2章 旅館の記憶 4
翌日は雨だった。
外に出る気力も湧かず、清掃のため部屋にいられない僕は、ロビーのソファーにもたれながら庭園を眺めていた。雨に濡れる松の木もなかなかに風情である。
時間がゆっくり流れる。贅沢な時間だと思う。
けれど夢が覚めるように永遠には続かない。チェックアウトしてしまえば、また宿探しの日々だ。
ふと僕は気づく。
いつもなら起きるはずのポルターガイストが、今回に限ってまだだということに。
それに前回のときのような、過去にさかのぼったような現状も脱衣所で一瞬起きただけ。
それとも、あまりにも鮮明だから本物の宿泊客と見分けがつかなかっただけだったり?
それはそれで怖い。
庭園から目を離し、館内の天井を仰ぎ見る。チェックアウトのピークが過ぎた正午のロビーは人影が少ない。ソファーでくつろいでいるのも僕くらいなものだ。
最近、異変が起きるのが早くなった気がする。コンビニで二年もバイトできたことが奇跡だと思えるくらい、怪奇現象が起きやすい。
でも、今回は違うな。
家に嫌われていると言っていた結生。もしかして彼女の存在が関係している?
そのとき、頬に冷たいものが触れ「ひゃい!」と反射的に声を上げた。思いの外大きな声に、僕自身が恥ずかしくなる。
「ね、なに! ひゃいって!」
振り向けば、コーヒー牛乳の瓶を片手に腹を抱え、大笑いしている結生がいた。僕は抗議の意を込めてじとりと彼女を睨む。
「おじさん、おもしろすぎ!」
ひーひー息を吸いながら、目元を拭っている姿は、年相応に見えた。エレベーターで相乗りになった、若い女性グループに混ざっていてもおかしくない。
部屋の清掃中、温泉に入ると言っていた結生だ。まだ若干湿っぽさの残る髪を頭の上で結い上げている。
笑い声をこぼしながら向かいに座ると、瓶のふたを開けた。そしてぐいっと一気に飲み干す。
「やっぱ、お風呂上がりのコーヒー牛乳は最高だね!」
「口、コーヒー牛乳のあとがついてますよ」
僕はテーブルの端にあったティッシュケースを彼女の前まで移動させる。
「口ひげまで作るのがセットなの!」
そういうものだのだろうか。十歳くらいしか離れていないと思うのだが、今時の子の感覚がわからない。
コン、と牛乳瓶がテーブルの上に置かれる。
「これからどうしようか」
先ほどまでとは一変、しんみりとした声が薄い唇からこぼれる。
「それなんですが、あまり悲観しなくても大丈夫な気がします」
「その根拠は?」
こちらを見る彼女の瞳が、猫のように鋭さを増す。
僕はさっき気づいたことを話した。
「ふーん、なるほどね」
腕を組み、ソファーにもたれかかる。結生はぞっとするほど美しく、それでいて一目で偽りだとわかる笑みを浮かべていた。
「じゃあ、私がここを出ればいいんだ」
「いや、そんなことは一言も――」
「言ってるじゃん」
一瞬にして笑みが消える。空気中の水分が一瞬にして凍り付いたような、嫌な寒気が背筋を駆け上がった。
「たしかに筋は通っている。ここに来た日の夜、私は館内をくまなく歩き回ったから」
「でもさすがにそれが原因だとは――」
有無を言わせない視線が飛んできて、思わず口を閉じる。
結生は家解氏だ。彼女がそうと言うのなら、僕が言えることはない。
しかし、この状況だ。彼女の嫌われ具合は、僕のポルターガイスト現象を押さえるほどなのか。
だとしたら、心底うらやましいと思った。
沈黙が静かに降ってくる。しかし、すぐに破られた。向かいに座っていた結生が立ち上がる。ぺたぺたとサンダルの音が響く。
「結生さん、どこに行くんですか」
結生が振り向く。
「ちょっと外に出てくる」
「え、その格好で――ですか?」
外は雨。さすがに浴衣で出歩こうと思う人間はいない。晴れていればまだいいかもしれないが、暦の上では秋。秋の雨は冷たく、風が吹けば寒く感じる。
「いいじゃん、私の勝手でしょう」
「そう、ですけど――いや、やめた方がいいです。ここで風邪を引いたら依頼どころじゃなくなります」
「このままでもどうしようもないじゃん!」
どうやら先ほどの言葉を真に受けているらしい。結生の言うとおり、八方ふさがりなのは事実だ。
でも――。
「どうしても行くというのなら、せめて着替えてください」
「どうして」
「外は雨が降っていますし、館内よりずっと寒いです。それがわかっていながら、風邪を引かせてしまったらご家族に面目が立たないです」
平静を装っているが、内心はかなりビビっている。怒り出さないか不安になっていると、はっと空気を割るような嘲笑が耳に飛び込んできた。一つに束ねた髪を掴んで払う。
「おじさんが気にしている面目は、そもそも存在しないから気にするだけ無駄」
とっさに言葉の理解が追いつかないでいると、結生はため息混じりに言った。
「私に親はいない」
「え」
呆けた声が口から飛び出る。
こういうとき、とっさに声をかけられる人間はすごい。僕は口を半開きにしたまま、間抜けな顔をさらすしかなかった。実際、彼女は目元をゆるめた。左目の黒子が揺れる。
「予想通りの反応だね、おじさん。顔に出過ぎ」
でも気にすることないから、と彼女は続ける。
「おじさんがそこまで言うならそうする。私がいない間、好かれるよう頑張って」
「ちょっと、まっ――」
それじゃあどうやって生活しているのか、祖父母などの保護者がいるのか、聞きたいことは山ほどあったが、彼女にもそれがわかっているのだろう。追及を逃れるようにパタパタと鳴るサンダルは、まっすぐエレベーターへ向かう。
チェックインしたときよりもずっと、彼女のことを知って、同時にわからなくなる。
あと五日。それだけの時間で行方不明の女性の足取りを掴まなければならない。
――道具というのなら、見合った働きをする。それが僕にできること。
……だけど。
小さくなる華奢な姿が角を曲がったとき、僕は見た。
こちらをじっと見つめる視線。小柄な男は昨夜、皿を下げに来た男性従業員だ。同時に記憶が弾ける。
あの人、エレベーターに乗ろうとして扉を閉めた人だ。
気まずくなり目をそらす。しかし、向こうはそれでもこちらを凝視していた。嫌な胸騒ぎを覚え、ゆっくり近づく。男性は微動だにしない。目の前に来てもじっとロビーを睨んでいる。僕はつばを飲み込んだ。
これは、家録だ。
僕はそっと彼の背後に立つ。一体何を見ているのか、視線の先を追うが、先ほどまで座っていたソファーとテーブルが並んでいるだけだ。人影はない。
まあ、そううまく行かないか。
ふっと肩を落としたときだ。
「呪ってやる」
耳元で囁かれた低い声。すっと僕は息を吸い込んだ。硬直する体。
男の声はこの世のものとは思えないほど、冷たく、おどろおどろしい。耳をふさぎたいのに、腕に力が入らない。目の縁いっぱいに涙が浮かぶ。
落ち着け、自分。
奥歯を強く噛めば、ぎしっと骨に響いた。
大丈夫、これは記憶。この旅館で起きた過去の出来事だ。でもそうなると――。
「この人が実際に言っていたってこと――?」
腹の中に氷塊をたたき込まれたような恐怖と不快感が襲う。鳥肌の立つ腕を組んだときだ。
「許さない」
全身を流れていた血が、一瞬で凍り付いた。