宗太郎の竹
竹林に恋をした男がいた。
1580年の春であった。宗太郎という男がいた。
三十をようやく過ぎたばかりの歳で、村では珍しく書物を好む静かな性質の男であった。妻もなく、子もなく、ただ独り、日々を送っていた。
ある日、彼は裏山の竹林に足を踏み入れた。風が渡るたび、青々とした幹がしなやかに揺れ、葉がさらさらと音を立てる。
その姿が、まるで長い黒髪をなびかせる乙女のように見えた。それからというもの、宗太郎は毎日のように竹林へ通うようになった。
最初はただ眺めているだけだった。やがて、彼の視線はある一本の竹に定まった。
他の竹よりもわずかに細く、空へ向かってまっすぐに伸びたその一本を、彼は「妻」と呼ぶようになった。
「お前となら、子を成せるかもしれぬ」
夜中、誰もいない竹林で、彼はそう呟いた。もちろん、竹に子供など宿るはずがない。それでも宗太郎は本気でそう信じ始めた。
昼は村の仕事をこなし、夜は竹林に入り浸った。村人たちが「また竹か」と笑いながら声をかけても、彼はほとんど答えなくなった。
目はどこか遠くを見て、口数は日に日に減っていった。食事をともにする家族との会話も、やがて途絶えた。
妻も子もいない独身の彼にとって、人間との関わりは次第に煩わしいものになっていった。
村の寄り合いや祭りの話を聞いても、耳に入らない。ただ竹林のその一本のことばかりが頭を占めた。
「お前の節の中に、新しい命が宿る日が来る」
彼は竹の幹に額を押し当て、冷たい感触を確かめた。自分の体温が竹に移っていくような錯覚を覚え、いつしかそれが喜びとなっていった。
人間の言葉も、温もりも、もう必要ではなかった。必要なのは、この静かな緑の世界と、自分だけが知る「妻」だけだった。
季節が移り、竹林はますます深く、濃くなっていった。宗太郎の姿は村で見かけることが稀になった。
誰かが心配して山へ探しに行っても、彼の姿はなかなか見つからない。
ただ、風に揺れる竹の間から、時折、低い独り言が聞こえることがあったという。
ある夕暮れ、ようやく彼を見つけた村人が、言葉を失った。宗太郎は全裸で、その一本の竹に抱きついていた。
青白い肌は竹の色に溶け込むように見え、目は虚ろに開かれたまま、どこか遠い場所を見つめている。
「もう、人間の世界には戻れぬ…」
微かな声が、風に紛れて消えた。それから間もなく、宗太郎の姿は完全に竹林から消え、村からも消えた。
それからほどなくして、本能寺の変が起きた。お触れが下り、落ち武者狩りのため、村人たちは竹槍を作るよう命じられた。
宗太郎が通い詰めたあの竹林の竹を伐採することになったのである。
斧が振り下ろされた瞬間であった。切られた竹から、一斉に悲鳴が上がった。青々とした幹の内側から、どす黒い血が噴き出し、地面を染めていく。
一本、また一本と刈り取られるたび、女の声にも似た苦悶の叫びが竹林を満たした。
血は止まらず、伐採した竹のすべてから、まるで生きたもののように、赤黒い液体が流れ出たという。
村人たちは震え上がり、斧を手放した。しかし、お触れは厳しかった。彼らは震えながらも作業を続けざるを得なかった。
血にまみれた竹槍が、村に運ばれていった。その後、竹槍を携えて山へ向かった者たちは、自らの喉を竹槍で貫き自死したという。
夜、竹林の方角から、風に乗って聞こえる低い囁きがあったという。
「お前となら…子を…」
声の主は、もう誰も知らぬ。ただ、あの竹林だけが、今も静かに、青々と揺れている。
読んで頂き有り難う御座います。




