休息2(終) わたしのこと、そんなにお嫌いですか?
――浴場がまた、広い! まさに銭湯並みの広さ。
こんなの用意するくらいなら、もっとライフエッセンスとやらを温存した方がいいんじゃないか? と思ったくらいだ。
せめて休息時くらいは豪華にと思ってくれたのなら、俺としては感謝しかないが……買い物で散々むしられたとはいえ。
温泉というのは事実らしく、黒い石材で造られた楕円形の湯船に満たされた湯は、少しだけウイスキーみたいな色に似ていた。
浴槽内は深いし、座って手を伸ばしたら、まさに極楽気分である。
疲れが一瞬で吹っ飛ぶ気がしたほどだ。
ただ一つ、雰囲気を壊しているのは、奥の方に建っている、壺を肩に担いだ女神像だろう。どう見てもチュートリアルに似ているが、年齢は十ほど上である。
壺からジャボジャボ湯が出ているので、単なる飾りではないのはわかるが、見張られているみたいで気になる。
よって、顔の部分にタオルをかけておいた。
(よし、これでようやく落ち着いて――)
思いかけたその時、微かに引き戸を開ける音がした。
当然、こちらの浴場ではなく、隣である。
(え、そんなの聞こえるのかっ)
よくよく見ると、男湯と女湯を分ける障壁は、薄い壁一枚しかない。
しかもこの壁、天井までちゃんと繋がっていないで、途中で切れているという……。
足場さえ持ってくれば、そこからよじ登って覗けるかもしれない。
いやいや、覗かないがっ。
ただ、自然と耳を済ませてしまうのは、もうどうしようもない。ひたひたと静かに歩く素足の音や、やがてゆっくりと湯に浸かる微かな音まで、嘘のようにはっきり聞こえる。
まあ、俺達しか入ってないからな。
しかも、気合い入れて耳を済ませていた俺は、いつのまにか両方の湯を隔てる壁の方にこそこそ移動していた。
別にそんな大した音は聞こえないし、聞こえても手でチャプンという、本当に微かな音だけなのだが。この薄い壁の向こうで、あの子が全裸で風呂に浸かってるかと思うと、なぜか気になってたまらない。
ついに浴槽の端まで来て、すぐそこの壁を眺めつつ、じっと聞き耳立てていた。
変態っぽくてヤバいな……相手は後輩だし。
(罪悪感半端ないし、離れるか)
俺はため息をついて、また物音を立てずにそっと離れていこうとした――が。
『……ハヤトさん』
いきなり声をかけられ、心臓の鼓動が跳ね上がった。
ちょうど半分立ち上がりかけていたこともあり、ものの見事に湯船の中でひっくり返ってしまった。
まさか、マイの方から話しかけてくるとはっ。
『大丈夫ですか!?』
音に驚いたのか、女湯の方で立ち上がる気配がっ。
「へ、平気だとも。いや、全然大丈夫」
俺は慌ててまたその場で湯に浸かり、ほっと息を吐く。
「しかし、よく声が届く距離にいるとわかったね」
『周囲が静かですし、耳はいい方なので。ハヤトさんの動く音が聞こえました』
「そうか……うん。ちなみに、確かに壁近くに移動してたけど、別に覗こうと思ったわけじゃないぞ?」
『わかっています。ハヤトさんはそんなことしませんよ』
慈愛に満ちた声がして、俺はまた罪悪感に苛まれた。
悪いが後輩よ。俺も男だ……チャンスが目の前にあれば、やらないとも限らんぞ。
まあ、口が裂けてもそんなこと白状しないが。
『一つ、訊いてもいいですか?』
「もちろん」
俺はようやく落ち着いて答えた。
『さっきの食事の時、わたしが隣に座ったら、ハヤトさんは少し離れましたよね?』
「ああ、あれねっ」
なにげない顔してたくせに、あれに気付いてたのかっ。
『顔が見えないので話しやすいから、思い切って尋ねますが』
マイの声音が少し緊張した。
『ごくたまに、わたしが自分から近寄ると、ハヤトさんがああいう風に遠ざかる時がありますが……わたしのこと、そんなにお嫌いですか?』
「いや、それはないっ」
焦って俺は断言した。
「汗臭い自分が嫌になって、迷惑かけないように配慮しただけだ」
『そう……ですか』
「信じてないな?」
俺は誤解を解くべく、畳みかけた。
「本当だぞっ。臭いの心配も嘘じゃない! あと、昔の事件を話してくれたんで、さぞかし男性不信になったろうから、その遠慮もあったんだって」
『わかりました』
間を置き、ようやくほっとしたような声がした。
『男性不信は本当ですけど……ハヤトさんは大丈夫ですよ』
なんだかいつもより優しい声になったマイが続ける。
『学校内で試した時も、ハヤトさんには触れたじゃないですか。わたし、本当に今まで、男性に近付くのも嫌だったほどで、触るのなんか全然だめだったのに』
「そりゃ……光栄だ」
声が掠れたが、バレてないと思いたい。
『とにかく、わたしの誤解だとわかってよかったです……ふいに話しかけてごめんなさい』
「とんでもない」
それを最後に、マイは沈黙した。
しかし俺は、彼女がまだ壁のすぐ向こうにいる気がして、しばらく動けなくなってしまった。