北の海賊・東の姫君 其の二
北の海賊・東の姫君 其の二
そんな彼の逡巡など、全く知らない少女は、素早く辺りを見回すと、意を決したようにデッキの端に駆け寄った、そして。
あっと思う間もなく、少女は海に身を投げた。
「なっ・・」
考えるより先に体が動き彼もまた、海へと飛び込んだ。このあたりの海域はレオンにとっては庭のようなものだ。潮目などはすべて体が覚えている。
レオンはすぐに少女に追いついた。落下の衝撃で気を失っている少女の腰をしっかりと抱え浮上する。
「船長、早く!」
降りてきたロープにつかまり、少女を抱えたまま甲板に上がる。さすがに息があがった。
「その娘は?」
「逃げようとして海に落ちた」
仲間の一人、エリックの問いに、レオンは咄嗟にそう言った。
「ああ・・・。でも船長、船が」
レオンが振り返ると、少女の乗っていた船はすでに遠くへ逃げさっていた。
少女の不在に気付かなかったのか、あるいは見捨てられたのか。
「さっきの船の衣装箱を俺の部屋に運んでおけ」
そう言うとレオンは少女を抱えたまま、船室へと向かった。
部屋に入るとレオンは少女を長椅子に座らせ、軽く揺すった。すぐに気を失ったのがかえって幸いし、ほとんど水は飲んでいないようだ。
「う・・ん・・」
少女は軽い呻き声を上げるとうっすらと瞳を開いた。髪は漆黒だったが、瞳の色は淡いブラウンで、バルト海の底に眠る琥珀のように美しい。
その瞳がレオンを見つめる。胸がざわめいた。
「気がついたか?」
「なぜ助けた」
「え?」
「私を助けたところでメリットなぞないぞ。人質にとっても、父は金など払わないから、さっさと捨ててきたほうがいい」
少女は投げやりに言った。
「そんなつもりはない!」
レオンは思わず叫んでいた。何故この美しい少女が自ら海に身を投げることになったのか、その理由が知りたかった。
少女は驚いたようにレオンを見た。琥珀の瞳に、真剣な表情のレオンが写っている。
「俺は、レオン、東海のレオンだ。お前は?」
「咲耶・・・」
「さくや、珍しい名だな」
「本名ではない。本当の名はエリザベート、父の祖母の名らしい。父の家では、子の名は先祖の名の中から選んでつけるのが慣習になっている」
少女はそう答えたが、「エリザベート」という名も、「父の家」も彼女にとっては居心地のよいものではなかったのだろう。少女の表情から、レオンはそう思った。
「では、咲耶というのは?」
少女は、うっすらと微笑んだ。その表情にレオンは魅せられる。
「母がつけてくれた。母の国の名だ。」
「どこの国だ?」
「日本。世界の東の果てにあるという、美しい島だ。母はその国で攫われて奴隷に売られた。父は母の美貌に目をつけて妾にし、私が生まれた。母は私が10のときに病で死んだ。最後まで、国に帰りたがっていた。」
「東の果ての島、ジパングか」
「そうだな、このあたりではそう呼ぶらしい」
話には聞いたことのある、東洋の美しい島。黄金の島、と呼ばれている。この少女は、その国に所縁があるのか。
「さくや」は「コノハナノサクヤヒメ」からもらいました。
ニニギノミコトの妻で、「さくら」の語源とも言われています。
ニニギのミコトがコノハナノサクヤヒメを見初め、名を聞いた(名を訊くのは求婚の意味があるとか)というのがこの話のベースになっています。