003 異界_3〜雷王の吐息
陸鳥二頭牽きの鳥車は、ヨエルが思った以上の速度で草原に敷かれた轍を進んでいる。幌を張った車に荷を積み、さらに人間を四人も積んでこの距離を長く走れるのであるから、騎獣として用いられるのも頷けた。
雇い主である中年の商人の話す言葉は相変わらず理解できないが、ヨエル達の同乗を快諾してくれたようだった。ヨエルが手にしている木製の水筒も、商人が渡してくれたものだ。商人はそれぞれ陸鳥に騎乗しているので、荷車には守るべき荷とヨエル、ヴラスタの姿があるだけだ。
ヨエルの言葉を理解できた女性がいうには、先ほど出発した街からイブオロまではそう遠くないものの、野生の獣や亜人の襲撃が時々起きるのだという。のどかそうに見えるが、治安はそこまでよくはないのかもしれない。
「さて、何をしたものかな」
「なにがです?」
ヨエルの独り言に、珍しくヴラスタが応えた。表情をあまり変えないヴラスタだが、荷車に運ばれるだけの事は退屈だったのかもしれない。彼女が細剣の柄の銀細工の模様をなぞる仕草をする時は、たいがい時間を持て余した時だ。
「あまり俺が望んでいた展開ではない。この世界の時間がこのまま穏やかに流れるのなら、また何か考える必要がある」
ヨエルはそれきり黙った。荷車の車輪が轍跡を蹴る音だけがある。ヴラスタも、身じろぎをする事を躊躇うようにじっとしていた。
鳥車に乗って4刻ほど経ったろうか。日の角度がいくらか傾き、夕方に差し掛かったというあたりで、不意に鳥車が速度を落としたのがわかった。何事か、と幌から外を覗こうとしたヴラスタを制し、ヨエルは傍の直剣を掴むと荷車から素早く飛び出した。
陸鳥の嘶。商人の男が、何事かを叫んでいた。何という叫びかはわからないが、恐怖と絶望の気配はわかる。怯えた商人の男と陸鳥。男が抱えて守ろうとしているのは、同じく陸鳥に騎乗していた商人の女だ。何か傷を負っているのか、呻きに似た声が聞こえた。しかし、生きている。
ヨエルは直剣の鞘を払った。陸鳥の前に回る。獣。それはわかる。しかし、その姿はヨエルの故郷で見たどれとも違った。それは翼を持つ巨大な犬だった。脚は三対。身体は紺色の体毛に覆われ、翼は鳩に似た白。鋭い爪と牙。猛るように短く吼えると、敵意を感じたのか、視線をヨエルに移した。
塔の女は、この街道に時折獣が出ると言っていた。その為に護衛がいるのだという。なるほど、とヨエルは思った。戦う術を知らない者には、確かに荷が勝つ獣だろう。ヨエルは剣を両手で構え、深く腰を落とした。
「ヨエル様ッ」
「彼らを頼む」
「はッ」
獣から視線を逸らさず、背の声に応える。ヴラスタは素早く商人達の庇護に向かった。
獣と暫し対峙する。ヨエルを測るような視線。膠着は束の間だった。地を蹴ったのは獣。30歩はあった距離が一息にゼロになる。軽い、と認識するとほぼ同時に、ヨエルは構えた剣を地面と平行にした。
奥歯を噛み締めた直後、かなりの質量が剣に、そしてそれを持つヨエルの両腕にのしかかってきた。
引き裂こうとした爪を、ヨエルの剣が受けたのだ。追撃を警戒し、力を受け流すように剣を払い、飛び退いていくらかの距離を取ろうと試みた。だが獣はおそるべき身体能力で大きく前に出た。ヨエルの動きを読んでいたかのような反応だった。
ヨエルが着地した刹那の後、ヨエルが下がっただけ前進した獣は、翼を大きく広げて吼えた。
「くッ……」
大型犬を思わせる獰猛な声にと同時に、獣は剥き出した牙をヨエルに突き立てようとしていた。ヨエルは瞬時に身体を地面に投げ出して横に転がった。ガチン、と牙が強烈に噛み合う音が頭上から降ってきたが、それを気に留める余裕はない。
ヨエルは地面を転がった勢いをそのまま利用して、起き上がりざまに剣で獣の伸びきった首を思い切り斬りあげた。微かな手応え。だが浅い。そして影。開ききった獣の翼が、閉じるように振り下ろされた。ヨエルは巨大な翼に打たれまいと剣を真横に薙ぐ。剣は翼をいくらかかき斬って、白い羽毛を散らせた。
獣は翼を斬られたのに怯んだのか、今度は自分から距離を取った。
野生の獣とは挙動がいくらか違う、とヨエルは思った。理性がある。知能がある。ヨエルの世界にも、そういう獣はいた。みな恐ろしく聡明で、人の言葉を解す種さえいた。
獣がいくらか怯んだおかげで、ヨエルと獣の間には10歩ほど距離ができていた。ヨエルは剣を片手で構え、空いた左手の人差し指を獣に向けると同時に、短く息を吐いた。
「雷針」
極めて短い詠唱と同時に、指先に集った魔力がヨエルの人差し指から迸った。青白い雷光に似た魔力は、ヨエルと獣を繋がんとする鎖のように高速で奔り、獣の横腹に突き立った。
魔力素子を属性に変換すらしない、ヨエルの世界では原始的な魔術だった。その分、発動に複雑なプロセスを必要としないため、牽制などによく用いられる。
獣は衝撃に大きくよろめいたが、すぐに殺意をヨエルに向けてきた。それほど破壊力のある魔術ではないにせよ、この距離で魔力の塊を浴びて平然とする野生生物というのも、ヨエルの世界では珍しいものだった。
「“雲海の王よ!” 」
ヨエルは警戒する獣の隙をついて、魔力素子を詠唱によって変換させた。ヨエルの世界では魔術とは、体内に存在する不可視の空間で循環する魔術を、詠唱などのプロセスで現界へと導きだし、この世ならざる効果を発揮させる技術をいう。
ある程度の行使は修練によって得られるものの、自在に、しかも大規模な魔術の使用は才能に直結した。
「霊峰に御下りて刃を奔る勅となれ」
付与。身体や装備品に変換して現界させた魔力を定着させ、特殊な効果を追加する魔術だった。
ヨエルの直剣は青白い光に覆われ、刀身には雷光が巡っている。
「“雷王の吐息” 」
雷撃の加護を付与した直剣を構えなおし、ヨエルは再び獣と対峙した。チリチリと剣の雷が空気を焦がす音がする。獣は再び翼を大きく広げ、姿勢を低くしてヨエルを迎え撃つような構えを見せた。
ーーー
ヴラスタはヨエルの指示に従い、護衛対象である商人を幌の中に匿った。
陸鳥は車に繋がれているため四散するようなことはないが、あの獣にすっかり怯えてしまったようで、すぐに車を走らせて逃げ出すのは難しそうだ。
「大丈夫です。ここなら、もう」
言葉が通じないのがわかっていても、ヴラスタは商人の男に声をかけた。男はひどく混乱している。とにかく落ち着かせる必要があると判断したのだ。
幸い車には応急処置に使えそうなと用具も載っていたようで、傷を負った女の商人の手当てはできた。
獣に襲われたというよりは、獣に驚いた陸鳥から振り落とされた時についた傷のようで、それほど深い傷ではない。意識もはっきりしていて、ヴラスタに手当てされながら、申し訳なさそうに何かを言っていた。
「隊長……」
手当てがひと段落つくと、ヴラスタは立ち上がり、細剣を抜いた。先ほどから、ヨエルの魔力の波が鳥車の前方より伝わってきている。戦闘の気配だった。加勢せねばーー。
幌が貼られた鳥車の荷台からでは、戦闘の様子は窺えない。
「ここに、居てください。ここに」
商人の女に、身振り手振りでここを動かないように示すと、意を汲んでくれたのか幌車の奥に身を写しはじめた。ヴラスタは頷いて、幌車の後ろから細剣とともに飛び出そうとした。
「どうしました」
しかし、先ほどまで憔悴しきっていた商人の男が、ヴラスタの外套の端を引いて、ヴラスタを引き止めたのだ。
男はどうやって伝えたものかいくらか迷ったようにうろたえた後、人差し指を自分の口に当ててた後、思い切り口を開いて見せた。
「これは、まさか」
ヴラスタは一息に荷車を飛び降りた。速度を落とさず、そのまま電光石火の速度で陸車の前方、ヨエルのもとへと駆けた。はげしい雷光。ヨエルの“雷王の吐息”だ。これで方が付いていれば、それでもよかった。ヨエルの背中。その肩越しに見える、所々が焼け焦げた獣。だがそれは、未だに6本の脚で大地を踏みしめ、翼を大きく広げてヨエルに殺気を放っていた。