もうひとつのホトトギス 前編
日奈子編では、けっこうへたれで酷いやつだった斎の視点から。
「貴方は、俺にとっては、ホトトギスです」
悩んで悩んで、悩みぬいてやっと言えたプロポーズの言葉だった。自分の言葉に ぽかんとする彼女 を前に、恥ずかしくて堪らなくなり。
重いキャリーを後ろ手に、逃げるように搭乗口に向かった。
自分なりの精一杯のプロポーズが、彼女にしっかりと伝わっているとばかり思っていた。
初めて彼女に会ったのは、サークルの飲み会の時。もう就職先が決まっていたから、気楽に参加した。割と整った容姿だと昔から言われてきた俺は、周りに寄ってくる女性が苦手で、いつからか誰にでも敬語で話すようになった。そうすることで、相手との距離を保っていた。そのうち、それが癖になって 普段から敬語が当たり前になっていた。
「朝比奈君て、大人びていて綺麗ね。ミステリアスな感じ」
誰かに言われたその言葉に、俺はふむ、と思案した。深い関係の者もいない。当たり障りのない付き合いしかしない自分は、そう見えるのか。
どこか冷めている自分を自覚していた俺は、今まで本当に心の内側に入れた人は居なかった。それは、ころからも続いていく。そう思っていた。
彼女に会うまでは。
あの飲み会で、隣に座っていた友人が青い顔をしてトイレに立った。あいつは弱いくせに自分の限度を知らずに飲み続け、トイレに行くのはいつものことだった。フラフラと歩く友人を見やりながら、飲みかけの酒を手にした時。
さっきまで友人が座っていた席に、誰かが座った。また自分の顔に釣られた女が来たのか、と隣を見ると。オレンジジュースのグラスを片手に、真っ赤な顔をした女がいた。
その赤に染まった頬と、微かに潤んだ瞳。濡れた唇を見て、さわりたい。と思った。変に胸が騒いだ。
…どうしたんだ。こんなどこにでもいるような女を見て、何を動揺しているんだ。
いつもの自分らしくない。俺は冷静を装って、彼女に向き直った。
俺に用があるのかと思ったが、彼女は気まずそうに赤くなったり青くなったり、視線を右に左にさ迷わせるだけ。…こんな百面相、初めて見た。面白くなって、彼女を見ていると。
ちら、と俺を見た彼女と目があった。その瞬間、また俺の胸が騒ぐ。
どうして…そう戸惑う俺に、彼女が部屋に響き渡るような声で告白をしてきた。
呆気に取られて呆けていると、どっと沸き上がった周囲に押されて、メールアドレスと番号を交換してしまった。
茶化す友人たちを振り切って家に帰り、ものが少ない自室でくつろぐ。
片手には、彼女のアドレスが入った携帯。何気なく画面を見て操作し、彼女の名前を見つける。
鈴木 日奈子。その名前を目にすると同時に、隣で真っ赤になっていた彼女を思い出す。
…彼女も、俺の容姿が好きなだけだ。またいつものようにかわしていれば、そのうち離れていくだろう。今まで俺に言い寄ってきた女と同じように。
ふと、彼女が俺に背を向ける姿が脳裏をよぎり、また胸が微かに痛む。
「何を、馬鹿な…」
初めて胸に感じた違和感を掻き消すように、俺は冷たいシャワーを浴びた。
「おはようございます、朝比奈先輩!鈴木 日奈子です。鈴木日奈子をよろしくお願いします!!」
暇をもて余して、大学に行ってみれば。門をくぐったところで、彼女に声をかけられた。
「おはようございます。鈴木さん。…選挙でもするんですか?」
「あっ、いえ、そういう訳ではなくてですね!ただ、私を知ってもらいたくて」
「もう知ってますよ。昨日、知り合いになったじゃありませんか」
にこ、と笑顔を張り付けて。もういいですか、とその場を立ち去る。
素っ気なくして、優しい先輩というイメージを壊してしまおう。そう思っていた。
普段なら、そうやって置き去りにした女なんて、すぐに興味すらなくす。なのに、なぜかその時は少し歩いてから、振り返ってしまった。
もう居なくなったかと思ったが、彼女はまだそこにいて。彼女は、少しうつむいていて。
…なんだ、泣いてるのか?
と 若干の罪悪感がよぎったが、次の瞬間には、彼女は頬に手をあてて、にやけているようだった。
その柔らかい笑顔を見て、ほうっと安堵した。その後に、また胸が騒いだ。
危険だ。彼女に近づくと、おかしくなる。
考えないようにすればするほど、彼女のことが頭に浮かぶ。その日は1日中、彼女の笑顔が離れなかった。
彼女は、毎日俺に話しかけてきた。自分のことをたくさん話したり、俺のことを聞いてきたり。俺が気が向いて、ふらりとサークルに顔を出すと、彼女は必ずその場にいた。俺を見つけると、ぱっと笑顔になって俺の方に小走りで寄ってくる。
その無邪気な笑顔を、可愛いと思う自分に気がついたのは、いつだったか。それは割とすぐだったかもしれない。1ヶ月、俺に向けられた瞳に心臓がまた騒ぐ。2ヶ月目で俺も笑顔を返すようになった。3ヶ月目。目がいつでも彼女を探してしまうようになった。4ヶ月目…彼女が傍に居ないと、落ち着かない自分に気付く。
半年が過ぎて、少し経った頃。この頃にはさすがに認めるしかなかった。
俺は彼女に恋をしている。
だからと言って、これ以上彼女との関係を進める気はなかった。幸いなことに、彼女は俺に話しかけてはくるが、告白はあれ以来してこなかった。それを俺は、どこか安心していた。彼女にまた好意を伝えられたら、断るなんて できない。
これまでの人生で、自分の内側に他人を入れたことなど1度もないのだ。人より冷めている自分は、このまま一生を一人で生きていくと信じていた。
なのに、彼女がそれをぶち壊した。
今、彼女を俺の内側にいれたら。死ぬまで、離してやれない。
彼女の言葉を信じない訳ではない。俺が臆病で、信じるのが怖いのだ。初恋は実らないという。この年になって今さら体験している初恋が終わる瞬間など、考えたくもない。例えば俺から彼女に告白して、彼女と付き合えたとしても。
彼女の恋心が、大人びた先輩への憧れだったとしたら。もし彼女が心変わりでもしたら。
俺は絶対に離さないし、許さない。
既に初恋なんて初々しい言葉とは似ても似つかない、執着に近い感情。
彼女に向ける激しい感情に、自分が恐ろしくなる時がある。
彼女を捕まえたら、彼女の人生ごと絡め取ってしまうだろう。だから、彼女がまだ逃げられるように、逃げ道を残しておく。もうすぐ俺は卒業する。それで彼女が離れるなら、彼女への感情を胸にしまって、生きていく。そう決めた。
それなのに、日奈子。貴方は俺に手を差し伸べた。
卒業まであと数日と迫ったある日。彼女が俺を呼び出した。
マフラーを巻いた彼女の頬が、寒さで赤く染まっている。その赤さは、まるで初めて彼女と会った日のようで。
そっと、彼女の頬を撫でる。冷たい頬が、じわりとまた赤くなり、色濃く染まる。綺麗だ、と見とれていると。
「あっ、せ、先輩、頬が…いやっ!なんでも、ないですっ」
あたふたと手を振る彼女が面白くて、つい見つめてしまう。
「嫌、でしたか?」
「そんな訳ないですっ!!むしろご馳走さまというか、嬉しくて訳わかんないみたいな…あっ、先輩が訳わかんないんじゃなくて…えっと…あれ?」
慌てて目を見開く彼女がおかしくて、くすりと笑ってしまう。笑われたことに気付いた彼女が、さらに頬を赤くし、あぁーと雄叫びをあげて、髪を掻きむしる。全く、彼女といると飽きが来ない。
「そんなにすると、髪がぐしゃぐしゃになりますよ。鳥の巣の様です」
マフラーの上で、見事に絡まりあった髪を指でとかしがら、彼女はぷっと吹き出した。
「鳥の巣、ですか?私は巣よりも鳥になりたいです。雛とかいいですね。可愛いし。私、ちょうど日奈子だから、鳥の巣なんかより、雛の方が似合いませんか?」
あはは、と軽やかに笑う彼女。
「雛、ですか…」
彼女は分かっているのだろうか。雛はやがて立派な鳥になり、飛び立ってしまう。彼女もまた、俺から離れていくのか。あと数日で別れが迫っている。もしかしたら、今日が彼女に会う最後かもしれない。
痛む心臓を悟られまいと、笑顔を張り付ける。
「…そう言えば、朝比奈先輩も名字に ひなって入ってるじゃないですか」
ひらめいた!と言わんばかりの彼女。気付くのが遅いと思ったのは、俺だけじゃないはずだ。無邪気に はしゃぐ彼女に水をさすような真似、しないけれど。
「すごい偶然ですよね!朝比奈と日奈子!なんだか嬉しいです!…あ、名前くっつけたら、朝比奈 日奈子になりますよ!ややこしいですねー…って、あっ」
これには俺も言葉を失った。その並び、まるで彼女が俺の名字になったみたいだ。すなわち、結婚を意味する。彼女が俺の名字を名乗るなんて。
甘い痺れが身体を伝う。ああ、それが現実になればいいのに。
「違っ、言葉が間違っちゃって…そうなればいいなって思ってたから、間違って口から出ちゃったんです!あっ、でも、先輩を好きなのは間違いじゃないんです!まだ、好きなんですっ…自分でもしつこいとは、思うんですけど…」
ああ。言ってしまったね、日奈子。
またしても大声で叫んだ彼女は、ああもう…と両手で顔を覆ってへたりこんでしまった。
俺は、そんな彼女の前にしゃがみ込み、頬を覆う彼女の両手に自分の両手を重ねた。
彼女の涙に濡れた瞳が俺をとらえた時、俺は笑った。心からの笑顔で。
「貴方には、負けました。…俺と、お付き合いをしませんか」
彼女の瞳が驚きで見開かれ、次に歓喜で潤む。彼女はこの時、俺を捕まえた、と喜んだのだろう。
…本当に捕まったのは、彼女なのに。