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言うと、さぎは見るからにほっとした顔になる。
「良かった、父さんにもそう伝えておくわ。それにしても、本当にこれっぽっちのお金でいいの? 家にあった分をかき集めてきたものだけど」
「ああ。女性のためなら僕はどこにでも行くし何でもするよ」
「そう? 先生がそう言うなら良いけど」
本当は良くない。実は薬代もかかるし、ここまで往復するための旅費も必要だ。
けれど、美人のためならば構わないというのが鈴代の持論だった。
さぎがのそのそと布団から這い出してくる。顔にはやや申し訳なさそうな色が浮かんでいる。
「じゃ、ご飯食べて行く? 父さんも夜には帰ってくるから、先生の分を用意するくらいわたしで出来るし」
「これから江戸に行くから――そうだ、何か欲しい物があったら買ってくるよ」
一緒に過ごせない分、女性には気前を良くしておいた方が良い。それに、いかに良い品を買ってくるかも、目利きの見せどころである。こういう小さなところで気を配っておくのが肝心だ。
「欲しいもの?」
「そう」
さぎはしばらく思案してから、ぽつりとつぶやいた。
そのまま溶けて消えてしまいそうな、儚げな言葉。
「……恋」
「え、鯉? 池に泳いでるやつ? 食べるの?」
「違うわよ。わたしは、恋がしてみたいの」
「いやいや、絶世の色男を目の前にしてそれを言っちゃう? 僕だったらいつでも恋人になるけれど?」
決め顔で手を差し伸べるが、あっさりと首を振った。
「駄目よ。恋って、こう、会った瞬間に互いにびびびっときて燃え上がるようなものなんでしょ? 先生とはそういうのなかったもの」
「……それを感じちゃったら、ある意味で病気だと思うけどなあ」
鈴代は半眼でつぶやいた。鈴代も数多く女性と関わってきたが、そのようになったことは一回もない。この娘、初心を通り越して世間知らずなのかもしれない。
肩に布団をかけてやりながら、鈴代は苦笑した。
「人を好きになるのは、会った瞬間じゃなくてもいいんだよ。時に、近すぎて好きということに気付かないことすらある。燃え上がるような恋じゃなくて、何度も顔を合わせてからやっと叶う恋もある。結果的にそっちの方が長続きすることも多いんだ」
鈴代の長年の経験も、さぎは半信半疑のようだった。
「だって、母さんが言ってたもの。父さんとはそうやって出会ったって」
「そりゃ……ずいぶん唐突な出会いだね」
あのしわしわで年を取った父親が、そんな壮大な出会いをしたとは思わなかった。
「父さんも若い頃は情熱的だったんですって。母さんを見て、鬼気迫る顔で走ってきたらしいわよ」
その様を思い浮かべたのか、くすりと笑った。
「母さんが死んで、一人ぼっちになった時にその話を思い出して。こうやって降りて来て良かった。情熱的かは分からないけど、優しい人だったから」
「今まではどこか別のところに住んでいたの?」
すると、途端に彼女は肩をこわばらせた。
「……もっと遠くの、北の方の山に住んでたの。一年中空気が冷たくて澄んでいた。水も凍ったようで気持ち良かったわ」
それっきりさぎは口を閉ざしてしまった。気まずい沈黙が場を支配する。
触れにくい話題だったことは間違いない。
踏み込み過ぎたことを悟って、鈴代は話題をそらした。
「恋を持ってくるのは無理だけど、似たようなものを持ってくるよ。だから、楽しみにして待っててくれ」
「本当? わたし、誰かに贈り物を貰うのも初めてだわ」
さぎはぱっと顔を輝かせた。
その様子は恋人を待っているものとそう大差はない。
鈴代はもう一度、苦笑した。