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池田屋事件2




それから、走った。

とにかくとにかく走った。


街灯のない明け方はなんだか足音さえも地面に染み込んでしまいそうな感じがして、かなり不気味だ。


私のせいだ。私がもっと優しくできていたら。

ぐるぐる、ぐるぐる後悔が頭を回る。

私は思わず少し俯き加減で走った。


「あや乃」


政友さんの声がいつもよりも低い。


「前を向きよし。 俯いてたら見えるもんも見えへんで」


ああ、どうして。どうしてこの人の言葉はこんなにも心にまっすぐ届くのだろう。


返事をしてから私はまた顔を上げた。


そして。

置屋を出てから20分ほどだった頃、神社の鳥居の奥に、一つ。手を合わせる小さな背中を見つけた。

間違いない。



「政友さん、柚ちゃん見つけました」


返事を聞くよりも早く私は柚ちゃんの方へ向かう先を変えた。



「柚ちゃん!」


小さな背中が振り向く。


私は、ぎゅうっと彼女を抱きしめた。


「あや乃さん、姐さん?」


その声はわかりやすく震えている。こんな声を聞いてしまったら、今までに身につけたはずのあや乃としての京ことばは出てきてくれない。



「こんな時間になにしてたの、本当にほんっとうに心配で……」


強気な柚ちゃんが大人しく座礼をしたのは、きっとこの子なりの限界表示だったのだ。


「すんまへん、姐さん」


それなのに私は、気づいてあげられなかった。


「柚ちゃんは私の初めての妹だからいい芸妓さんになって欲しくてきついことも言っちゃったし無理させちゃったよね、本当にごめんなさい」


姐さん、小さく彼女は呟いて、私の体から離れた。大きな目がじっ、と私の目を見つめる。

それから、小さくて紅い唇が動き始めた。



「本当は、芸妓になんかなりたくなくて、だけどここにくるしかなくて。

態度悪くしてたら政友さんもお師匠さんも姐さん方も私のことなんか放っておいてくれるかなって思ってたのに、みんな–––––特にあや乃さん姐さんは何度だって教えてくれた」


だからどうしたらいいのかわかんなくなって、気がついたらここまで走っていた



柚ちゃんは、年相応の頼りなさを背負ってそう言い切った。


こう見えて高梨柚というのは人一倍寂しがりやで、真面目なのだ。




「うち、決めました。

姐さんみたいな素敵な芸妓さんになりとおす」




十四歳の言葉はすうっと矢のように心に刺さった。



「いままで迷惑かけてしもうてほんまにすみまへん。

これからは気張ります。

政友さん、あや乃さん姐さん、よろしゅうおたのもうします」


柚ちゃんは頭を一度下げた。

その仕草はいままでに見た彼女の姿の中で一番美しかったと思う。



「こちらこそ、よろしゅうね」


今、新しいストーリーが始まる。



「とりあえず戻ってゆっくり休みよし。稽古はそれからや」


政友さんの言葉に従って3人で通りを歩く。

空には太陽がすでに登っている。

キラキラと町屋の屋根に反射していて、少し眩しい。


これが、幸せ。



その時だった。


ドタバタドタバタ。


文字に起こしてみると、そんな感じの音を立てて、三条の方から集団が歩いてきた。

嫌な予感がよぎる。


浅葱色の羽織。新撰組だ。近づけば近づくほど見知った顔ばかり。

その中に、政友さんの旧友の姿はない。

心臓が変に跳ねるのがわかった。

どうか嫌な予感なら外れてくれ。

その場しのぎの祈りなんて、なんの意味もなかった。


集団の、真ん中。

4人で運ぶ担架には、頭から大量の血を流した真っ赤になった藤堂平助が乗せられていた。


まず、政友さんの足が止まった。


「平助……」



新撰組が角を曲がった瞬間。




私なんかよりもずっと強くて、優しくて、ヒーローみたいな政友さんが、膝から地面に崩れ落ちてしまった。





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