中編2
この話で終わらせるはずが、予想外に伸びました。タイトルどうしようかと悩みましたが…中編が二つになってしまいました。すみません。
多分、次で完結します。
いつ、どのタイミングで日奈子にプロポーズしようか。どのみち、今からでは電話でのプロポーズになってしまう。それでは格好つかないし、不誠実ではないか。かなり不本意だが、出張から帰ってからにするか…
まだ旅立ってもいないのに、もう帰国後の予定を考えている自分に気付いて、苦笑する。もっ早くに行動に移せていれば、俺の婚約者に…いや、もしかすると妻となっていた日奈子と共に、異国に旅立つ未来もあったかもしれない。
後悔ばかりを背負う俺の背中に、今ここでは有り得ない声が聞こえた。まさかと思い振り返ると、そこには日奈子が立っていた。
「…驚きました」
するり、と意図せずに言葉が口から滑り出た。つい今しがた、プロポーズをしたくてしたくて、思い焦がれていた彼女の姿に、つい頬が弛む。日奈子から見たら、非常にしまりのない顔をしていることだろう。
「斎さん」
日奈子の何か決意を込めた様な顔を見て、どくりと心臓が脈打つ。いつになく凛々しい日奈子の瞳に、佇む俺が映っている。その時、今だ。プロポーズするなら今しかない、という衝動に駆られた。
「日奈子さん」
日奈子が何か言い掛けたのを遮って、彼女の名を呼んだ。いつにも増して甘い自分の声に、ああ、俺はやはり彼女が好きで堪らないのだな、と変に納得する。
「貴方は、俺にとってはホトトギスです」
心臓が悲鳴を上げる。日奈子に最大の愛の言葉を告げた瞬間、周囲の音がぷつん、と消えた気がした。緊張と興奮のあまりに限界を超えた心臓と脳のなせる技か。確かに、俺の時間は一瞬止まった。
突然のプロポーズに驚いたのだろう。石のように固まって動かなくなった彼女に一言声を掛け、俺は足早にその場を立ち去った。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。自分がどんな顔をしているのか分からない。
プロポーズが、こんなに勇気がいるものだったとは。
初めての海外で、多少なりとも期待をしていたはずのニューヨークの町並みは、そこまで俺の目を楽しませてはくれなかった。
気付けば、会社で用意されたホテルにいて。義務のように食事をして、火照った身体をシャワーで静めて。さらりとしたシーツのベッドに横になって、彼女に思いを馳せる。今頃日奈子は、なにをしているのだろう。
一一何て、答えてくれるのだろう。
そんな事を考えたら、いてもたってもいられなくなって、落ち着きなく立ったり座ったりを繰り返す。
ふと時計を見れば、三十分が経過している。
俺は何をしているんだ…。
こんな格好悪いところ、日奈子には絶対に見せられないな、と小さく笑う。
このままでは、気になって明日からの仕事も手につかないな。
俺はスマホを操作し、彼女へのメールを作成する。日本とニューヨークの時差を計算し、彼女が全てを終えて、ベッドに入るであろう時間に送信予約をする。
この五年、毎日が幸せだった。だが、これからは更に、幸せに満ち足りた人生になるだろう。
この時、俺は そう信じて疑わなかった。
ニューヨークでの俺の評価は上々だった。日本人は勤勉な国民だって 本当だな 。おどけながら、金髪碧眼の同僚はそう言った。プライベートでさえ仕事を持ち込む俺を、同僚は口々にクレイジーだと言い、笑い合っていた。
狂ってる。彼らはジョークで言っただろう。だが、あながちそれは外れじゃない。俺はポーカーフェイスのその下で、気が狂いそうな自分をなだめていた。
なぜ、返事をくれない。
俺の脳裏に彼女がよぎらない日はない。テーブルの上が定位置だったスマホを、常に持ち歩くようになった。ついには、トイレや風呂にさえ持ち込むようになり…俺は立派な携帯依存症になっていた。といっても、いじり回す訳でもなく。ただ、ポケットに入れておくだけ。四六時中、この薄い端末がいつ着信を知らせて震えやしないかと、気が気じゃないだけだ。
…もし、寝ている間に彼女から電話でも 掛かってきたら と思うと、満足に深い睡眠を得ることもできやしない。ただ、ディスプレイを眺めて連絡を待つ。それが毎日の日課だった。
自分から連絡すればいいのだとは思うが…プロポーズの返事を急かすなんて真似は、格好悪くてできなかった。だからといって、日にちが経って不安が心を占めても、催促は愚か、あれは無かった事にとは、口が裂けても言えない。
しかし いくら待てども日奈子からの返信はない。睡眠を充分に取れていない俺の目の周りのくまは、濃くなる一方だった。食欲も減退気味だった俺は、この三ヶ月で体重も落ちた。
同僚からは休めと再三にわたって忠告されたが、今の自分には休息は毒だ。ゆっくりと身体を休めていると、何かがすっぽりと、自分から抜けている感覚を突き付けられる。うたた寝の間に見た日奈子との幸せな一時は、目を覚ませば全てが消え失せるまやかし。日奈子の夢を見たあとに味わう孤独は、これ以上ない程に俺の胸をえぐる。
そうなってしまって、思い知るのだ。やはり俺は もう、日奈子無しには生きていけないのだと。
その日は、突然やって来た。朝からニューヨークは雨だった。日中のミーティングの最中、スーツの内側の胸ポケットに入れておいたスマホが振動した。ついに、彼女から。
はやる気持ちを押さえ、ミーティングを中座する。私用で企画会議をとんずらするとは、社会人にあるまじき行為だ。だが、この時の俺は早く彼女の返事を確認したくて、それどころじゃなかった。
部屋を出てすぐに、端末を取り出して操作する。見慣れた手紙のマークのメールボックスを開き、最新のメールを指で何回もタップする。早く、早く日奈子からの返事を見せてくれ。
そこに表示された文字に、俺は目を見開き、それを何度も確認した。そこには たった五文字の、別れの言葉があった。
そんな、まさか…日奈子、嘘だと言ってくれ。
端末を持つ手が震えて、足にも力が入らなくなる。するりと手から落ちたスマホが、床に落ちる音が廊下に響く。身体が傾き、床に崩れ落ちる感覚と、冷たい床の感触を最後に。俺は意識を失った。
何かの物音に目を覚ますと、白い天井が目に入った。白い部屋にいくつか並ぶベッド。微かに香るアルコールの臭いに、俺はここが病院だと気付いた。
ベッドサイドに目を向けると、黒髪黒目の同僚が荷物を備え付けの棚にしまい込んでいた。同僚はだるそうに袋をぎゅうぎゅうに詰め終えると、くるりとこちらを振り向いた。
「おう、起きたのか」
「…せめてもう少し、丁寧にしまってもらえると嬉しかったですね」
ちら、と若干閉まりきっていない棚に視線を向けると、同僚は大袈裟に肩をすくませた。
「おいおい、入院中の着替えやらタオルやらを持ってきてやった優しい同僚に なんて言い草だよ」
「入院、ですか…?俺が?」
おどける彼に、愕然として聞き返す。
「過労だと。お前最近ろくに寝てないんだろ?目の下、すごいぞ。過労と栄養失調で、一週間は入院だとさ」
入院、しかも一週間?冗談じゃない。仕事をして気を紛らわせて、やっと人並みに生活出来ていたのに。今の俺から仕事を取ったら、四六時中日奈子の事を考えてしまうじゃないか。それこそ、気も休まらない。
「入院なんて…仕事をしていなければ、頭がおかしくなりそうなのに…」
消えそうな声で呟いた俺の言葉を聞き取った彼は、呆れたように、再度やれやれ と肩をすくませた。
「そんな状態もおかしいだろ。皆言ってるぞ。お前、働きすぎだって。日本に 残してきた可愛こちゃん、心配してるんじゃないかってな」
心配と好奇心が混ざった口調に、胸がざわめいた。日奈子の顔がパッと浮かんで、あの五文字を思い出し。ひゅっ、と息が詰まる。瞬間、言い様のない焦燥と怒りが込み上げてきた。
「お前に…お前に何が分かる!日奈子の事をなにも知らないくせに!」
怒りが抑えきれずに、同僚を睨み怒鳴り付けながら、握り締めた拳をベッドに降り下ろす。ドンッ、と鈍い音が病室に響いた。向かいのベッドに寝ていた患者が飛び起きて俺を見たが、それを気にする余裕もなかった。
張り詰めた空気が漂い、どちらも口を開かずに視線を交錯させたまま、動かなかった。
その沈黙を破ったのは、棚から聞こえた バサッ、と言う音だった。思わず二人で視線を棚に向けると。その途端に棚の扉が開き、タオルや着替えが雪崩れの様に落ちてきた。
どれ程詰め込んだのか。床の上には、小さな小山が出来ていた。
ぽかんと呆けた俺とは反対に、彼は 棚を一撫ですると。
「だから病院は嫌いなんだ。棚まで俺を馬鹿にしやがる」
芝居がかったセリフに、しょげた顔を見ると、不思議と怒りが収まっている事に気付く。すると何故か妙におかしくなってきて、笑いが込み上げてきた。俺が吹き出すと、彼は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしたが、彼も堪えきれなかったのか、盛大に吹き出した。
二人で笑いあって間もなく、病室のドアが壊されんばかりの勢いで開き、ゴリラに似た いかついナースと、ひょろっとした医師が入ってきて。俺と同僚は、二人並んでナースにしこたま叱られた。