001 異界_1
丘陵地帯を半日ほど進むと、海に面した街が見えてきた。
暖かな海風が外套を擽る。故郷とは、ずいぶん気候が異なることは確かそうだった。歩いていると、じわりと汗が滲んでくる。
「隊長、訪ってみますか?」
「……もう隊長はよせ、ヴラスタ」
ヴラスタ、と呼ばれた女性は少し逡巡したようだった。色素の薄い金色の長髪、左眼を覆う白い眼帯。
「では、ヨエル様、と」
「様も要らないんだがな」
「譲れません」
「お前なら、そういうか」
「はい」
ヨエルは苦笑した後、丘を下った先に見える街へ足を踏み出した。二歩遅れて、ヴラスタも続く。
予想していた地獄絵図のような場所ではなかった新たなる世界。とはいえ、何か情報が必要なのは間違いなさそうだった。
ーー
魔王の居城にあった異界への門へ飛び込んだ二人は、数秒の浮遊感に襲われた。
その後、閉じた目を開くと、一面の草原の中に立ち尽くしていた。
一通り身体の異変がないか確認した後、辛うじて人の手が入ったと思われる道を見つけた。それに沿って半日ほど歩いたところで、先ほどの海沿いの街を見つけたのだ。
「言葉が通じるといいんだが」
街は海を背にぐるりと壁で囲われているらしく、中に入るには門を潜る必要があるようだった。ヨエルは門の左右で屯している門兵らしき男に声をかけようとした。服装や、手にした槍の程度を見るに、それほど文化が違うようには見えない。
「あの、すみません」
声をかけた門兵は、二人を認めるとヴラスタとヨエルを交互に見、異国の言葉で何かを話し始めた。やはり、言葉は通じないらしい。ヨエルの居た大陸のどれとも似ていない言語だ。
「困ったな」
門兵は自らの言葉が理解されていないのを確かめると、ヨエルとヴラスタを街の中に誘うように手で示した。彼らの様子は特に敵意があるようには見えず、特殊な事態が起きているような緊張感も感じられなかった。
ヨエルはヴラスタと顔を見合わせる。
「どうする?」
「あまり練度の高い兵には見えません。もしヨエル様を害そうとしても、お守りできると思います」
「俺を?」
「はい」
そうか、と苦笑して、ヨエルは門兵に続いて街へと入った。それほど大きな街ではなさそうだが、大通りにはそれなりに人通りがあり、むしろ活気はヨエル達の生まれた街よりあるかもしれない。魔王の故郷という言葉の響きから想像される混沌とは無縁そうだった。
「あの塔か?」
兵が大通りから見える小さな塔のような建物を指で示した。煉瓦を積んで建てられた赤い建物が連なる街並にあって、白く塗られたその建物は殊更よく目立つ。白地に青で剣をあしらった旗が塔の頂上に掲げられ、海風に靡いていた。
「あの塔に、行けと?」
ヨエルは兵に倣って身ぶり手ぶりで己の意思を伝えようと試みる。それを汲んでくれたのか、兵は頷いた。
「行ってみよう」
「危険では?」
「行ってみれば、わかる」
「はい」
ヴラスタの返答は短い。ヨエルは門兵に軽く頭を下げると、示された塔へ足を踏み出す。雑踏に耳を澄ますが、やはり人々はヨエルの知るどの言語とも異なる言葉を喋っている。
通りに面した果物屋らしき店を覗くと、ヨエルの知っている果実に似ているものも、全く見たこともないようなものも売られていた。
「あの札」
ヴラスタが指したのは、雑貨屋のような建物の看板に貼られた一枚の札だった。何を書かれているのかは相変わらず解らないが、ヨエルは眉を顰めた。魔術の気配がする。
「人寄せの類か……?」
「はい。か弱い、やや原始的な魔術に近いものだと思います。ああいうものが民間に出回るというのは、私たちの国ではありませんでした」
「魔術文明が発展しているのか? そういえば、門にも似たものがあったが」
「せいぜい人の目を集めやすくなる、といった程度の効果しかなさそうですが……」
ヨエルの国では、人ならざる魔の力は才能ある魔術師の領分であり、その研究も行使も宮廷に管理された者のみに許されていた。魔術を込めた呪具なども同様で、力の強い呪具の違法流通はかなり厳しく罰せられた。
「一応、アンチスペルをかけておこう。急ごしらえだが、ああいう無意識へ訴える類の魔術への対策にはなる」
「はい」
対呪は専門ではないが、それほど難しい魔術ではない。ヨエルは指先で空に印を切り、魔術を発動させた。ヨエルとヴラスタの身体が一瞬だけ淡い光に包まれ、すぐに光は雲散霧消した。
「行こう。どういう世界なのか、少し興味が出てきた」
「はい」
大通りから二つほど道を折れると、塔はいよいよ近くなってきた。
先程の雑貨屋以降も、似たような札が貼られた店や露店などがいくつかあったが、どれもそれほど強い呪が込められている訳ではなさそうだった。
「入り口はあそこか」
「少し、魔術の気配が濃い気がします」
「うん。とはいえこの往来でいきなり危害を加えてくるということはないだろう。やるなら、門のあたりでやるはずだ」
「罠ということもあります」
「その時はその時考えよう」
「お守りいたします」
「わかった、わかった」
ヴラスタを制して、ヨエルは更に塔へと歩を進める。塔はおよそ三階建てほどの高さで、他の家や商店よりかなり大きい。正面に木造の扉があり、扉の上にはやはり白地に青の剣をあしらった旗が掛けられていた。
扉の横には街の入り口にいたものとは異なる甲冑の兵らしき男が、若い女と談笑しているようだった。
「あの、すみません」
門兵にしたように、ヨエルは兵と女に声をかける。言葉は通じないだろうが、他に方法はない。
「あらっ。こんにちは、異界の方」
「えっ」
思いがけず帰ってきた見知った言語の返答に、ヨエルは思わず声を漏らしてしまった。そしてヴラスタと顔を見合わせる。
女はそんな二人を見て、くすくすと笑うだけだった。




