、兄上が置いて行かれる子犬みたいな顔して見送りにきたらしい」
クラーラが思わず吹き出すと、アウギュストは目を細めた。
「ああ、やっぱりその笑顔はクラーラだ。少し日に焼けて健康的になったね。髪を切ったんだね。とてもかわいいよ」
「えへへ、毎日自炊してたくさん食べたから、少し太ってしまったんです」
「それくらいでちょうどいいさ」
アウギュストがまたクラーラの頭を撫でた。
来たのがアウギュスト兄様で良かった。
一番口うるさいのがアウギュストではあるが、何だかんだ言って甘い。怒ったら怖いのはエルネストの方だ。
クラーラはぐるりと首を回して店の景色を目に焼き付けた。がたつくテーブル、頑丈な椅子。グレタさんが縫ったテーブルクロス。壁に書かれた売れない歌手のサイン。皆の笑い声と自分を呼ぶ声。最後の3日間、一生懸命働いて恩返しをしよう。
アウギュストはひらひらと手を振りながら帰って行った。店内にいた少ない客が、彼の素性を推理してはちらちらとクラーラを見ている。グレタはクラーラの表情を見て察したようで、涙目で無理やり笑顔を作っていた。
「とうとうお迎えが来てしまいました。今まで、ありがとうございました。お世話になりました」
「そうかい、いつかこんな日が来るとは思っていたけれど、でも、来ないでほしいと心の奥では願っていたんだ」
ぶぶん、とハンカチで鼻をかむと、グレタはいつもの笑顔に戻っていた。
「楽しかったよ、ララ。娘よりよく働いてくれたし、あんたのおかげで売り上げも上がったし、明日からさみしくなるねえ」
「あの、言いにくいのですが、あと3日間います。事情があってその間は今まで通り過ごさせていただきたいのですが」
グレタにぎゅうぎゅうと抱きしめられながらクラーラは言った。
「そうかい! あと3日いられるのかい! そりゃあいいね!」
「はい! 3日間、一生懸命働きます!」
「それでこそララ! さっそく芋を剥いておくれ」
「はい!」
ははは、と二人で笑いあった後、手をつないで厨房に向かった。
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