中編
彼女…日奈子と過ごす日々は幸せだった。
卒業後就職して仕事をこなし、家に帰れば日奈子が夕食を作って待っていてくれる。幸せ過ぎて、どうにかなってしまいそうだった。
日奈子と付き合って、俺の執着と独占欲は少しずつ薄れていった。今までが重すぎたのだ。溢れんばかりのその重くドロドロとした感情は、日奈子を得て浄化されてきた。
日奈子が毎日、俺のアパートに通ってくれるのを嬉しく思う。仕事の合間に、日奈子は 何の講義を受けているのだろう。もう大学を出た頃だろうか。もう料理に取りかかっている頃だろうか、と日奈子のことばかり考えていた。
俺が仕事で遅くなり、門限を厳守する日奈子が帰った後に帰宅すると、途端に寂しさが襲ってくる。彼女に3日も会えなければ、何も手につかなくなってるこにも出掛けない。日奈子を俺一人が独占したかった。どこか外を歩いて、他の男に日奈子を見せるなんて、耐えられない。
俺自身、自分がどうかしてしまったのでは、と思ったことは何度もあった。
いっそのこと、孕ませてしまえば…
そんな馬鹿げたことを考えなかったかと言えば、嘘になる。
何より、会う度に今日は何をしたか、どんな講義を受けて、どう思ったのか。楽しそうに話す日奈子から、大学生活を取り上げることは出来なかった。
あれは、付き合って1週間と経たない頃。日奈子が興奮しながら、ある講義で聞いた夏目漱石の訳詞のことを話してくれた。
彼は、アイラブユーを月が綺麗ですね、と訳したそうだ。
とろんと熱に浮かされたような瞳をして話す日奈子がやけに艶っぽくて、俺は夏目漱石よりも、目の前の日奈子に夢中になっていた。
その年のクリスマス。イベントなんて関係なく仕事で遅くなった俺が帰宅した時、日奈子が珍しくソファで丸くなって寝ていた。
テーブルには、チキンやケーキ、色とりどりの料理。俺が帰ったら使う予定だったであろう、クラッカーを手にしたまま眠る日奈子を見て、愛しさが込み上げてくる。
「日奈子…」
ふと口を突いて出た愛しい人の名前を呼びながら、夏目漱石の訳詞を思い出す。月が綺麗ですね。
日常の何気ない言葉に愛しさを込めた時、その言葉は愛している と同じ意味を持つ言葉になるんじゃないだろうか。
今は亡き彼は、そう言いたかったのでは。何となく、自分なりの解釈をして、日奈子の髪を撫でる。
それから、俺が呼ぶ“日奈子”という名前には、“ 愛している”と同じ意味がこもるようになった。毎日、名前を呼んで愛を囁く。
彼女には、俺の薄暗い部分を見せたくなかったから。愛しているよりも、好きだと言い続けた。
そうやって3年過ごし、日奈子が卒業し、就職をした。卒業を機に結婚を。
そう思っていたが、肝心のプロポーズは出来ずに終わった。日奈子の就活に熱心に取り組み、やっともぎ取った内定に喜び泣く姿を見ると、日奈子の頑張りを無下にするようで、言い出せなかった。
結婚するとしたら、日奈子には絶対に専業主婦になって、家にいてもらいたかった。今プロポーズすれば、彼女には入ったばかりの会社を辞めてもらうことになる。
今はまだ、その時ではない。彼女が何の未練も残さず、仕事から離れなければ。俺と結婚した後に、もっと働きたかったなどと思わないように、勤め果たして貰おう。日奈子は俺の傍に居れば、それでいい。
日奈子が働くようになり、俺にとって思いがけず良いことがあった。彼女は家を出て一人暮らしを始めたのだ。嬉しいことに、それによって格段に自由が増えた。
金曜日には彼女が仕事終わりに俺のアパートに来て、泊まっていくようになった。初めて一緒に朝を迎えた日のあの感激を、俺は一生忘れないだろう。
平日も、日奈子は変わらず夕食を作って待っていてくれた。遅くなっても、学生の時のように門限を気にしなくてよくなったから、俺が彼女をアパートまで送ることも多々あった。日奈子に、部屋に寄っていかないかと誘われたが、俺はかたくなに それを断っていた。
すごく魅力的な誘いだが、日奈子の部屋に一歩でも入ったら、冗談じゃなく そこから出たくなくなってしまう。俺は自分の部屋というプライベートな空間に、他人を入れない。家族でさえ、入室する際は事前に言ってもらわなければ、気分が悪い。引っ越し業者も入室を拒否したがために、自分で運び入れられる物しか家に置かない。
日奈子には、スッキリしていて綺麗な部屋だと言われたが…本当は、潔癖なまでの人嫌いが原因だとは言えそうにない。
唯一、部屋に自由に出入りできる日奈子は、それがどれだけ俺にはイレギュラーなことなのか、分かっているのだろうか。日奈子が思っている以上に、彼女は俺の特別な人で、唯一の人なんだ。
日奈子と付き合ってから、5年目。予想外の事態が起こった。元々別の同期に話があった海外出張が、俺に回ってきたのだ。同期が交通事故に遭い、全治6ヶ月の大ケガをしてしまった。そこから更にリハビリ期間を含めると、社会復帰は一年後になるらしい。
冗談じゃない。なんで俺が。俺は早々に辞退を申し出た。しかしそれが受け入れられなかった。
会社で そこそこの成績をおさめていた俺と同期を、上司は常々スキルアップのために海外の支社に出向かせたかったらしい。今回は同期の意向で出張が彼に決まっていたが、俺に変わった所で上司側には何も問題はないと言う。遅かれ早かれ、俺も海外に行く予定だったらしい。しかも海外出張が二度目になるから、俺の任期は3年の予定だった、と。
そんな馬鹿な、と上司に詰め寄りたかったが。俺の当初の予定よりは任期が短くなったのだ。ここは甘んじて受け入れよう。俺は薄っぺらい笑顔を張り付けて、了承の意を示した。
日奈子に出張のことを打ち明けた時、彼女は驚愕に目を見開いて。その後すぐに、そんな…と呟いて唇を震わせた。悲愴な表情を浮かべる日奈子を見て、そんな悲しそうな顔をするな。と、優しい言葉をかけてあげたい自分と。青ざめてうつむく日奈子を見て、安堵を浮かべる自分がいる。こんなにも思われている。俺が傍に居なくなると知って、そんなに悲しんでくれるなんて。
暗い笑みを浮かべながら、日奈子の髪を撫でた。
大丈夫。離れるのは、1年だけ。今は長く感じるだろうけど、これから先、一緒に(ともに)生きていく何十年もの時間に比べたら、少しのことだよ。
帰ったら、なるべく早く入籍して、式をあげよう。泣きそうな日奈子を目に焼き付けるように見つめながら、俺は未来へ思いを馳せた。
日奈子の華奢な指には、どんな指輪が似合うんだろう。細い指が器用に箸を使って、料理を口に運ぶ。そんな日常の動作でさえ、愛しく思える。
「…斎さん?」
名前を呼ばれて、ハッとすれば、日奈子が難しい顔をしてこちらを見ていた。おっと、食事中だったっけ…
「ああ、何でもありませんよ。少し寝不足気味なので…」
貴方の指に見とれていただなんて、言えないな。
心配する日奈子に、大丈夫ですと返しながら。俺は日奈子の指に愛の証が輝く未来を、思い描いていた。
ニューヨークへ行く前に、彼女と婚約をしたい。そう考えているのに。愛を囁く機能が壊れているらしい俺の頭では、どうやってプロポーズすればいいのか分からなかった。
この思いの丈をありのままに ぶつけてしまえば、日奈子は間違いなく引くだろう。
彼女は良くも悪くも純粋だ。俺のこのドロドロとした執着をぶつければ、俺を恐れて、逃げてしまうかもしれない。
日奈子が純粋に喜んでくれるプロポーズでなければ。日奈子はロマンチックが好きだ。借りてきたDVDで観る恋愛ものは、全てが甘く、時おり激しくムードたっぷりにヒロインに愛を囁く。お決まりのハッピーエンド。
愛、というフレーズに またもやよぎるのは、夏目漱石。だが彼は今回はあてにならなそうだ。月が綺麗だと抜かしてプロポーズになるならば、とっくにやっている。
迫る期日。ついに出国が来週にまで迫っていた。とんでもない能無しでへたれの自分が死ぬほど嫌になる。それとなく、無言になった時などは今だ!とは思う。だが言葉が出ない。もうロマンチックなプロポーズに拘らずに、結婚してください、と なりふり構わずに告げればいい。頭では そう分かっていても、その一言が言えない。
自分が心底嫌になる。
とうとう出国前に、日奈子と過ごす最後の夜になる。
…そして、何事もなく朝になる。
出国の日、いつになく早起きをして、パソコンでプロポーズの仕方というウェブサイトを見る。初めから こうしていればよかったのでは…
後悔しながら、俺は次々に画面に映る愛の言葉を目で追った。
いよいよ、日奈子と最後の言葉を交わすとき。
「日奈子さん」
「…はい、なあに?斎さん」
「…俺と…」
結婚してください。その一言がなぜ言えないんだ。
「いえ、いってきますね」
「…いってらっしゃい、斎さん」
ついに、言えずじまいになってしまった。控え目に手を振る日奈子に手をあげて応えながら。
俺は後悔で真っ白になっていた。
それからぼんやりと会社に行って、上司と社長に挨拶をして、会社を後にした。
途中、日奈子の友人に会い、軽く立ち話をする。今は同じ会社に勤める後輩となった彼女は、いわば 俺と日奈子を引き合わせてくれたキューピッドのような存在だ。付き合ってからも、たまに日奈子の情報を提供してもらっていた。そして、彼女には俺がいない間の日奈子の周囲の監視を頼んである。日奈子に余計な虫でもついたら堪らないからな。
プロポーズを失敗して、脱け殻のようになっていた俺に、「そう言えば日奈子、こないだ観た映画の告白シーンが素敵!って言ってましたよ」と助言をもらってしまった。
こないだの映画と言えば、花屋のヒロインのもとに一人の青年が客としてきて、仲良くなる話だったか。告白…確か、花言葉になぞらえて、バラを贈って告白していたな。そのシーンで、日奈子がハンカチを握り締めながら号泣していたのを思い出す。
花か。花は日奈子も好きだし、花言葉に合わせてプロポーズをすれば、ロマンチックだと感動してくれるのでは。それに、彼女が以前花言葉に はまっていたのを覚えている。
決まりだな。これで行くしかない。
いい収穫を得た俺は、後輩に礼を言って、空港へ急いだ。
空港への道すがら、考えるのは日奈子と花言葉の事のみ。しかし、花言葉に全く詳しくない俺は、どの花を贈ればいいのか さっぱりだった。お決まりのバラなんてどうだろう。…定番過ぎて、サプライズに欠けるか。日奈子はタンポポが好きだったな…いつだったか、「平凡だけど、コンクリートをぶち破ってくる根性がすごく好き」 と言っていた。華やかさはないが、彼女が好きな花なら喜んでくれる気がする。
いそいそと、タンポポの花言葉をスマホで検索する。画面に表示された言葉を見て、俺は肩を落とした。
「離別、軽率、思わせぶり、愛の信託…」
冗談じゃない。とんでもない花言葉じゃないか。他はたいてい 良いことばかり書いてあるのに、なぜお前はネガティブな花言葉なんだ、タンポポ。
俺はひたすら花言葉を探した。日奈子に贈るに ふさわしい花言葉を。あまりにマイナーな花では伝わらないだろう。
花言葉の一覧表を眺めながら、その数の多さにうんざりする。一つずつ見てみても、これといって しっくりくるものがない。
指で画面をなぞりながら、だらだらと検索していると。
ある項目で目が止まった。
誕生花。そんなものがあるとは、初めて知った。
…いや、初めてじゃないな。これもまた日奈子が花言葉にはまっていたときに、「それぞれの誕生日に花が決まっているなんて、素敵じゃない?」と興奮していたな。
ふと思い付いて、日奈子の誕生花を検索してみる。十月九日。その日の誕生花はホトトギスというらしい。
その花の名前をクリックすると、ぱっと画面にピンクの小さな花弁の花が現れた。地味ではあるが、かえってその主張し過ぎない愛らしさが、まるで彼女のようで。思わず頬が緩んだ。そして、その花言葉は…永遠にあなたのもの。
俺はその時雷に打たれたような衝撃を受けた。これ以上に、俺の気持ちを伝える花はない。ロマンチックな言葉でありながら、死ぬまで、いや死が訪れても ともにいたいという俺のドロドロとした執着を、上手く隠してくれている。
決めた。この花しかない。
俺は決意を胸に、気付けば到着していた空港に足を進めた。