000 プロローグ
初投稿です。
異世界ファンタジーだと思います。
よろしくお願いします。
幻北海峡を船で渡れる期間は短い。要塞の城壁を凍てつかせた、魔力を含んだ寒波が束の間穏やかになり、荒れ狂う波も凪ぐ。
途絶えた定期船が機を得たとばかりに一年分の物資の往来を開始し、魔境と帝国の短い夏がはじまる。
それを見遣るのも今年で最後になるだろう、と青年は遠ざかる海岸城砦を眺めながら思った。
目深に被った外套、そのフードの下に覗く双眸は金色、はらりと落ちる群青の髪が北方人の特徴的な白い肌に映える。
旅装は、海峡を越えて魔の領域に挑もうとするには軽装。幅広の直剣を収めた革の鞘が、冒険者らしさを際立たせていた。
青年が周囲を見渡すと、彼と同じように出航した港を眺めるものの姿がある。いくらか不安を浮かべた様子はあるが、彼らに以前のような悲壮感はない。“死への航海”などと揶揄されていたことを思えば、今回の渡航は散歩のようなものだ。
……海峡の先、死の大地。かつて破壊と毒の王城に君臨していた破滅の王は、滅びたのだ。
魔王、と呼ばれた異界の神は、この世界を数百年に渡り脅かし続けていた。大地を腐らせ、空を凍てつかせ、人を殺し尽くした。かの海峡の向こうにかつてあった人間の帝国、その痕跡は、今はもう何一つ残ってはいない。
人々は逼塞し、滅びの日をただ待つばかりだった。
勇者と名乗る冒険者の一団が、果敢にもこの海峡を渡り、5日にわたる激戦の末、魔王を討つまでは。
青年はもう遠くなった海岸城塞から目を放し、船首のほうを見遣った。微かに霧がかかった陸地が、この定期船の目的地だ。季節は夏に向かおうとしているとはいえ、海風はまだ冷たい。
刺すようなその風は、今の自分の心のようだ、と青年は思った。
ーーー
船着場で降りる人々は、殆どが2刻ほど歩いた集落へ物資を届ける商人か、新しい大地に金の匂いを嗅ぎつけた冒険者のどちらかのようで、青年のように、見上げるあの城ーーかつて魔王が居城としていた場所を目指すものはいないようだった。
無理もない。滅びたとはいえ、あの恐怖の日々は人々の記憶には新しい。
しかし、だからこそ青年はかの城を目指したのだ。
勇者が滅ぼしたという魔王。彼は、どうやってこの世界に顕現せしめたのか?
勇者のパーティの一員である大賢者がいうには、彼の城には異界に繋がる門があり、魔王はその門を通ってこちらの世界に来たのだという。
ならば、こちらからその門を通れば、その異界へこちらから向かうこともできるのではないか。
なんの確証もないその一念で、青年はすべてを捨てて海峡を渡った。
平和になった世界。これから、人間の社会はますます発展し、光に満ちた世界が築かれるだろう。
……そこは、俺がいるべき世界ではない。
魔王の玉座があったとされる城の最上階。勇者と魔王が戦った痕跡が生々しく残っていた。砕けた装飾品。焼け焦げた壁。
”門”はすぐに見つかった。
玉座の後ろに鎮座する、人の背丈の3倍はあろうかという巨大な鏡。
いや、鏡ではない。水を湛えた水鏡のように鏡面が怪しく波打っている。
何人かの兵士が守っているそれは、魔力を孕んだ呪具のような、冷たい存在感を放っていた。
この鏡を通じ、魔王はこの世界に現れたのだという。
「隊長、準備はできています。いつでもいけます」
青年を隊長、と呼んだのはしなやかな長身の女性だった。青年にとっては見知った顔だ。
胸当ても外套も、腰に下げた細剣の鞘も、青年のものよりはるかに上等の仕上げで、見るからに騎士といった風情がある。
「本当に来るのか。どうなるか、保証はできないぞ」
「はい」
振り返りながらの問いに、女性は即答した。あまりに迷いのない回答に、青年は苦笑する。女性は当然だ、という表情を崩そうともしない。
「得るものは何もないかもしれない。もう戻れはしないかもしれない」
「はい」
「俺は君を見捨てるかもしれない。君を切り捨てるかもしれない」
「よいでしょう」
女性は青年を見据えて答えた。表情はかわらない。
「助けられようとは思っていません。お助けしようと思っているだけです」
「面倒なやつ」
「自覚しています」
青年は再び大鏡に向き直った。女性も青年の隣に立ち、大鏡を見上げる。
「隊長こそ、よろしいのですか」
「何が」
「皆、隊長を必要としているものばかりです」
「今だけだろう。いずれ、俺は不要になる。それに……」
「それに?」
俺には不要なものだ、という言葉を青年は飲み込んだ。女性も、それ以上問うことはない。
「行こうか」
「はい」
足を踏み出す。身体が、鏡に触れる。鏡はい僅かに波紋を浮かべ、二人を飲み込んだ。
その先に何があるのか。死か、絶望か、そのほかの何かか。それはわからない。
ただ、青年にとっては、そのいずれでも構いはしなかった。それらすべてを編み上げても、この世界に存在する以上の苦痛など、考えられなかった。
いずれにせよ、魔王の滅んだ幸福な世界から、青年の姿は消えた。
大鏡の波紋はすぐに凪ぎ、また冷たい存在感を放ちはじめた。




