ピアノ・ソナタ
音楽室から、ピアノの旋律が響き渡る。
中では、緑髪の青年が、長い指を器用に動かして白黒の鍵盤を叩いて弾いていた。
「……ふう、」
曲を弾き終えたとき、突然、後から一人分の拍手が鳴り響く。振り向くと、青年以外誰もいなかった筈の音楽室に、一人の女生徒が立っていた。
「よかったよ、綾川」
「……何だ、黒瀬か」
黒瀬、と呼ばれた少女は、セミロングの黒髪を無造作に揺らして綾川に近づく。綾川は嫌がることなく、ただ来るのを見ていた。
「綾川、ピアノ弾けるんだ」
黒瀬が言うと、綾川は鼻を鳴らしてそっぽ向く。
「ただの特技に過ぎない」
高慢な態度に黒瀬はキレることなく、綾川をスルーして鍵盤をひとつ叩く。高いソプラノの音が、部屋に響いて拡散する。それは心地よく、二人の耳に染込んでいく。
「……ふうん、」
黒瀬は納得いかないように頷き、鍵盤に指を走らせる。適当に紡がれた音階は、ただの音となって消えていく。綾川は、ただ眺めるだけで何もしない。
「……綾川、」
「何だ」
「どいて」
鍵盤を触っていただけだった黒瀬は綾川を椅子から退かせ、自らが座る。一息吐いて、指を鍵盤においてスタンバイ。そして、ソプラノのメロディが細々とピアノから流れ出した。
「……"悲愴"、か」
綾川は曲名を当て、耳を閉じる。
音楽室には、悲しげなメロディが溢れ、それは外にも微かに漏れ出でていた。か細く儚げな旋律は、聴くものの耳を魅了して離さなかった。
引き終わってから、黒瀬は椅子を離れ、綾川に譲る。
「さっきの曲、弾いて」
そういって、ほぼ無理矢理に綾川を椅子に座らせた。
「ちょ、おい、黒瀬!」
「いいから弾いて」
黒瀬が強引になると、中々弾いてくれないことを綾川は身をもって知っている。諦めて大人しく座り、態勢と呼吸を整える。そして、腕から力を全て抜いて鍵盤に長い指を走らせる。
今度は、さっきの"悲愴"とは対象的な、力強いメロディが流れる。それを、黒瀬は熱心に聴いていた。
「……ショパン、"英雄ポロネーゼ"」
黒瀬はそう呟き、指先で腕をタンタン、と叩く。まるで、綾川の弾くソレと同調するように。黒瀬のそれは、綾川が曲を弾き終わるまで続いた。
「――――――どうだ、満足か?」
「十分」
綾川が引き終わってから黒瀬はまたピアノに近づき、今度はたどたどしく鍵盤を指でなぞり、音を出す。ぎこちなく流れ出した旋律は、さっきの"英雄ポロネーゼ"に近いものだった。が、曲の持つ雄大さは全く無かった。
「……さっきのを聴いて覚えたのか?」
綾川が聞くと、黒瀬は頭を横に振る。
「メインしか知らないから、なんとなくで」
「……そうか」
途切れがちな"英雄"はやがて止まり、白い鍵盤の上には黒瀬の指が置かれているだけだ。
「……どうした黒瀬?」
フェードアウトするように消えた旋律に違和感を覚えた綾川は聞くが、黒瀬は俯くだけで、何も答えない。長い黒髪が横顔を覆っているため、表情が全く読めない。
「……黒瀬?」
顔を覗き込もうとすると、そっぽ向かれる。苛立ちそうになる心を抑えて、綾川は問を重ねようとする。
「おい、黒瀬」
「綾川はいいよね、」
吐かれるように言われた言葉には、棘しかない。いぶかしみながら、綾川は次の言葉を待つ。
「綾川はさ、指長くてピアノ弾くのには向いている。けど、私は――――……」
「お前、は?」
深入りしようとして踏み込んだ聞き方をすると、黒瀬は急に教室から出た。
「もういいッ!!」
そう吐き捨てて、どこかに行こうとする。
「おい、黒瀬!」
慌てて綾川が追いかけたときには、黒瀬の姿は見えなくなっていた。足音も気配も、もう残ってはいない。
静かな廊下で、綾川は立ちつくす他、何も無かった。