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今だけは、このままで





「政友さん」


私が声をかけると、彼はすっと立ち上がってこちらを向いて


「すんまへん。ほな帰りまひょか」


貼り付けられた笑顔を見せてから返事も聞かずにスタスタと歩き始めた。


その頬にもちろんえくぼはできてはいなかったし、口しか笑っていなかった。そしてなにより前を歩く背中は震えている。


いつもは頼もしいはずの後ろ姿がなんだかやけに小さく見えて、私は抱きしめたくなる。でも、これはきっと求められてることじゃない。

いつも支えてくれた彼に私は何もできていない。そのことが目に見えるように突きつけられて、私は胸がぎゅうっと大きく痛んだ。




「姐さん、着きましたよ」



心配そうに柚ちゃんがこちらを覗き込む。気がつけば置屋に着いていた。


「もうっ! あや乃、ぼうっとしてどないしたん。柚ちゃんが心配してはるで」


千晴まで。


「すんまへん。 おおきにな」


いったい私はどれほど態度に出ているのだろう。


柚ちゃんを千晴と2人で部屋に送り届けてから部屋に戻る。


「柚ちゃん無事でほんまによかったわ」

「千晴にも心配かけてしもうてごめんね」

「ええのええの。それより……」

すでに布団に潜り込んでいた千晴がむくっと起き上がってこちらを向いた。やけに深刻そうな顔をしている。


「政友さんの様子が変やねん。 さっきな、呼んでもなかなか返事してくれはらへんし、三回目くらいでやっとはっとしたようにこっちを向いたんや」


貼り付けられた笑顔がふと浮かぶ。


「あや乃、様子見てきてくれへん? 多分うちよりもあや乃の方が適役やと思うねん」


「わかった」



私は再び部屋を出る。



「政友さん、あや乃どす」


何度も訪れたことのある部屋のはずなのに今は今までにないくらい緊張している。


もしかしたら拒絶されるかもしれない。仮に拒絶されなかったとしても私みたいな浅い人間がなんて言葉をかけていいのだろう。


「どうぞ」


たっぷり5秒くらい時間を空けて襖が開いた。


「失礼します」


一歩足を踏み入れた途端、畳の匂いがぶわっと鼻腔をついた。


それからこちらを振り返った政友さんの顔にはどうも覇気がない。


「心配せんでええから。まだ朝餉まで時間はあるさかい、また寝ておいで」



このままじゃ、政友さんが消えてしまう。


とっさに、そう思った。それからは考える暇もなく、私は政友さんを抱きしめた。遠くへ行ってしまわないように、強く。


「うちにはいま政友さんの顔は見えしまへん。何か聞こえても、すぐに忘れます」


それから、しばらくの後。彼の長い腕が私の背中に回った。


「綺音」


「はい」










「今だけは、このままで」












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