2章 旅館の記憶 2
とんだ出費だ。
歩いてコンビニまで行き、必要な物を買い揃えた僕はとぼとぼと旅館までの道を歩いていた。蝉の声はもう聞こえないが、秋はまだ遠いらしく歩いていると汗がにじむ。まさか、一週間も滞在することになるとは思わなかったので、神奈川のコインロッカーに入れっぱなしの荷物が気にかかる。あとで連絡でも入れた方がいいのだろうかと思考する頭をそうじゃないだろと僕は叱咤した。
――てっきり、廃墟に行くものだと思っていたんだけど。
まるで寺のような立派な門構えをした旅館を見上げる。
結生が呼び出してきたのだから、仕事に違いない。今回も家の記憶を読み解く必要があるのだろう。ただ、前回のように物を探す仕事にしては少し違和感を覚える。
まだ、依頼については何も聞いてないからなあ。
聞こうと思ったら、彼女は早々に寝室にこもってしまったのだ。部屋から出てもらう方法も思い浮かばず、仕方がないので勝手にさせてもらうことにした。
夕飯まではまだ時間がある。結生に振り回されている感は拭えないが、せっかくの機会だ。少しくらい楽しんでも罰は当たらないだろう。
熱海と言えば温泉。当然、この旅館にも温泉がある。さっき外に出る前、大浴場の前を通ったので今の時間入れることは確認済みだ。
僕は頬がゆるむのを止められない。
温泉なんて久しぶりだ。いつもネカフェのシャワーで済ませているので、楽しみである。
旅館に戻れば「お帰りなさいませ」と出迎えられた。曖昧な笑みを浮かべながら会釈を繰り返し、僕はさっさとエレベーターに向かう。浴衣姿の宿泊客やチェックインしたばかりのグループとすれ違いながら角を曲がると、ちょうどエレベーターは閉まる寸前だった。家族連れの宿泊客が乗ったエレベーターだが、まだ乗れるスペースは十分にある。途端、案内中の男性スタッフと目が合う。
乗ります、の言葉が出ず「あ」と短く鳴きながら手を伸ばすと、男性スタッフはこちらを見据えたまま「閉」ボタンを押した。
嘘でしょ――。
閉まる寸前、男性スタッフがこちらを見据えたまま口を動かしたように見えたが、何を言われたかもわからない。
静かに閉じられたエレベーターを僕はただ見送ることしかできなかった。
唖然としていると「申し訳ありません」という声が飛んできた。どうやら他のスタッフに見られていたらしい。慌ててやってきた女性スタッフが、エレベーターボタンを押してくれる。
「ありがとうございます」と伝えて、やってきたエレベーターに乗り込んだ。僕ひとりを乗せた鉄の箱は、静かに上昇を開始する。館内に流れている和楽器の音楽がスピーカーから流れ落ちた。
僕は思わず考える。
たれ目がちな丸顔の男性スタッフだった。肩幅があり体つきがよさそうではあったが、一緒に乗っていた女性客とほぼ同じ身長だ。
感情がいっさいない顔で口だけが動く様は、まるで絵がしゃべったような不気味さを感じた。
何を言っていたのだろう。
あれは明らかに僕に向けられていた。多分「申し訳ございません」とかだろうな。他の宿泊客を案内していたみたいだし、とひとりで納得してエレベーターを出た。
部屋に戻っても結生は寝室から出てきていなかった。
「結生さん」
声をかけるが返事はない。
「僕、ちょっと温泉に入ってきます」
一応断りを入れたあと、浴衣に着替え、風呂場に向かう。「男」と書かれたのれんを押しくぐると、下駄箱があり、さらにその奥に向かえば脱衣所に出た。首を振る扇風機の風が心地よい。
あれ? もしかして誰もいない?
少なくとも脱衣所には誰もいなかった。
少し不安を感じながらも風呂場の扉を開ける。ここにも誰もいない。残念ながら「貸し切りだ! やった!」と喜べる性格でもない。もしかして入っちゃいけない時間だったとか――いや、ちゃんと確かめたし――なんてことを頭の中で繰り返しながら体を洗い、髪を洗い、顔を洗う。じゃばっと桶に溜めたお湯を体にかけてから、湯船に向かう。足先をつけ、温度を確かめながらゆっくりお湯に浸かった。肩まで浸かれば、自然と「はあ」と声が出た。結生が見たらまた汚い物を見るような目を向けられるのだろう。娘を持つ世のお父さん方の気持ちがなんとなくわかってしまって、少し複雑な気持ちだ。
先ほどまであった不安な気持ちが、お湯に溶け流されていく。
露天風呂も気になって、せっかく誰もいないんだしと少し心に余裕が生まれた僕は、外に通じる扉に手をかけた。滑りやすい足下に注意しながら石畳を行く。露天風呂からは空と庭園が見えた。チェックインしたときに見えた中庭の一部だろう。作られた小川が清らかな音を奏でる。風が吹けば笹が風に乗って滑るように鳴った。
僕は縁に背中を預け、両足を伸ばした。貸し切り特権だ。湯の表面では、湯煙があがっては雲のように流れていく。
「――さいっこう」
ざばっと湯を散らしながら両腕を上げ、ぐっと伸びをする。そのまま、片手で頬をつねった。
痛い。大丈夫、夢じゃない。
うふふ、とこれまた結生が見たら冷たい目で見られるだろうが、ここは男湯。思う存分、ひとりの時間を満喫した。
風呂から上がり、扇風機の風を浴びながらロッカーの鍵を開ける。バスタオルを取り出し髪や体を拭き終わるとパンツを履いて、脱衣所に設置されている麦茶をいただいた。
いい旅館はサービスも一流だなあ。
紙コップいっぱいに注いだそれをぐっと飲む。火照った体が少しだけ冷えた。ごく、ごくっと飲み干しているとき、不意に視界の隅で何かが動く気配を感じた。誰か来たのかと思っていると、目の前をタオル一枚持った裸体の女性が過ぎていく。
思わず吹き出した。
「す、すみません!」
とっさに目線をそらし、出た言葉がそれだった。
もしかして僕は女湯に間違えて入っていたのか?
母子家庭で自由奔放な姉もいることから、そこそこ裸体に耐性はある方だが、不意打ちは想定していない。慌てて浴衣を引っ張り出し袖を通そうとするがうまくいかない。
あれ、もしかしてこれ、逮捕案件かも――なんてぐるぐる考えていたら、目の前が真っ白になった。
ぱっと目を開いたとき、蛍光灯の光に思わず顔を歪めた。ぶーんというモーター音と一緒に冷たい風が当たる。
「あ、起きた」
顔を向けると、足を組んで椅子に座る結生がいた。その手にはスマホが握られ、カメラがこちらを向いている。
「おじさんさ、子供じゃないんだから自分の体調くらい自分で管理してよ」
そう言いながら、ペットボトルの水を差し出される。僕はゆっくり起きあがると、それを受け取った。
「あの、ここは」
六畳ほどの部屋には、簡易ベッド一つと二つの椅子、そしてサーキュレーターしかない。
「救護室」
椅子に座り直した結生がさらっと言う。
「おじさん、脱衣所で倒れてたんだって。旅館の人が緊急事態みたいにやって来て、本当迷惑だったんだから」
「すみません」
どうやら知らないうちに大事になっていたらしい。寝て起きたら海の上だったってくらい、僕も状況が飲み込めない。
「のぼせたんだろうって旅館の人は言っていたけど」
僕がペットボトルに口をつけた途端、彼女は声を潜めて言った。
「なにか見たんじゃないの? モテおじさん」
いや、さすがにモテおじさんはやめてほしい。乾いた体に水分が行き渡ると、一気に体が生き返った気がした。
「ひとつ、確認なんですけど」
僕も声を潜めて尋ねる。
「僕が入っていた温泉は、男湯で間違いなかったですよね?」
「当たり前じゃん」
結生の両目が鋭さを増す。
「もし女湯に入っていたら警察に通報するし、そもそも人としてあり得ない。二度と口もききたくないし顔も見たくない」
当然、そんなことはしていないのだが、ひゅっと背筋が凍る。
「男湯だったならいいんです!」
結生の目が「当たり前だ」と雄弁に語る。
「結生さんの言うとおり、見たことは見たんですけど――」
僕はポルターガイストを引き起こすだけで、家の記憶――家録を見ることはできない。そう伝えれば、結生はわざとらしくため息をついた。
「おじさんは記憶力もないの?」
ワンピース姿のままの彼女は、足を組み言う。
「この前見たじゃん。スマホ越しじゃないやつ」
たしかに、その通りではあるが。
「で、あのとき以来そういうことは起きてないんでしょう?」
僕はこくりと頷いた。もしそんなことになっていたら、一人で温泉に入ろうとは思わない。「だったら簡単じゃん」と弾むような口調で言う。
「おじさんと私、そろっていると見えるんだよ」
何が、とは聞かなかった。根拠はないが、彼女の言うとおりだと僕も心のどこかで思う。
でも認めたくない。
認めたら温泉に入れなくなる!
毎朝、男湯と女湯は入れ替わる。一週間もあるならば、両方の風呂場を楽しみたい。――楽しみたかったのに。
僕はどうにでもなれと思いつつ、目線をそらしながら口を開いた。
「女性でしたよ、三十代くらいの」
また軽蔑するような視線に刺されるのかと思った。しかし――。
「さすがモテ男は違うね」
彼女は満足そうに言う。そこで、今回の依頼が人探しだと知った。一年前、三十三歳の女性がこの旅館で宿泊中、行方不明になっている。
調べればネットニュースにもなっていた。写真も掲載されている。ゆるくパーマをかけたボブヘアに口元の黒子が特徴的な女性だ。家族が今も必死になって探しているらしい。
「で、この人だった?」
「わかりませんよ」
風呂場でのことを思い出し、顔が熱くなる。
「――手がかりはなしか」
結生は椅子の背もたれに体を沈めながらスマホを見た。
「スマホには何か映っているんですか?」
ちらりとこちらを見た結生は「まだ何も」と短く答える。
「目が覚めたんなら行こう。もうお腹空いて死にそう」
やってきた沈黙を払うように彼女はそう言うと、椅子から立ち上がりさっさとドアノブに手を置く。
「誰かに声をかけた方が」と口を開けば「多分、隣にいる」とだけ言って出て行ってしまった。
扉を叩くまでもなく、中から細身の女性が出てきた。どうやらこちらの扉は開けっ放しだったらしい。館内で見かけるスタッフは和装だが、目の前の女性は動きやすそうな洋装だ。こちらと目があった瞬間、驚いた顔をしたがすぐに消える。
「もう大丈夫そうですか。体にしびれなどの異変はないですかね?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
深く頭を下げれば、あまり無理をしないようにと諭された。そうしたいところではある。
「それと、お連れの方にもお礼を言って上げてください」
思わぬ言葉に目をしばたたかせる。
「かなり心配されていましたよ。ただのぼせただけだろうから、先にお食事を召し上がってもよかったんですけど、大丈夫ですの一点張りで」
「あの、今は何時でしょうか」
ちょっと温泉に入るだけの予定だったのだ。腕時計は部屋に置きっぱなしである。
「今は、午後十一時前ですね」
十一時!
どうりで腹が空くわけだ。だいたい六時間くらい気を失っていたことになる。同時に申し訳なさが立った。
さっさと部屋に戻る結生の細い背中が脳裏をよぎる。僕が知らない彼女の一面をかいま見た気がした。
女性スタッフに再びお礼を述べ、僕は部屋に戻った。
翌朝。僕は寝室の扉をノックしていた。キツツキのように何度も。何度も。
「結生さん、おはようございます。起きていますか?」
コンコンと軽快に叩くが返事はない。鍵はないので開けようと思えば開けられたが、さすがにそれはしない。矢ったら最後、二度と青い空は仰げないだろう。
「結生さん」
そろそろ朝のバイキングが終了する時間だ。昨夜はおにぎりや煮物などの軽食が用意されてはいたが、軽食では腹は満たせない。さすがに高級旅館にいながら二食連続抜きなのは精神的につらい。でも、結生を置いて自分だけ行くことはできなかった。
「結生さん」
もう一度呼ぶ。返事はない。せめて起きているのかどうかさえわかればな、と思いつつ部屋の前から離れた。
仕方なくフロントに電話をかけ、具合が悪いと角の立たない言い訳をし適当に朝食を部屋まで運んできてもらった。
結生が部屋から出てきたのは、昼前である。
だぼっとしたジーンズに首から腹にかけてフリルのついた白いブラウス、太いベルト、そして革ジャンを羽織った格好はまた今までと趣向が違う。なんとなくウエスタン調だなと思った。
「手がかりをつかんだ」
部屋から出るなりそう言うと、ソファーに座る。ローテーブルに置かれた朝食を一瞥すると、クロワッサンを掴み一口かじりついた。
テレビをつけながら、ソファーで半分寝ていた僕は、慌てて姿勢を正す。
「ねえ、おじさん」
用意してもらった朝食に目を落としながら、結生は言う。
「これ、ここの朝食?」
「そうですよ」
ラップを取り外しながら答えた。二つあるお盆の上には、数種類のパン、ジャムとマーガリン、スクランブルエッグ、ウインナー、サラダ、オレンジにヨーグルトが並ぶ。洋風な朝ご飯である。
「ふーん」
結生はどこか不満げな声を上げながら、備え付けのフォークを手に取る。彼女が起きるまで待っていたこともあって、もう腹ぺこである。パン一口、口に入っただけで声を上げたくなるほどの幸福感に包まれた。
幸せだ。
「それで、手がかりを見つけたんだけど」
「手がかり?」
パンを咀嚼しながら、そう言えばさっきもそんなことを言っていたと思い出す。
結生の目がわずかに細められたのを見て、ぞわりと背筋が凍った。
「おじさんが寝ている間、私は館内で手がかりを探していたんだから」
僕は目を丸くした。夜の館内をひとりで歩き回っていたというのか。
――彼女ならやりかねない。
「とりあえず、わかったことは二つ」
そう言って彼女は指を立てた。
「ひとつは、男性と一緒に行動していたこと。探し人の女性をAさんと呼ばせてもらうけど、依頼人いわくAさんは独身だって言ってたんだよね」
「じゃあ一緒に来ていた人は誰なんですか?」
「さあ? それがわかれば苦労しない。もしかしたら、この男がなにか知っているのかもしれないけど、地元新聞に載ってた記事でもひとりで来ていたって書いてあったし。今のところ、男が何者なのかは不明」
旅館の人に聞けばわかるだろうか。いや、それ以前に警察が調べ上げているだろう。それでもAさんの行方はわかっていない。
ひとりで来ていた宿泊客と仲良くなったっていう可能性もあるのか。
「ふたつめ」
結生がもう一本指を立てる。
「正直、認めたくはないけど」
そう言ってこちらを見据える。左目の泣き黒子が悲しげに見えた。静かにつばを飲み込む。
「今回、おじさんは役立たずかもしれない」