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帰る場所に




「あや乃ちゃん、今までありがとう」



島原の営業が終わるほんの数十分前。谷さんのお見送りのために外に出た。


「こちらこそ、おおきに。谷さんにはほんまに昔から支えてもらいました。感謝してもしきれまへん」



「あや乃ちゃんは、いまの時代をどう思う? どんな時代が来て欲しい?」


「うちは、この時代が嫌いやありまへん。みんながみんな一生懸命で、まっすぐで、自分も頑張らなあかんなって毎日思ってます」


尊敬できる人ばっかりの時代だからこそ。


「そやけど、亡くなるのもそういう方ばっかでっしゃろ。

そやからうちは、いま、何かに一生懸命な人らの思いが無駄にならへん時代が来て欲しい。それこそ、全員が幸せを諦めなくてもええような時代が」



息を大きく吸い込んだ。夏の匂いがする。蚊取り線香なのかお香なのか香水なのかわからないけれど、私の中の感覚がそう叫んでいる。夏が、来た。


季節が進めば進むほど、この町の平和もきっと崩れていく。

谷さんとのお別れも、きっとその中の一つ。



「幸せを諦めなくてもええ時代、か……」


谷さんの視界が怖いくらいに真っ暗な吸い込まれそうな空にいく。月の光が強すぎて、星はあまり見えない。そんな怖い空をよそ目に、私は、今日でお別れの大切なお客様の横顔を眺めていた。


不安はないの。怖くはないの。


私には、わからない。



「もし、その時代を作れたら、その時はまたあや乃ちゃんに会いに来るよ」



目があった。少しだけ、彼の目が潤んでいるように見えた。




「待ってます」




そこで政友さんが下りてきた。


「谷様。ほんまに今までありがとうございました」


「いえ、こちらこそ素敵な時間をいただけて幸せでした」


「御武運をお祈りしています」


「ありがとう」



そして、谷さんは私たちに深くお辞儀をした。

私たちも負けないくらい深くお辞儀をした。


10分、いや、10秒か。


長いのか短いのかわからない時間が経った。

谷さんは姿勢を元に戻すと、大門の方へ歩き出す。いつも通りの後ろ姿。だけど私にはもう追いつくことができない。


今まで当たり前のように日常に組み込まれていた人と会えることは当たり前のようにないのかもしれない。


戦いに行く人と、送り出す人。

きっと私は島原にいる限り、これからもこんな経験をたくさんするのだろう。

花街で生きる人間の仕事は、ただお客様を楽しませることなんかじゃなくて、たくさんの人の思いをまもって、帰る場所になることだ。


「谷さんの後ろ姿、忘れんようにせなあかんで」


政友さんが何故そういったのか。はっきりとわかる。

涙が出そうな目をこすって、わたしは再び大門の方へ目を向けた。

後ろ姿はもう、見えなかった。






そして、やけに空が澄んだ夏の日–––––––元治元年七月十九日。京の街で、武力衝突が起きた。

八月十八日の政変で京都を追放された長州藩勢力が、会津藩主松平容保らを排除するために京都市中で市街戦が行われた。

島原は運良く戦火を免れたけれど、市中で三万戸が消失したらしい。

戦死者はおよそ、五百。畿内における大名同士の交戦は、1615年の大坂夏の陣以来。

戦いが終わって、朝晩が涼しくなって、すすきが風に揺れる季節になっても、谷さんが島原の街に来ることはなかった。





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