秤が沈むとき(秤…はかり)
城塞都市リュクスは、夜になると塔の窓に灯りが一斉に点る。星のようなそれらは、市が自慢する「透明の誓い」を象徴していた――記録を残し、手続きを公にし、権力者さえ査問に立たせる仕組み。ぼく、監察官リオは、その誓いの番人として他世界から召喚された。召喚の理由は単純だという。「この世界には正義が多すぎる。だから一つの線を引く者が必要だ」と。
初任務は孤児保護院の視察だった。院を運営するのは聖槍騎士団の若き領主、セレス卿。彼は街の英雄で、寄付も人望も桁違いだ。ただ、匿名の投書が監察局に届いた。「彼は光を語りながら、闇で魔力を搾り取っている」。にわかには信じがたい。ぼくは書記のミナを伴って保護院へ向かった。
院は清潔で、子どもたちは笑っていた。セレス卿は気さくで、書庫の閲覧まで許可した。だが、不可解なことが一つ。台帳に空白が多すぎる。寄付品の入出庫、夜間の訪問者、魔道具の使用履歴。どれも美しく整っているが、肝心な日に限って墨が薄い。ミナが囁く。「消した跡です。新しい羊皮紙に写してから、古い方を焼いています」
ぼくは袖から「秤の指輪」を外した。召喚時に女王から授けられた監察具だ。秤は嘘を弾く道具ではない。問いかけに対して、当人が「悪いと知っている」なら皿が沈む。知らない、あるいは正しいと信じているなら沈まない。相手の心にある自覚を量る――それがこの世界で通用する唯一の秤だと教わった。
ぼくはセレス卿に穏やかに尋ねた。「夜、院の地下へ降りますか」
彼は微笑んだ。「降ります。祈りの間がありますので」
秤は沈まない。祈りが悪いはずはない。次の問い。「地下の器具は、子どもたちの魔力を集めるためのものですか」
彼は少し驚いた顔をしたが、やがて首を傾げた。「魔力は祝福です。余剰を神へ返す器具です」
秤は、やはり沈まない。ミナが顔をしかめる。「詭弁……いえ、本気でそう信じている」
ぼくは手を止めた。秤は悪意や残酷さそのものに反応しない。自覚の有無にしか反応しない。だから、悪が「もう一つの正義」という衣を自分に着せたとき、秤は無力になる。そう教わっていた。だが、もう一つ教わっていたことがある。秤が確実に沈む瞬間――それは、隠すときだ。悪が悪を知るのは、隠そうとする指の震えの中に現れる。
その夜、ぼくらは監察局の許可を得て院の地下へ入った。祈りの間は静謐で、中央に銀色の装置が置かれていた。子どもたちの名が刻まれた小さな石札が並び、装置に淡い光が脈打っている。「祝福を集めて病の治療に使うのです」とセレス卿は言った。彼の声に嘘はない。けれど、装置の脚の一つにだけ、新しい黒革の覆いが被せられていた。
ぼくは覆いに触れた。「これは?」
セレス卿の瞳が一拍だけ揺れた。「埃よけです」
その瞬間、ぼくの掌の秤が静かに沈んだ。ミナが吸い込むように息を止める。覆いを外すと、脚の内部に細い管が隠されていた。管は床の目地へ埋め込まれて、壁の裏のさらに奥へ続いている。ぼくがそこまで追うと、石壁の小扉に突き当たった。鍵穴は祈りの紋ではなく、騎士団の私印で封じられている。
セレス卿は言った。「監察官殿、何をなさる。そこは祈りと関係のない物置です」
ぼくは扉の前で秤を掲げた。「それを隠していると自覚していますね」
秤はさらに沈んだ。彼は苦笑して、肩をすくめた。「隠す? いや、公開する必要がないだけです。正義には段階があり、すべてを曝すことが正義とは限らない」
「ならば開けてください。曝しても困らないはずだ」
短い沈黙。彼は鍵を差し、扉を開いた。そこには、子どもたちの石札と同じ形の札が、黒い布で覆われて積まれていた。札の裏には献金額と印章。印は富裕商人のものだ。札からは微かな魔力の匂い。ミナが震える声で読む。「……魔力の所有権譲渡契約。子どもの魔力を、商人の名義で固定……」
セレス卿はすかさず言葉を重ねた。「違う。これは保護だ。魔力は未熟な器にとって毒にもなる。我々は余剰を引き受け、成人まで安全に管理する。代価を得るのは、施設の維持のためだ。すべて正義だ」
ぼくは扉の内側の壁に触れた。新しい塗り直しの跡。上から白石灰が塗られているのに、指先に黒い煤が付いた。ぼくはミナと目を合わせ、静かに頷いた。ここで火が焚かれていた。古い台帳や証書を処分した痕だ。
秤は、重く沈んだままだった。
翌日、監察局は公開査問を開いた。広場には「声石」と呼ばれる拡声の結晶が設えられ、市民が取り囲んだ。セレス卿は銀の甲冑で現れ、凛として立つ。彼の後ろには、救われた孤児出身の若者たちが並び、彼を誇らしげに見上げる。彼は多くの善も行ってきたのだろう。だからこそ、街は彼を愛した。
ぼくは壇上で簡潔に述べた。「秤は、あなたが祈ることを悪と判断しなかった。だが、覆いに手を伸ばしたとき、沈んだ。扉の中に燃え跡があり、魔力譲渡の札が積まれていた。これは公開されていなかった。あなたは、それを隠す理由を知っている」
セレス卿は一歩前に出た。「監察官殿。あなたは外の世界から来た。こちらの事情を知らぬ。孤児の魔力は暴走し、時に街を傷つける。それを抑え、資金を得て施設を守ることが、なぜ悪だ。私は子らを救った。救うために選んだ手段は、正義のもう一つの形だ」
そして彼は、最後の手札を切った。「あなた自身はどうだ。異世界の権威を掲げ、我らの法に優先する秤を持ち込む。あなたはその秤を、誰の監察に曝すのか。隠しているのは、あなたも同じではないか」
群衆がざわめいた。胸の奥で小さく疼くものがあった。彼の皮肉は的外れではない。秤の原理は説明不能、ただ「隠す自覚」に反応するという経験則のみ。ぼくは自分に問いを向けた。――ぼくは、何かを隠していないか。異世界から来た肩書の背後に、不安や恐れを隠していないか。正義の名で、楽をしていないか。
ミナが袖を引く。彼女は囁いた。「石を使いましょう」
広場の中心に、夜だけ光る古い声石がある。街の創設者が遺した品だ。真上から差す光にだけ反応し、影の中の声は吸い込まない。ミナが杖を振り上げると、雲が裂け、昼の陽が入り込んだ。声石が淡く鳴った。
ぼくは秤と一緒に、自分の手のひらも石にかざした。「セレス卿。ぼくはここで宣言する。秤の原理は説明できない。だが、ぼくの手続きはすべて公開する。調査の手順、質問の文言、証拠の扱い、判断の根拠、いまの逡巡さえ――記録して、街の台帳に刻む。ぼくの弱さも含めて、隠さない。あなたはどうだ。あなたの台帳は、同じ光に曝せるか」
彼は黙っていた。ぼくはゆっくりと手を差し出す。「あなたの祈りの間にあった黒い覆いを、ここで広げよう。それは埃よけか。それとも、光を遮るためか」
群衆の間にいた一人の青年が叫んだ。「俺の札が、あの黒い布の下にあったのか!」続いて別の女が泣き崩れた。「子の名が……どうして売買の札に」
セレス卿は顔を歪め、一瞬だけ視線を落とした。秤が、さらに沈んだ。彼は声を絞りだす。「違う……違うのだ。これは救いだ。救いなのだ!」
「救いなら、なぜ焼いた。なぜ黒で覆った。なぜ鍵を私印にした」
彼は咆哮し、剣に手をかけ――しかし、抜けなかった。広場の四隅から縄が飛び、聖槍騎士団の別派が彼を押さえた。彼らの隊長が声を張る。「セレス殿。我らはあなたの善行を知っている。だが、隠された善は善ではない。隠された悪は悪だ。あなたは秤より前に、自分の胸の内で知っていたはずだ」
セレス卿は膝をついた。甲冑が鈍く鳴る。彼は顔をあげ、ぼくを睨んだ。「お前たちは、私がどれほど救ったかを知らぬ!」
ぼくは頷いた。「知っている。だからこそ、ここで終わらせるべきだ。善が善であり続けるために、悪を隠さないでほしい」
その夜、監察局とギルド、騎士団の一部、市民代表で「光の台帳」が創設された。すべての公共の決定と支出、魔力の扱いは、閲覧可能な刻書石に刻まれる。台帳には、一行だけ古い誓いが添えられた――隠した瞬間、それは正義ではなくなる。
セレス卿の裁きは長い議論の末、剥奪と拘禁になった。彼の行いのすべてが悪と認定されたわけではない。救われた子どもたちの証言も台帳に刻まれた。彼の善は、善として残された。ただ、善を口実に悪を覆った部分は、悪として切り離された。ぼくはそれを見届け、胸の奥で何かが少しだけ軽くなるのを感じた。
帰り道、ミナが歩幅を合わせてきた。「あの場で、自分の迷いまで記録に残すなんて。監察官、あなたはずるいですね」
「ずるい?」
「自分を曝してしまえば、相手に『お前も隠しているだろ』と言わせる余地がなくなる。ずるくて、正しいです」
ぼくは笑った。「曝すのは怖い。間違えると、簡単に殴られる。ただ、隠して正しさを守るのは、もっと簡単で、もっと危ない」
塔の灯りが、星のようにまた点り始めた。透明の誓いは、光で世界を真白に焼くためのものではない。境界線を引くための線香の煙のような、細い印でしかない。けれど、その細い印があるだけで、人の心は幾らかまっすぐになれる。ぼくはそう信じたい。
翌朝、監察局に一通の手紙が届いた。差出人は牢にいるセレス卿。短い文だった。「私は正義の名に隠れた。隠れることが悪だと、いまは認める。できるならば、台帳に私のための行を一つ刻んでほしい。善と悪の両方を、忘れないために」
ぼくはミナと並んで刻書石の前に立ち、彼の言葉を一字ずつ刻んだ。声石が微かに鳴り、墨のような光が石に吸い込まれていく。終わってから、ぼくは自分の名も小さく添えた――この監察に関わった者として、私も隠さない。
「ねえ、監察官」とミナが言う。「相対主義の人たちは、今日のことをどう言うでしょう」
「きっと『彼にも彼の正義があった』と言うだろうね」
「じゃあ、どう返します?」
ぼくは石に触れた。冷たい。それでも、手は引っ込まない。「こう返すよ。正義は一つでいい。隠さないことだ」
ミナは少し笑って、空を見上げた。塔の窓がまた一つ、灯った。光は、覆えば消える。曝せば揺れながらも残る。ぼくたちは今夜も記録を取り、失敗も決定も、その場の空気も、できる限り書き留める。悪が悪を自覚する瞬間を見逃さないために。そして、善が善であり続けるために。