8
年が明け、徐々に暖かい日々が増えてきた。
小川には雪解け水が流れ、小さいながらも木の芽が膨らでくる。
だが、桜はまだ咲いていない。
鈴代はすっかり通い慣れた村を歩いていた。
しかし、雪が消した道は姿を変えていた。まるで、初めて来た場所のようだ。
表には父ひとり、娘ひとりの小さな家が建っている。
そのひとりは、もうそこにはいない。
裏に立つのは、農道具を納めておくための小さな納屋だ。その戸は固く閉ざされている。
戸に手を掛けると、きしんだ音を立てた。粗末な納屋に鍵などなく、中で棒を掛けているのだろう。
鈴代は戸を軽く叩き、ささやく。
「さぎ」
呼びかけても中から返事はない。
「そこにいるんだろう? 君のお父さんが心配していたよ。数日も出てこないってね。危うく、気つけ薬を処方しなきゃならない顔色をしていた」
答えは、やはり返ってこない。音ひとつなく、気配もしない。
鈴代はため息をついて、戸に向かって話しかけた。
「さぎ。返事をしなくてもいいから聞いて欲しい。君の父上から話を聞いた。十数年前、北の山で行き倒れた所をある女性に助けられた――とね」
さぎの父親は十数年前、金を集めて村の仲間と共に伊勢参りへと出発した。
倹約をしながら東海道を通り、無事に伊勢に着いたまでは良かった。しかし、問題は起きたのは帰りだった。
思った以上に余った金を巡って、仲間に裏切られたのだという。
泊まったのは安い宿で、建物のどこにいても音が筒抜けになるような所だった。
夜ふと目を覚ますと、どこかで仲間の声が口封じのために自分を殺す算段を練っている。
――岩山から事故と見せかけて突き落とすか。
――いや、川を渡る途中に運び屋に金を掴ませて流してしまえ。
今思い出しても人生の中で、あれほど驚いたことはないと彼は語った。
仲間に裏切られた衝撃で彼は宿から逃げ出し、その後どこをどう歩いたのか、彼は冬の雪山へと迷い込んだ。
寒さと飢えに苦しみ、いっそこのまま眠ってしまった方がいい。
そう思った時。
まるで天女のような女性と出会ったのだという。
「なぜそんな山の中に女性がいたのか――答えは簡単だ。昔から、人里離れた山の中に住むのは人ならざるものと相場が決まっている。君は、半分は人間じゃない」
納屋の中から返事はないが、少しだけ身じろぎをする音が聞こえた。