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旋律の檻

作者: 亜香里

その店を見つけたのは、雨上がりの夕暮れだった。

 会社帰りの私は、濡れたアスファルトを避けるように裏通りへ入り、ふと見知らぬ路地に迷い込んでいた。街灯の光が届かず、路地の奥は昼と夜の境界のように曖昧で、空気だけが妙に冷えている。


 そこで、古い看板に出会った。

 「レコード屋 音律堂」

 剥げかけた金文字が暗がりに沈んでいる。こんなところに店があっただろうか、と私は首をかしげた。

 不思議なことに、その名を口にした瞬間、胸の奥に微かな既視感が走った。まるでずっと前にもここを訪れたことがあるような。


 ドアを押し開けると、鈍い鐘の音が鳴った。

 湿った空気と、埃の匂い。棚には無数のレコードが並び、壁には知らない時代のポスターが黄ばんで貼られている。


 カウンターには一人の老人がいた。

 痩せ細った指先を組み、目は私を見ていないのに、確かにこちらを意識しているようだった。


 「……音楽は時間を操る刃物だ」

 老人は、私が口を開く前に低く言った。

 「うまく使えば未来を拓く。だが、間違えれば自分を切り裂く」


  私は返す言葉を持たなかった。

 ただ、そのとき視線の端に、ひとつのレコードが目に入った。

 棚の隅にぽつんと置かれた、ジャケットもラベルもない真っ黒な円盤。


 ありふれたはずの形なのに、目が離せなかった。

 気づけば私はそれを手に取り、指先に触れた瞬間、心臓が跳ねた。――不思議なことに、初めて触れるはずなのに、ずっと前から自分のものだった気がした。


 「それを選ぶのか」

 老人は私の手を見て、わずかに口元を歪めた。笑ったのか、哀れんだのか、判別できない表情で。


 一年前、婚約者が事故でこの世を去った。

 私の時間はそこで止まったままだ。

 彼が最後に聴いていた曲を、私は何度も繰り返し流した。

 けれど、どれだけ音にすがっても、彼は戻ってこない。


 だから――もし音楽が“時間を操る刃物”だというのなら。

 未来なんてどうでもいい。ただ、もう一度、彼に会えるなら。


 私は黒いレコードを胸に抱え、店を出た。

 背後で老人の視線が、湿った路地に絡みつくように残っていた。

 その視線の冷たさに、なぜか“別の誰か”に見送られている気がしてならなかった。



その夜、私は黒いレコードを机の上に置いた。

 針を落とすためのプレーヤーに載せたわけではない。

 ただそこにあるだけなのに、耳を澄ますと――かすかな音が聴こえてきた。


 旋律というより、吐息のような震え。

 低く、揺らめくリズムが空気を伝って、部屋の壁を微かに震わせる。


 時計の秒針が、不意に止まった。

 ――いや、止まったのではなく、異様に遅くなったのだ。

 カチ、カチ、と進む一拍ごとが引き延ばされ、永遠にも思える沈黙を生む。


 私は呼吸を数えた。

 その一方で、自分の心臓は逆に早鐘を打っていた。

 私の身体だけが別の速度で進んでいる――そう直感した。


 窓の外の街灯が濁った水の中の光のように揺れ、伸び縮みしている。

 街そのものの時間が、レコードの音に従って変化している。


 息を呑み、私はレコードに触れた。

 指先が触れた瞬間、音は途切れ、世界は元に戻った。

 秒針は軽やかに進み、街灯も安定して輝く。


 胸に冷たい汗が流れていた。

 それでも、私はもう一度確かめたい衝動を抑えられなかった。

 恐怖と同時に、強烈な期待が胸を締めつけていた。



 数日後、私はいつものカフェにいた。

 白いテーブル、磨かれたカップ、窓の外を忙しなく行き交う人々。

 ここは、彼を失ってからも変わらず訪れ続けている場所だった。


 バッグの奥で、あのレコードが震えた。

 取り出すと、真っ黒な円盤は静かに脈打つように微かな音を放っていた。

 針も装置も必要としない。ただ、存在そのものが音楽を宿しているのだ。


 その旋律が空気を染めた瞬間、店内の光景が変わった。

 カップを運ぶ店員の動作が水の中のように遅くなり、

 隣の席の恋人たちの笑い声が、旋律に合わせて伸び縮みする。


 私は視線を窓際に向けた。

 そこに、彼がいた。

 笑みを浮かべながら本を読んでいる――婚約者だった人、もうこの世にいないはずの人。


 喉の奥が焼けるように熱くなり、立ち上がりかけた瞬間、

 レコードがひときわ強いノイズを響かせた。

 彼の姿は霧が晴れるように掻き消え、店内は元のざわめきへと戻った。


 私はカップを握る手を震わせながらも、確信していた。

 幻覚ではない。確かに彼を見た。

 ――あの旋律に身を委ねれば、きっと彼に再び会える。




 あの夜、私はレコードを抱えて街を歩いていた。

 目的地は決まっていない。ただ、旋律に導かれるままに。

 バッグの奥で微かに震える円盤が、心臓と同じ鼓動を刻んでいた。


 気づけば私は、かつて彼とよく訪れた小さな公園に立っていた。

 ベンチは濡れた木の匂いを放ち、街灯が柔らかく地面を照らしている。

 そこに、誰かの姿があった。


 ――それは、私自身だった。


 少し幼く、まだ婚約者を失う前の私。

 携帯を開き、誰かの返信を待っている。

 その顔には、まだ絶望を知らない明るさが残っていた。


 胸が詰まり、呼吸が浅くなる。

 足を一歩踏み出しかけたが、次の瞬間、足がすくんだ。

 もし声をかければ、世界が壊れてしまう気がした。


 レコードの旋律が強く波打ち、空気が歪む。

 私の存在は過去の自分には届かない。

 どれだけ近づいても、その視線は私を素通りし、気づくことはなかった。


 ――見守ることしかできないのだ。


 その事実を悟ったとき、私は膝の力が抜けるようにベンチへ崩れ落ちた。

 目の前にいるのは、かつての自分。

 これから喪失を経験し、レコードを手にするまでの未来を知らぬ無垢な存在。


 彼女に触れたい。

 警告したい。

 「その道を選ぶな」と叫びたい。


 けれど、音は私の声を奪った。

 旋律に絡め取られたように、私はただ過去の自分を見つめ続けるしかなかった。




 それから私は、夜ごとレコードを鳴らすようになった。

 プレーヤーの針が溝に触れるたび、世界はゆるやかにほどけ、私は時の網目の隙間へと落ちていった。

 落ちた先で出会うのは――いつも、過去の自分。


 あるときはカフェで、彼からのメッセージを待っている私。

 あるときは駅の改札前で、待ち合わせに小さく胸をときめかせている私。

 そしてまたあるときは、結婚式の準備に追われながら笑う私。


 私はその背中を追いかけた。

 けれど、どれだけ呼びかけても、どれだけ手を伸ばしても、過去の私は私を認識することがない。

 音の波が、ガラスの膜のように二人を隔てているのだ。


 やがて、私は悟り始めた。

 この旋律は“導き”ではなく“檻”なのではないかと。

 過去に触れることも、変えることもできない。

 ただ何度でも繰り返し、失う瞬間に近づいては引き裂かれる。


 疲弊し、ある夜ついに私はレコードを抱えたまま路地裏に倒れ込んだ。

 その時、あの店主の声が闇に落ちた。


 「……また来たか」


 顔を上げると、古びたレコード屋が、最初に迷い込んだ時と同じ姿でそこにあった。

 灯りは暗く、埃の匂いが漂っている。

 店主はカウンターの奥から私を見下ろし、深い皺の間に沈んだ目を細めた。


 「あなたは、誰なの……?」

 問いかけは震えていた。

 「なぜ、私にこのレコードを渡したの?」


 店主はしばらく沈黙した後、微かに唇を歪めた。

 「私はね、かつて君と同じだった」


 その言葉に、胸がざわついた。

 「……同じ?」


 「愛する者を失い、どうしても過去に戻りたくて、この旋律にすがった。

 何度も繰り返し、何度も追いかけた。だが……変わらなかった」


 彼の手の中に、一枚のレコードが現れた。

 ひび割れ、黒光りするその盤面は、私が抱いているものとまったく同じ。


 「過去は触れられぬまま、私は時間の外側に閉じ込められた。

 やがて、自分の居場所はここ――“檻の番人”になることしか残されなかった」


 その声には乾いた哀しみが滲んでいた。

 私は言葉を失ったまま、レコードを抱きしめる。

 過去を追い続ける限り、自分もやがて同じ運命に囚われるのだろうか。


 店主の目は、まるでそれを告げるように深く沈んでいた。




 夜の公園。街灯が柔らかく地面を照らす中、私は手に抱えた黒いレコードの震えに導かれ、ベンチにたどり着いた。

 そこに立っていたのは――彼だった。


 笑顔を浮かべ、まるで何事もなかったかのように、私を見つめる。

 胸が締めつけられ、言葉が出ない。

 「…本当に、あなた…?」

 震える声で問いかけると、彼は静かに頷いた。


 「会いたかったよ」

 その言葉に、涙がこぼれた。

 抱きしめると、温もりが現実のもののように感じられた。

 ――長く離れていた時間が、一瞬だけ、溶けた。


 しかし、その瞬間、世界が音の波に引きずられるように揺れた。

 街灯の光が逆流し、風の音が巻き戻され、カフェや路地、ベンチや人々の動きすべてが旋律に吸い込まれていく。


 視点が突然、遠く離れた場所から自分を見ていることに気づいた。

 ――あの夜、レコードを初めて手にした自分。

 そして、ここで抱きしめている彼。


 私の存在は、時間の外側からこの物語を見つめていた。

 ――ずっと、未来の私が、この街とレコードに閉じ込められ、物語を語り続けていたのだ。


 その瞬間、彼が私の耳元で囁いた。

 「覚えてるかい? この旋律、二人で聴いたあの日の夜のこと」

 目を閉じると、記憶が浮かぶ――笑い声、交わした言葉、手を握り合ったあの感覚。


 「忘れないよ…」

 私も小さく答える。

 抱き合う体温は幻のように柔らかく、時間の中で一瞬だけ確かに存在している。


 けれど、レコードの旋律が強く波打ち、空気を裂く。

 彼の姿は霧が溶けるように消え、視界の奥で私の身体が遠ざかっていく。

 私たちは互いに、過去を変えられぬまま、未来の語り手としてこの街とレコードに閉じ込められたのだ。


 気づくと、街の灯り、風のざわめき、カフェの笑い声、すべてが再び初めての夜の公園へと戻る。

 

街に流れる音楽は、美しく、しかし逃れられない檻の中で鳴り続けていた。

 私たちの自由は奪われ、存在だけが旋律の中に閉じ込められている。


そして、薄暗い路地の先。

 古びたレコード店――音律堂の扉が静かに開き、埃の匂いと微かな光が迎える。

 誰かが、またその扉を開ける。

 それが“私”であることを、私はもう知っていた。

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