9
村を、北風が通り抜けていく。
もうすぐ春一番が吹く頃だから、恐らく最後の寒風だろう。
けれど鈴代は寒さなど感じていないように、待っていた。
やっとのことで返ってきたのは、ひどく弱々しいかすれ声だった。
「……どうして?」
「白い髪に何人か知り合いがいるっていったよね? 彼らは皆、人間じゃない。妖だったりそれ以外だったり――白は人には許されない色だから」
白は古来より神聖とも不吉な色ともされている。そのために白い獣は神の使いとして伝えられている。
さぎの父親は、さらに語った。
その女性は雪をものともせず、高台にある小屋まで自分を連れていった、と。
友人に裏切られ、人を信じられなくなってしまった自分を手厚く看病してくれた、と。
やがて、彼はその女性と結ばれた。
けれど、彼女は――
「助けてくれた女性はいつも小面を付けて、最後まで顔を明かさなかったそうだ。今でこそ離れてしまったけれど、昔は人と神が子をなすことも珍しいことじゃなかった。君は、神使と人間の子だったんだ」
さぎの父がたどりついた小屋。そこは土地の神を祀る社だったのだろう。神使を除いて誰からも忘れられ、たまに訪れがある程度の神の住処。
それでも、神は神だ。
「僕からも聞こうか。どうして君は山を降りたんだ? ここに来るまで楽な道じゃなかっただろうに」
「……一目でいいから、父さんに会ってみたかったのよ」
さぎは、神社に住む神使たちによって育てられた。彼女らは山に参拝に来た人間を導き、山で迷った人間を助ける暮らしをしていたのだという。
母親はさぎを生んですぐに亡くなった。人間よりもずっと神に近い神使には、産の穢れは命取りとなる。もしかしたら、神に仕えるはずの使いが人を選んだことに怒りを下したのかもしれない。
神使の子とはいえ、さぎには何の力もなかった。せいぜい髪と目の色が変わっているだけの、普通の人間だった。
一年通して雪が残る高山で遊び、神社の手伝いをしながら大きくなっていくさぎを見て、彼女たちはいつも悲しそうな顔をしたのだという。
どれだけ時がたとうと、神使は変わらない。けれど、人間は変わる。
「神使と人間の子はそう長く生きられない。わたしも小さい頃から身体が弱くって、春が来ると決まって身体が悪くなった。それで思ったの。ああ、もう時間がないんだなって」
仲間たちが止める中、さぎは昨年の秋に生まれ育った山を降りた。
見てみたかったのだ。
母親が身を滅ぼすほどに恋焦れた相手を。
「どこをどう歩いたのか、ここの村の麓にいたの。今思うと、山のみんなが助けてくれたのかも。村の人が驚いた顔をして、父さんが大慌てで走ってきた」
そして、共に暮らし始めたのだという。
人里の家は守られていた山とは違って貧しく、飢えも苦しみもあった。
けれど、時が過ぎるごとに色とりどりに移り変わる人の世は面白くもあった。
「だって、桜も見たことなかったのよ。夏なんて知りもしなかった。雪が少なくなるか多くなるかの違いだけだと思ってたの。最初に葉っぱが赤くなってるのを見て山火事だと思ったんだから大概よね」
ふぅ、とさぎは息をついた。
それだけで重労働をしているように、息が続かなくなっているのだ。
「君は父親に自分の身体のことを隠したがってた。いくら薬を飲んでも、身体は治ってなかったね。君はどんどん弱っていった」
「そうね。これ、あんまり良くない病なんでしょう? わたしと同じように血を吐いた人が、山に捨てられてるのを見たことがあるわ。うつるから近づいたら駄目って言われてたけど、まさか本当とは思ってなかったわ」
「……やっぱり」
鈴代は、戸を背にして力なく座りこんだ。
塞ぎこんだ理由に、ぴんとくるものがあったのだ。
労咳。顔色白く乾いた咳が出て、やがて血を吐く肺病だ。
父娘の一家族どころか、小さな村ならばたやすく滅ぼしてしまうほどの流行り病。身体の弱った子供や老人から発症するから、衰弱していた彼女がどこで得ていてもおかしくはない。どこからうつるかなどわからないのだから。
恐らく彼女は、もうこの小屋から出てこないつもりだろう。
自分の命が尽きる、その時まで。
「一度でいいから母さんみたいな恋をしてみたかったの。だってあのまま山で死んでいったら、わたしなんて、最初からいなかったのと同じじゃない」
話しているのも限界に近いのだろう。扉越しに聞こえる声には喘鳴が混じっていた。
「でも、なんで? 胸が痛くって、このまま死んじゃうと思うと、息をするのも苦しくて。診て欲しいけど、先生に会うとまた痛くなるのよ。どうしてかしら」
鈴代は、その問いには答えなかった。
その代わりに噛んで含めるように言う。
「恋ってさ、すごく難しいんだよ。一緒にいると胸が痛くなって、遠ざかると会いたくてたまらなくなる。叶う恋も叶わない恋もあるけど、どちらにしてもすごく苦しむ。自分の心が思い通りにならなくって、みんなが苦しむものなんだよ」
扉越しに彼女が不思議そうにつぶやく。
すぐそこにいる。けれど、触れることもできない。
たった一枚の木戸が、この時は千里も万里も遠く感じる。
「そうなの? わたしは、恋はもっと嬉しいものだと思ってた。だって、母さんはとても幸せそうだったってみんなが言うから。難しいのね、恋って」
さぎの声がふっと和らいだ。
雪を溶かす、春の日差しのような響き。
「わたし、ちゃんと恋ができたのかしら?」
「自分の胸に聞いてごらん。ちゃんと痛くて、苦しいだろう? それが証拠だよ」
彼女は答えてこなかった。ただ、かたんとだけ音がした。
背をもたれた木戸にわずかな重さがかかる。もう紙ほども軽くなってしまった彼女の身体はきっと、ひんやりとして心地よいはずだ。暖めてやりたいが、もう届くこともない。
鈴代は、ぽつりとつぶやいた。
「もうすぐ桜が咲くよ」
「そう」
「君がやってきた山にも」
「そうね」
「見に行かなくていいのかい? 今まで桜を見たことがないんだろう」
「いいのよ」
「連れて行ってあげたいな。僕の家の近くに、すごく綺麗な桜があるんだ」
「桜なら、もう見せてくれたじゃない。わたしにはこれで十分」
ああ、そうだ。彼女はきっと桜を抱いている。
かざしにした白桜は髪に映えて、とても美しいに違いない。
見えなくても、目に浮かぶようだった。
姿は見えなくてもすぐ傍にいる春のように。
「そっか。わたしは、これに焦がれてたのね」
彼女の最後の言葉に、鈴代は声を殺して泣いた。
彼女に聞こえてしまわないように。
彼女の中では、ずっと笑顔でいられるように。