真夜中の整体師
それでも、安井は待っていた。もう、予約時間を三十分は超えている。ただ、美也子は長期で通院している患者だ。整体院は自宅と兼ねているのだし、今日の最後の患者だからどうってことはない。ドアには”本日は終わり”と出しているので、駆け込みもないだろう。コーヒーを飲みたいところだが、香りが部屋に充満するからやめておこう。
すると、ドアをノックする音がした。”やっとか”。頭ではそう思いつつ、
「いらっしゃい。」と出迎えた。
「先生、すみません。会議が長引いてしまって。」
「構いませんよ。美也子さんは、今日最後の患者さんですし。用意が出来たら、うつ伏せで。」
「はい。」
美也子は慌ただしく着替えをすると、いつもの様に施術台にうつ伏せで待っていた。
「あぁ…、今日もがっちがちですねぇ…。」
「すみません、先生。」
「ははは、気にしないでください。仕方ありませんよ。長時間のデスクワークなんでしょ?」
「コロナ明けてからも、そのままリモートワークを継続していて、家でのんびり仕事が出来るって思ってたんですけどね…。家だとオン・オフの切り替えが難しくて…。うっ。」
「あ、痛かったですか?」
「いえいえ、イタ気持ちいいです。」
「もう少し弱めにしましょうか?」
「いえ、もう少し強くても大丈夫です!」
「美也子さん、あまり強くしても逆に身体が身構えてしまって良くないんですよ。」
「はい、了解です!」
美也子は、常に全身が凝っている。定期的に通院してくれているから、改善されないこともないのだが、何をどうしたらこんなに硬くなるのだろうか。安井は沢山の患者に施術をしているが、美也子は悩ましい患者のひとりだ。
「背中がねぇ…。もう少し柔らかくなったら楽になるんですけどねぇ…。」
「ヨガとか通ってたんですけどねぇ…。コロナで外出制限になってから辞めちゃって…。家で自分でっていうのも面倒くさくって…。ダメですねぇ。」
「ははは、まぁ、ヨガとかストレッチなんかもいいんですが。もっと根本的なものを治さないと。」
「根本的なもの?」
背中をマッサージしながら、安井は続けた。
「背中のこりはね、”怒り”から来てるんですよ…。」
怒り…。思い当たる節は沢山ある。一昨日の、リモートでのプロジェクト会議でのこと。私がプロジェクトの企画を任され、役員たちに向けてプレゼンをした。幾つか質問はあったものの、概ね好評で、後は指摘された箇所を直して提出。会議中、プロジェクトリーダーから私宛に個人チャットが入った。
”企画書直したら、まずは俺のところへ送って”
素直に最終版を送ったら…やられた!私の名前を消して、自分の名前で提出していやがる!そこまでして、自分の手柄にしたいのか!汚い!汚い…。
こんなことは、どこにでもある話だ。でも、企画を私に任せたリーダーが、それを獲るの?なら、最初から自分でやりなさいよ!こんなこと、きっと声を上げたところでもみ消されるだろうし、こんな思いをしたのは私だけでもないかも知れない。やりきれない。やりきれない…。
「美也子さん、そろそろ目を覚ましましょうか。」
あんなに痛いマッサージなのに、いつの間に眠ってしまったのか。美也子は無意識の間にいびきをかいていたのではないかと、急に不安になった。
「あの…先生…。」
「大丈夫ですよ、いびきはかいてません。」
安井は微笑みながらそう言った。
「先生の手って、ポカポカして湯たんぽみたいなんですよね。ハードなマッサージなのに、いつも寝落ちしちゃう。」
「あはは、そうですか。それは良かった。…、美也子さん、実はもう十一時近いんですよ。」
「えっ!?すっすみません…。いつも先生にはご迷惑かけちゃって…。」
「いえいえ、ご近所さんなんですから。でも、夜道は気を付けて下さいよ。」
「はい、また来週に。」
「はい、また来週。」
施術代を支払うと、美也子は慌ただしく帰っていった。
奥の控室に行く。整体院には似つかわしくない、大きなレザーの椅子があり、安井はどっかり腰を下ろした。”一日の終わりが、これなのか…”。美也子が来たときはいつもそうなのだが、”商売道具”の両手が悲鳴を上げていた。
「今日は、白檀を焚くので大丈夫だろう…。」
安井はおもむろに起き上がると、祖父の遺品の香炉を取り出し、白檀を焚き始めた。しばらくすると白檀の香りがたちはじめ、安井は、体全身に白檀を行き渡らせるかの様に、”はあっ”と深く呼吸をした。
「浄化は必要だ…。」
一週間なんて、あっという間だ。いつもと同じように、安井は待っていた。しかし今日は、珍しくほぼ予約時間通りに美也子が来た。
「おや、今日は早いですね。」
「先生…もう身体がつらくてつらくて…。」
「そうなんですね。では、うつ伏せで…。」
安井はいつものように背中のマッサージを始める。”ん?”。確かに背中は硬いのだが、感触がいつもと違う。いつもとは違う感触を正体を探すかのように、首回り、肩甲骨回り、背骨に沿って掌を少しずつ動かしていく。”あぁ、この人もか…。”安井の額から、じわじわと汗が滲み始めてきた。
「…美也子さん。」
「はい。」
「恨みの感情を溜めてはだめです!」
先生は、占い師なのか?どうして、私の感情が分かるのだろうか。以前、”背中の凝りは怒りからくる”と言っていたっけ。確かに、ここ最近、強い怒りの感情を溜めることが多かった。それが背中の凝りとなって現れるなんて、思ってもみなかった。
でも、今日は違う。
”ごめん、美也子。やっぱり妻を捨てることは出来ない…。”
コロナ禍は色々なものをもたらした。快適なリモートワーク。そして、外出制限下での夫婦愛の復活。コロナ禍前の5年間は、一体なんだったんだろう。愛が憎しみに変わるとき…そんなタイトルのドラマか映画があったような気がする。この感情って、正にそれなんだろう。嫌だ、嫌だ嫌だ。私ばっかり。こんな思いをしなきゃならないなんて…。仕事も愛も、何も報われてないじゃない!こんな感情をどこにぶつけていいかも分からない。一人暮らしの私。かわいそうな私。遠く離れた家族になんて、話せるわけない。
なぜ…、先生は分かってしまうの?
いつものように寝落ちししまった美也子の目には、涙がたまっていたようだった。安井は気付かぬふりをして、しばらく寝落ちしたままの美也子を放っておいた。ふと美也子が目を覚まし、泣きながら寝落ちしていたことに気付いて、恥ずかしそうに起きてきた。
「先生、いつもながらすみません。」
「いえいえ。少しは楽になりましたか?」
「お蔭様で。ありがとうございました。」
支払いを済ませた美也子は、また慌ただしく帰っていった。
安井はひどく疲れた様子で、両掌を眺めていた。しばらくじっと見つめていたかと思うと、控室にある金魚鉢に勢いよく両手を突っ込んだ。勢いのせいで白衣が濡れてしまったのだが、そんなことは構いもせず、じっと金魚鉢を眺めていた。すると、数匹の金魚が腹を上に向け、水面に上がって来た。
「…。二匹か…。」
しばらくは項垂れながら金魚を眺めていたのだが、冷静に金魚鉢から両手を出し、何事もなかったかのように濡れた手を拭き始めた。”私の両手は、あまりにも多くのものを吸い取ってしまった。だから、放出しないと、次の患者を診られない”。頭の中ではそう思いつつ、安井はつぶやいた。
「二匹…買いに行かないと。」




