前編
「貴方は、俺にとってはホトトギスです」
私の最愛の人は、こんな言葉を残して異国に旅立っていった。
飛び立つ飛行機を空港の窓越しに眺めながら、私は彼との出会いを思い出していた。
あれは、5年も前のことだった。大学1年で、初めて参加したサークルの飲み会に彼はいた。彼の名前は朝比奈 斎。4年の先輩。私を無理矢理サークルに引き入れた友達が教えてくれた。
高貴な雰囲気と、優しい立ち居振舞い。サラサラの黒髪に、切れ長な目を縁取る細いフレームのメガネ。今まで私の周りには居なかったタイプの人。その姿を目に入れた瞬間、目がチカチカした。あまりにも眩しすぎて、なかなか直視できなかった。簡単に言うと、人生初の一目惚れをしてしまった。
古いけど、びびびっときちゃったのだから、仕方ない。私はすぐに彼に夢中になって、彼に近付こうと、頑張った。とにかく頑張った。
友達に無理矢理引き入れられたはずのサークルが、毎日のように顔を出すようになり。気付けばサークル内の出席率はナンバー1になっていた。いつ彼が来るかわからないから、取り敢えずほぼ毎日サークルに出続けた。彼を見つけたら、いつも真っ先に挨拶をするのは日課になっていた。
初めて彼に声をかけた時、私は緊張しすぎて自己紹介と告白を同時にしてしまった。
「は、初めまして!!鈴木 日奈子とも、申します!!先輩って、素敵ですね!すごく知的で、えっと、すっ、すきっですっ!」
「……は?」
飲み会も半ばに差し掛かった頃。先輩の隣を陣取っていた彼の友達らしき男子学生が、真っ青な顔でトイレにいくのを見て、私は迷わず彼の隣に駆け寄った。
隣に来るのは迷わなかったけど、いざ来てから迷った。彼は急に走り寄ってきて隣に滑り込んだ女を?マーク丸出しで見ているし、当の私はオレンジジュース片手に動かない。
周りから見ても、私は明らかに挙動不審だったと思う。案の定、彼は私を不思議そうに見つめているじゃないか。
これは不味い。何か言わなきゃ!そう焦って出たのがさっきの言葉だった。
あの後、周囲は突然の告白劇にどっと沸き上がり、固まる私と彼を置き去りに、やんやと盛り上がったのは言うまでもない。
一度気持ちをぶちまけてしまった私は、もう突っ走るしかない!と色んなものを吹っ切って、彼に猛烈にアタックをかました。
そしてその一年後、ついに根負けした彼が私とお付き合いを始めたのだ。
彼とやっと付き合えた頃には、彼は大学を卒業して就職し。私は学生、彼は社会人としてのお付き合いが始まった。
彼は優秀で、誰でも知っている有名企業で働いている。私は大学の講義が終わると、その足で彼が一人暮らしをしているアパートの近くのスーパーに向かう。そこで買い出しをして、彼のご飯をつくって帰りを待つ。
まるで通い妻。仕事で忙しい彼と恋人の時間を過ごすには、少しでも一緒の時間をつくらなきゃ。そう思った私が勝手にやっていることだった。1週間のうち、彼の帰りが遅くなって、一緒にご飯を食べられるのは多くて2回くらい。だいたいは私の門限(父が決めた)に間に合わなくて、ご飯にラップをして帰る。週に1回あるかないかの休日は、仕事の疲れからか、彼はあまり出掛けたがらない。でも、家の中でも彼と一緒ならそれだけで楽しいからそんなに不満じゃなかった。
それから3年経って、私も無事に就職。小さな会社で事務をしている。相変わらず通い妻は続けていたけれど、私も就職を機に一人暮らしを始めた。なので、彼と私の休みが合う前日は、彼のアパートにお泊まりをする。それが日課になっていた。
愛する彼と共に過ごす5年目の春。私と彼の日常は、まだまだ続いていくと思っていた。
ところが、彼に辞令が下った。なんとニューヨークに1年の長期出張。
私は驚愕した。1年だなんて。しかも向こうでもそうとう忙しいらしく、帰省はほぼ不可能らしい。つまり、帰ってくるのはまるっと1年後になる。
そんな。目の前が真っ暗になった気がした。彼はモテる。きっと海外に行ってもその魅力は通じてしまうことだろう。金髪のセクシーダイナマイツに迫られたら、彼もコロリと心変わりしてしまうのでは。
なんせ、こんな平凡な私のアタックに根負けして、5年も付き合うような優しい(へたれな?)彼だ。メリケンアタックなんて、私よりも強烈に違いない。
私は恐れていた。彼と離れれば、それはイコール私たちの別れを意味しているから。
彼は優しいから、通い妻ならぬ押し掛け妻になって悦に浸る私に、別れを切り出せないだけなのだ。
自分でもわかってる。上品な美しさを持つ大人な彼と、平凡でガキな私。誰が見ても釣り合わない。きっと、私は周囲から見れば彼にまとわりついて彼女面する、滑稽な猿にでも見えていることだろう。
私たちの関係は、私が彼につきまとっているだけなのだ。私から離れたら、彼は自由になる。
私はそれが堪らなく恐い。
しかし同時に、こうも思った。5年も恋人ごっこをしてもらったんだから、いい加減開放してあげたら?
私の中の天使と悪魔がささやく。悪魔はもっと彼にすがれと。天使は彼を自由にせよと。
どちらも本音だから、どっちかを選ぶことなんてできなくて。
卑怯な私は、彼に答えをねだった。彼がニューヨークに発つ日、私は彼を見送りに行った。
平日だったから、私は午前中休みを取って、彼がいる空港へ向かった。
「…驚きました」
空港のロビーで大きなキャリーを転がす彼を見つけて、彼の背中に呼び掛ける。驚いた顔の彼が振り返り、私を見つけると。
そう言って優しく微笑んだ。
彼が驚くのも無理はない。昨日は彼のアパートに泊まって、今朝お別れを言ったから。
朝日が清々しい今朝、アパートのドアをくぐる彼に、いってらっしゃいと言った。さよなら、と言えなくて。本当はここで具体的な別れ話をするべきだとわかっていた。でも、1年後の奇跡を願う私もいて。浅ましくも、ほんの少しの希望をかくして、私はいってらっしゃいと言った。
彼から別れを切り出されなかったのは、私にとってひどく幸運なことだった。いつ別れると言われるのかヒヤヒヤとしたものだ。
でも、最後まで彼から別れの言葉は出なかった。ただ、そんな雰囲気は何度もあった。ご飯を一緒に食べていて、ふと会話がなくなって。そっと彼を見ると、心ここにあらずだったり。他にも、デートの別れ際に何か言いたげにしたり。
優しい彼だから、きっとどうやったら私を傷つけずに別れられるか考えたりしてたんだろうな。
その優しさにつけこんで、私は「どうしたの?」って聞かない。そこから別れ話に繋がったら、私は自分で自分をぶん殴ってやりたくなるだろうから。
そうやって、昨日までやり過ごしてきた。でも、もう限界かな。ついさっき、私の中の天使が悪魔に打ち勝ってしまった。空港に着くまで、ずっとずっと戦っていたんだけど。いざ彼の背中を見たら、ちょっとの良心が天使に味方をしてしまったみたい。
本当は、最後に彼から別れるか、別れないかを言ってほしかったんだけど。もう答えは出てしまった。
「斎さん」
彼の笑顔を見るのは、もう最後だと自分に言い聞かせて。私はこれから彼に別れを告げる。
「日奈子さん」
覚悟を決めたのに。彼が甘い声で私を呼ぶから。私は何も言えなくなってしまった。
涙ぐんだ目で彼を見つめる。彼の真っ直ぐな視線が、私を射抜く。
彼は、深呼吸をするように深く息を吸ってから、
「貴方は、俺にとってはホトトギスです」
と、言った。
ぽかん、と立ち尽くす私を横目に、彼は「それでは」と言い捨てて、彼にしては珍しく、慌てぎみに空港の奥に去っていった。
残された私は。
「ほ、ほととぎす… ?」
おおぐち開けて、しばらく突っ立っていた。
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ホトトギス
九州以北に夏鳥として渡来する が、九州と北海道では少ない。
カッコウなどと同様に食性は肉食 性で、特にケムシを好んで食べ る。また、自分で子育てをせ ず、ウグイス等に托卵する習性が ある。
Wikipediaより
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以上、ホトトギスについての大まかな説明。
予想外すぎて、私はあれからどうやって会社まで帰ったのか覚えていない。
ホトトギス。ホトトギス…?
5年付き合っていながら、さすがに今回の彼の発言は理解不能。私がホトトギス?どういうことだろう。
お前はホトトギスのように、ピーチクパーチクやかましかったよ。っていう意味?私がずっとつきまとっていたから?
それとも、私が自分の子どもを他所に預けて、子育てもろくにしないような女だと思われてた?
…それは、ないか。彼が私との結婚を考えている訳がない。よって、子育てうんぬんは却下。
わからない。本当にわからないよ、斎さん。
こんなこと、単純にメールか電話で聞けば手っ取り早いんだけど。それはわかっているんだけど…
空港で別れを覚悟したばかりなのに、そんなにすぐに連絡をする気にはなれなかった。
でも、ちゃんとお別れも言えなかった。
ベッドにごろんと横になって。お風呂上がりに髪も乾かさず、鳴らない携帯を見ながらうんうん唸っていると。
手のひらの中で携帯が震えて、メールの受信を知らせた。このメロディーは、彼のだ。
ごくり、と息をのんで、おそるおそるメールを開く。すると、そこには。
『答えが決まったら、返事をください』
という一文。
答え!?何の?あ、ホトトギスの?答えなんてあるの?
彼の言葉は、まるで暗号。全くもって言いたいことが伝わってこない。
ここで私は、ふと夏目漱石のとある話が頭に浮かんだ。
彼はアイラブユーを日本語に訳した時、面白い訳をした。たしか、「月がきれいですね」だったと思う。この話を講義で知って(何の講義か忘れてしまった)彼にロマンチックだの素敵だの言って、やたらと興奮しながら教えた記憶がある。でも、それは私たちが付き合いだしてすぐの頃の話で、もう5年も前のこと。こんなことを覚えているのは、私だけだろうな。
何となく、暗号めいたところが今回の彼の言葉と重なって おかしくなった。
方や愛の言葉なのに、もう片方は多分良い意味じゃない言葉。
彼なりに、私に何かを伝えたいんだろうけど。悲しいかな、私はサッパリわからない。でも、何となく私に嬉しい内容じゃないだろうって思う。
考えても考えても分からなくて。結局、私は考えながらいつのまにか寝てしまった。
次の日は、見事にごわごわのぐにゃぐにゃ になった髪と格闘して、会社に着いたのは遅刻ギリギリの時間だった。