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江戸の八百八町に夜が訪れる。
夕日は長屋の屋根へと、今にも沈もうとしていた。
文月に入り、そろそろ月も半ばを越したところだ。
蝉の鳴き声も変わり、皆がうすうす感じ始めている。
一日の終わり。そして、夏の終わりを。
それは、いつもの銭湯帰りの道の途中であった。
浅草にある湯屋から神田に帰るまで、夕涼みを兼ねて川歩きをしていた。ちょうど、橋を渡り始めようとしたところだった。
「ん?」
甘斗は鼻を動かした。川や、まだ暑い空気の匂いに混じって、煙の匂いがする。
「この匂いって――線香?」
「せんこう? って、なに?」
輪廻が小さく首をかしげた。朱色の落陽が麦穂色の髪をきらきらと照らし出す。
「香りの強い草を型に入れて、棒状にしたものだね。神社には馴染みがないけれど、お寺ではよく奉納されてる……そうか、うちの近所にはお寺が少ないもんなあ」
そう言って鈴代はしっとりと濡れた黒髪をいじくっている。いい大人だというのに伸ばした髪は、烏の濡れ羽色となって夕焼けによく映えていた。
とはいえ、線香など身近なものほど目の前に実物がないと説明できるものでもない。
本気でわからないらしく、首を傾げている姉弟子に、甘斗は目を丸くした。
「ええ? 輪廻さん、線香も知らないんすか。どんだけ世間知らずなんすか」
「む。別にいいでしょ、それくらい。あたしだって甘ちゃんの知らないこと、いーっぱい知ってるもの」
ぷっくりと頬を膨らませ、輪廻はそっぽを向いた。
その態度に甘斗は少しだけかちんときた。とっさに言い返す。
「はぁ? オレは少なくとも輪廻さんよりは物知りっすよ。本だって読んでるし」
「あたしだってご本くらい読めるもん! その――絵があるのだったら!」
「まあまあ、二人ともその辺にしてね。ほら、周りの子たちが見てるから」
ぽかんとした顔で見ている親子と目が合い、甘斗と輪廻は慌てて口を閉ざした。
見ると、川の近くにはちらほらと人出がある。両国橋のように混雑しているというわけではないが、いつも以上に人が多い。特に、家族連れらしき姿が多い。
今も、河原で親が石を打ち、ぽっと薄暗闇に火が灯る。
火種を線香に近づけると、するする煙が上がる。草と火の燃える匂いが、なんともいえない香気となって辺りに広がっている。
橋の欄干に手を置いて、鈴代は息をついた。煙が、まるで白い帯のようにふわりと空に舞い上がっている。
「仏前では線香は死者への手向け。もう会えなくなった人に音と香りを届けるためのもの。そっか、今日は盆迎えか。あれから、もうそんなに――」
独りごちて、しばし羽のように踊る白を眺めていたが。
ふいに鈴代は浴衣をひるがえした。
「あれ、先生?」
「ごめん、僕ちょっと寄るところができたから。先に帰っててね、二人とも。あ、甘斗。輪廻をあんまりいじめちゃいけないからね」
「いじめてないっすよ!」
口を尖らせる甘斗に笑顔を残し、鈴代は橋を戻り始めた。
「?」
甘斗と輪廻は顔を互いに見合わせ、怪訝そうな顔をした。
師の変行奇行はいつものこととはいえ――
「なんか先生、哀しそう……」
ぽつりと輪廻がこぼした言葉が、甘斗にはやけにはっきりと聞こえた。