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集積世界伝記  作者: 琴吹 羽純
第一章 異界
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004 異界_4〜雷吼犬

 ヨエルは犬型の獣の呼吸を注意深く読み、その出方を伺っていた。剣に宿した雷光の魔力は幾度か振るううちに力を弱め、淡い燐光のように剣の軌跡を浮かび上がらせていた。


雷廻オルト・ロア


 剣に再度魔力を装填する魔術を発動する。淡い光を纏っていた剣が再び激しい雷光を帯び、剣身を覆い隠した。獣は最初に魔術を見せたときの動揺からは立ち直っているようで、装填の隙を縫うように地を駆け、鋭い爪を突き立てようとしてくる。ヨエルは半身かわしてそれを回避し、獣の前足をめがけて剣を振り下ろした。獣は身をよじって剣の直撃を避けるが、剣の雷光が爆ぜるように獣の前足を焼いた。

 ヨエルはそのまま剣の柄を両手で握り、振り下ろした剣の勢いを殺さないよう、流れるように横薙ぎに剣を振るう。獣は翼を振り上げてヨエルの剣を払う。剣の雷光が爆ぜ、獣の翼から一気に身体に流れ込む。ヨエルは一気に12建(約6m)ほど後方に飛び退くと、未だ雷光が燻る獣の身体に剣の先を向けた。


“四震の霊よ、(セピュアム)五法の典を(・セア・イル)以て為せ”(・セ・ヴァン)


 詠唱する。獣は自らに纏わり付く雷光を翼を振り回して霧消させると、そのまま翼を羽撃はばたかせ、疾風のような速度でヨエルに突進してくる。ヨエルは剣先を獣から反らさない。


“賦雷伯の矢” (オルトリンガー)


 剣先から、収束した雷撃が放出された。魔力変換する属性こそ雷撃だが、ここまで収束した雷の束は強烈な熱を帯び、まさに死の熱線と呼べるほどの出力を持つ。耐魔処理を施された重歩兵の鎧を苦もなく切断する、高位魔術のひとつだった。

 獣は剣先に魔力が収束する一瞬、これまでと違った反応を見せた。剣への回避行動はあったが、魔力による攻撃にはほぼ無頓着だった獣が、その速度を殺し、防御の構えを見せたのだ。頭を覆うように翼を身体の前で折り畳んだ獣を認識して、ヨエルは無理だ、と思った。鋼の鱗を持つ龍族でもなければ、生物がこの雷光を受けきれるはずはない。だがーー。

  “賦雷伯の矢” (オルトリンガー)は得物に堆積させた魔力を放出し尽くすと、ヨエルと獣の間に光の筋を残しつつ消失した。魔力の残滓を振り払って、ヨエルは残心し正体(せいたい)する。仕留めた筈だ。通常であれば。

 咆哮。同時に、犬型の獣は翼を開いた。大柄な身体を覆い尽くすほどの巨大な翼の先端は空を貫かんばかりに振り上げられ、ヨエルの放った雷光を纏って、金属を打ちつけるような破裂音が何度か響いた。


「凄いな」


 ヨエルは思索した。この獣がどういう性質をもつ獣なのかはわからないが、斬って血が出る生物である以上、 “賦雷伯の矢” (オルトリンガー)の雷撃をまともに受けて五体満足でいられるのは理屈に合わない。

 だが獣は大したダメージを負った様子もなくヨエルとの距離を詰め、爪と牙による猛攻をかけてきている。魔力を付与するスキも与えてはくれない。明確な殺意を感じ取った。これも、ただの獣とは少し違う。

 生きるための行動ではない。殺すための行動。これは、理性の殺意だ。そして、この魔力への耐性。


「ヨエル様!」


 背後からの声。斬り下ろす剣撃の最中にそれを認めた。ヴラスタ。剣を抜く気配。察したかのように獣の攻撃が一瞬止む。片手で振り下ろした剣の柄に左手を添え、一気に掴んで力の方向を変える。刃を捻るように刃筋を替え、獣の前脚を 掻き斬るように 低く横薙ぎに斬り払った。強い手応え。獣の前脚を捉えた。刃が骨に食い込む感触。そのまま引き斬るように手前に刃を戻すと、剣の感触が軽くなった。血が地面を叩く音の直後、獣の前脚が地面に転がった。致命傷ではない。


「ヴラスタ、下がれ」

「お護りします」

「下がれ」

「嫌です」


 ヨエルはヴラスタを言い包めるのを諦めた。言って聞くような扱いやすい女ではないし、そうしてやる余裕もなさそうだった。獣は痛みに狼狽している。けだものなら遁走する。ただのけだものの、狩りの失敗であれば。

 魔術に耐性がある動物。ヨエルの世界では、種としての能力では人間を遥かに凌駕(りょうが)するそれらは、時として神のように崇められた。理性を持ち、呪力を蓄える器官を生まれつき持ち、息をするように高位の精霊と対話し、その力を行使する。

 この獣がそれらと同じような存在か否かはわからないがーー。

  “高位神獣” (ヴァリノブレア)。少なくとも、ヨエルの世界ではそれに類する存在。多くは神殿が与えられ、信仰の対象にすらなっている神の如き獣。間違ってもこのような街道に不意に現れていいような存在ではなかった。


「!」


 脚を失った獣は、怒気を含んだ気配を溶けるように漂わせていた。手負いとは思えないほどの害意。それはまるで、確実にヨエルを殺すことを決意したような気配だった。

 渦巻く魔力。ヨエルは出方を伺うべきか逡巡した。

 刹那、獣の周囲に渦巻いていた魔力の奔流が、獣の咆哮と同時に爆発的に収束された。

 雷撃。ヨエルの “賦雷伯の矢” (オルトリンガー)のように、術式として編み込まれていない、純粋な魔力の雷が、獣の咆哮に乗り、莫大な破壊力を伴って周囲に撒き散らされた。


 ーーーしまった。


 ヨエルが瞠目(どうもく)した瞬間、ヨエルの視線は遮られた。雷撃に逆立つ白銀に近い金の長髪。丈夫な素材で編まれた純白の外套。手脚を覆う儀式銀の鎧。見慣れた横顔。ヴラスタが獣と自分の間に駆け込んできたのだ、とヨエルは理解した。よせ、と声をあげようとした。

 獣の咆哮か炸裂する雷撃の破壊音かも定かではない、とにかく凄まじい爆音が、ヴラスタのあげた悲鳴をかき消した。ヨエルは目の前のヴラスタに手を伸ばす。


「くそッ」


 雷は周囲の木々や地面をなぎ倒しながら、すさまじい熱と衝撃をヨエルに叩き込んできた。ヴラスタを掴みかけた腕が虚空を掻く。気絶しそうになる意識を精神力で叱りつけ、瞬間的に変換できた魔力をすべて防御に振り切る。死ぬほどではない。直撃ではないからだ。では、ヨエルを遮り、直撃を(こうむ)ったヴラスタはーー。

 幾らか吹き飛ばされたヨエルは地面を二度転がり衝撃を殺すと、剣を支えに素早く身体を起こし、瞬時に状況判断した。身体は動く。咄嗟ながら耐魔の障壁を展開できたので、熱や雷撃で身体の機能を損なうこともなかった。

 轍跡(わだちあと)と点々と樹木があっただけの平原は、獣を中心に抉れるような破壊跡を残していた。樹はなぎ倒され、灼かれた草木は消し炭になり、所々に火が(くすぶ)っている。凄まじい魔力を帯びた咆哮だった。


「ヴラスタッ!」


 ぐるりと周囲を見回したヨエルは、ヨエルと同様に吹き飛ばされたヴラスタを認めた。20建(約10m)ほど後方に倒れている。呼びかけるが、返答がない。あの魔力の奔流にまともに充てられたのだ、或いはーー。

 ヴラスタの安否はわからない。ヨエルは確かめる前に剣を握り直し、地を蹴った。獣は咆哮の余韻から立ち直ると、再び周囲に魔力を漂わせ始めている。黒く艶やかな毛並みは時折青白い稲妻を帯びていた。もう一度あの咆哮を浴びせかけようとしているのは明白だった。

 一度見た技である以上、ヨエルは避けられるかもしれない。しかし、意識のないヴラスタは確実に危険だった。血が熱くなるのを感じた。為すべきことがはっきりと理解できた。一も二もなくヨエルは獣に斬りかかった。


“泪氷の剣” (オーリアピティア)


 斬撃の隙間に、ヨエルは魔術の高速詠唱を終える。やり方を変えるべきだった。雷撃はヨエルの得意な属性変換だったが、それを用いたのは過ちだと認めるしかない。あのような雷撃を自ら身にまとう獣であるのなら、雷撃の耐性を確保していて然るべきだった。複数の魔力素子属性を短期間のうちに変換するのは生半(なまなか)な魔術師には困難な技術だったが、そうも言ってはいられない。

 ヨエルの刀身は凍てついた冷気を漂わせた。斬撃の軌跡に凍った空気が流れ込み、陽光を反射してきらきらと光る。魔力素子を水へと変換し、温度を奪って氷の力を纏わせているのだ。

 獣はヨエルの剣裁きの前に集中を欠き、先ほどの咆哮を放つ事はできないようだった。やはり敵にとってもあれは大技だったのだ、と剣撃の刹那に思った。右薙ぎの剣。振り下ろした爪と交差し、互いをはじく。脚を時計回りにステップさせ、呼吸を合わせて斬り下ろす。獣が身体を捩って剣をかわすと、翼を振り乱してヨエルを打った。ヨエルは剣を地面に垂直にして身体の前に(かざ)し翼を受けると、両手で握っていた柄を左手に預け、半身を乗り出して翼の内側に潜り込む。視界に獣の頭を捉えると、身体を起き上がらせながら獣の下顎に拳を叩き付けた。噛み付けようとした口を拳で強引に閉じられ、獣はやや怯む。大型犬のように長く伸びた鼻面をヨエルはそのまま掴むと、剣が帯びた冷気を全て獣を掴んだ右手へと増幅させつつ送り込む。


“キルシュナート流(キルシュナール)剣兵心得”(・ディリヒ)


 詠唱ではなかった。魔術の詠唱はもう終わっている。それは技術発動のサインだ。己の流派を明らかにし、精霊の力を現界せしめる。

 ヨエルが握る獣の顔面に、激烈な冷気が渦巻いた。獣の目に明らかな困惑と苦痛の色が浮かぶ。力一杯に首を振り乱してヨエルの手を振りほどこうと試みているようだが、魔力で術式の一部と化している腕は、鋼の拘束具のように強固だ。呼吸すら困難になるほどの冷気が、獣の顔面を急速に凍りつかせていく。ヨエルはさらなる魔力素子を冷気へと変換し、とどめとばかりにその技の名を精霊へと捧げた。


“凍幻掌” (ピユテ・メア)


 魔術を取り入れた近接戦闘の技術はヨエルの世界では極めて珍しいものだった。キルシュナート流の魔法剣は特に扱いが難しい流派であり、名のある騎士や魔術師ですら匙を投げるほどの繊細な術式の構成が特徴である。

 ヨエルが放った冷気は獣の頭から上半身にかけてを半ば凍りつかせている。翼を羽撃かせ、5本の手脚で地面を搔き毟って抵抗している。時折身体を遡ってくる雷撃の苦痛に、ヨエルはただ耐えた。少しずつ獣の抵抗の力が弱まり、腕を振り解こうとする力も弱々しくなっていく。冷気が獣の体力を奪っていく上に、頭部を凍り付かせているため呼吸もままならないのであろう。やがて沈黙した獣は翼を折り、ゆっくりと身を地に横たえた。ヨエルは氷塊と化した獣の頭から手を離し、油断なく残心した。倒したと思い込んだ敵からの苦し紛れの一撃で命を落とすことは戦場では日常のようにある。

 地面に突き立てたままだった剣を獣に向けて構える。凍り付いた頭部からは精霊の残滓が僅かに感じられるのみで、命の気配はない。ヨエルは油断なく獣の首に剣を滑らせ、()ねた。首が転がる。かなり身体の奥まで凍らされていたようで、血はほとんど出なかった。この獣がヨエルの世界でいう “高位神獣” (ヴァリノブレア)並の生物であるならば、最後の最後まで油断はできない。


「……ヴラスタッ」


 獣の確実な死を確かめると、ヨエルは剣の血脂を払う事も忘れて、後方で意識を失っているヴラスタに駆け寄った。それほどの外傷はない。だが高密度の魔力を真正面から浴びたのだ。沈痛な想像が過る。横向きになったヴラスタの身体を仰向けに直す。意識はないが、剣の柄はしっかりと握っていた。儀式銀の軽盾も手放していない。

 庇われた、という思いがヨエルを苛んだ。情けない。地獄の釜に飛び込むつもりで渡ったこちらの世界が案外に平凡なものだったので、まんまと油断した。その代償がこれだ。

 ヨエルは何者かに祈るような気持ちでヴラスタの痩身(そうしん)を抱き、治癒の力に変換した魔術素子をヴラスタの身体に流し込んだ。雷撃に灼かれた身体が軋む。だが、そんなものはどうでもいいと思った。


「……ヴラスタ……」


 ……鼓動。ひとしきり魔力を注ぎ込んだ後、ヨエルはそれに気付いた。繊細な蔓の模様が彫られた儀式銀の胸当てが、微かに上下している。呼吸音。生きている。ヨエルは深く息を吐いた。

 ヨエルはヴラスタを抱え上げた。ようやく気が抜けたのか、ヴラスタは剣の柄から手を離した。細い音を立てて、ヴラスタの細剣が地面に転がる。

 思った以上に長く対峙していたのか、日が傾き始めていることに、ヨエルは気付いた。

 鳥車の中に隠れていた商人の男が戦闘音が止んだのを(いぶか)しんでか、おそるおそる幌車から出てきて、ヨエルを見た。暫し呆然とした様子だったが、すぐに破顔し、ヨエルに手を振った。微笑みを返して、ヨエルはヴラスタを抱えたまま、幌車に脚を向ける。

 風が一迅吹き抜け、雷撃に抉られた砂を軽く浚った。


 異界に渡って、初めての日が暮れようとしている。

 死を感じたのはいつ以来だろう、とヨエルはふと思った。

 むなしい回顧だった。




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