2章 旅館の記憶 1
根無し草。
いつの頃からだろうか。話をする度に、母の口からその言葉が出てくるようになった。
辞書を引くと、浮き草という意味の他に、漂いさまよっている人を指すとも書かれている。仮にも血のつながった親なんだからそんな言い方は――と思っていた時期もあったが、最近は的を射た表現だと妙に感心していた。
僕は両手を上げ、ぐっと伸びをした。丸まっていた背中に血が通うような気持ちよさが広がる。
「依頼終了」
僕はノートパソコンを閉じて天井を見上げた。二年前からバイトと掛け持ちでwebライターの仕事もしている。正直なところあまり金にはならないし、労力と賃金が割に合わないと思っているが、辞めたいと思わないのだから不思議だ。
コンビニや居酒屋などのバイトと違って、固定の場所に縛られずできるのがいい。二ヶ月前に辞めたコンビニバイトのように、長くその場にいればいるほどポルターガイストは発生しやすくなる。
――母さんは、僕に会社員として働いてほしいのだろうけど。
ネカフェの照明を見つめながら、それは無理だと早々に結論を下す。
はあ、と体内にたまった毒素を吐き出すように息をつく。できることなら、まっとうに生きたいと思っている。けれども、そうできないのだからどうしようもない。
――僕は自分でできるベストをやっているはずだけど。
当然、周りからはそう見られない。理由を説明しようと思ったことは、実の母親が相手でもなかった。話したところで信じてもらえないだろう。
ところが最近、そうでもなくなった。
まだあどけなさが残る女性の姿が脳裏をよぎる。
「家録、か」
家解氏である狩屋結生は、家の記憶を読み解き、捜し物を見つける仕事をしている。どこかの小説かドラマの設定かとツッコミを入れたくなるが、どうやらすべてが現実だ。
きっと、彼女の話を誰かに伝えても、まともに聞く耳を持たないだろう。
もし自分が逆の立場ならそうだ。家が記憶を持つなんてことありえない。
でも――。
瞼を閉じれば、スマホ画面越しに見た家録やソファーに座る家主の姿が鮮明に蘇る。あれは、実際に見た者にしかわからない。百聞は一見にしかず、ということわざが浮かぶ。
店内に流れる少量の音楽をかき消すように、足音が近くを通っては遠ざかる。狭い個室は棺桶のように息苦しい。
僕も安心してくつろげる場所がほしい。
ペットボトルの水をぐいっと飲み干したときだ。
ばんっ! と個室の扉を殴りつけたような音がして、思わず飛び跳ねた。当然、外には誰もいない。
そろそろここも潮時だ。
次はビジネスホテルに泊まりたい。
しかし、とてもそんな余裕はなかった。静かに肩を落とす。
家に好かれている、か。
物が勝手に落ちる、扉がひとりでに開く、背後から聞こえる足音、窓や扉を激しく叩く。
姿はなくても、誰かが確実にいるような現象をポルターガイストと言う。よく、呪われた家やホテルなどと題して真夏のホラー番組に取り上げられるが、それを僕はどんな場所でも起こしてしまう。
正直、そんな特殊体質はいらない。
行く先々で迷惑をかけるだけだ。人は得体の知れないものに恐怖する。もし、原因が僕にあると知られたら――そう思っただけで夜も寝られない。
だから僕は、母の言うように根無し草としてあちこちに移り渡る。一カ所に長居できないのだから仕方ない。幸い、家に足はついていない。追いかけられることはないので、僕が離れれば何事もなかったかのように平穏な日常が戻ってくる。
僕が浮き草のようにあるいは綿毛のように、流されるまま転々としていれば問題ない。
問題はないのだが――。
そのとき、思考の世界を吹き飛ばすように着信音が鳴った。長く居座った場所では、非通知からかかってくることもままある。今回もその類だろう。
僕は充電しっぱなしのスマホをたぐり寄せる。
だが、画面に表示されている名前を見て目を丸くした。
狩屋結生。
通話にするのを一瞬ためらう。しかし、それをあざけるように腹の虫が鳴いた。昨日からカレーパンとおにぎりしか食べていない。ネットカフェで引きこもっていても、腹は減る。結生からもらったアルバイト代はもう使い切った。ノートパソコンの脇に置かれた哀れな薄い財布を一瞥して、僕はスマホを耳に当てた。
◇
僕は、夢を見ているのだろうか。
そっと頬をつねる。痛い。
「なにやってんの」
刺々しい声が頭の上から降ってきた。視線を上げると、蝶を模した髪留めで黒い髪を結い上げた結生と目が合う。彼女は僕の向かいに座ると、テーブルの上に置かれた昆布茶に口をつけた。その丁寧な所作は、今回の服装とよく合っていると思う。
前回の黒一色のドレスのような装いから一変、腰に大きなリボンがついている、オレンジと白のワンピースを着ている。前回が妖艶さなら今回はかわいらしさを全面に出した服装だ。
レースやフリルはないが、オレンジと白の生地を重ねているのか、ふくらはぎまであるスカートには切り絵のように花や蔦の模様が施されていた。柄の入った黄色いタイツにブーツを履いた姿は女子大生のように見える。
そう言えば、この子は普段何をしているのだろう。
そう考えた瞬間、彼女の目が細められた。
「理解できない」
なめくじを見るような視線に、僕の背中は自然と丸くなる。心の声を聞いたのかと一瞬思ってしまったが、そうではない。
「本当、おじさんって意味わからない」
どうやら僕の行動がお気に召さなかったらしい。別に、頬をつねっただけじゃないか。よくあるベタな行動だと見逃してほしい。
まさか、こんな立派な旅館に来るとは思わなかったんだから。
結生が来るように指定したのは、隣の県にある熱海。駅前で待っていると結生がやってきて、そのすぐあとに十人乗りの白いボックスカーが止まった。躊躇なく乗り込む結生のあとを慌てて追いかけ、不安を抱きながら揺れる車が向かった先がこの旅館だった。
一瞬夢かと思った。
――神様が僕に哀れみをかけてくれたのか?
信仰心があるわけでもないが、思わずそう疑ってしまうほどのことなのだ。これが夢でも構わない。でも夢なら目が覚めたときちょっと泣くかも、と思って頬をつねったのだが。
「お待たせいたしました」
突然の明るい声に、はじかれるようにして顔を上げる。朗らかな笑みを浮かべた、四十代くらいの着物姿の女性が僕らのいるテーブルに近づき、膝を折った。
「本日から一週間ご宿泊の狩屋様ですね。この度は当旅館に――」
「え、一週間!」
慌てて口を閉ざすと、スタッフの女性が笑みを浮かべこちらを確認する。見なくても、結生の鋭い視線がちくちくと全身を刺した。
「気にしなくて大丈夫です」
結生がそう言えば、スタッフは笑みを崩さず「では、早速ですがお部屋にご案内します」と続けた。
外観は和風建築だったが、館内は高齢客や車いす利用者に配慮したバリアフリー仕様に改築してある。暖色の照明の通路を行き、エレベーターに乗る。ちらりと見えた中庭はよく手入れが行き届いた日本庭園のようだ。写真を撮る利用客の姿もちらほらある。
「こちらのお部屋です」
そう言って、スタッフが部屋鍵を差し込み、扉を開ける。
足を踏み入れた僕は、ぽかんと口を開けてしまった。
靴を脱ぎ、あがった先は大きな窓のある洋室と和室のある部屋。視線を巡らせると、ダブルベッドのある部屋が見えた。まるでマンションだ。しかし、僕が気になるのはそこではない。
ダブルベッド――?
一週間の宿泊だ。さすがに男女一部屋を使うはずがない。僕は別の部屋に案内されるものだと思って、館内設備や食事の案内を上の空で聞いていたら、スタッフは「ごゆっくりおくつろぎください」と言って出て行ってしまった。
「え」
スタッフの出て行った扉を呆然と見つめていると「恥ずかしいんですけど」と辛辣な言葉がかけられた。先ほどスタッフが館内説明をする前に入れた茶が、和室の座卓に置かれている。そう言えば、座るように促されたっけと思い出す。
結生はその茶を飲みながら、窓の外を眺める。山々の向こうに海が広がっているのが見えた。しかし、僕はそれどころじゃない。
「あの!」
座卓に手を乗せ僕は言う。
「全部が全部、初耳なんですけど」
さすがに今回ばかりは黙ってやりすごすことはできない。
「それに、お、同じ部屋なんて――」
「その方が安く済むから」
どうせ払っているのは私なんだから私の勝手でしょう、と言われてしまったら、僕に反論の余地はない。
だけど言わせてもらう。
「だ、だけど男女が同じ部屋って、その外聞があまりよろしくないというか」
だんだんと声がしぼむように小さくなっていたのはご愛敬だと思ってくれ。僕にしてはかなり勇気を振り絞ったのだ。
結生は年頃の女性。それに、僕らはまだ数回しか顔を合わせていない間柄。ほとんど他人と言ってもいい。それなのに、同室なんて僕としては常識を疑うレベルだ。
結生のまっすぐな瞳がこちらを見据える。
正直なところ、彼女のこの瞳が苦手だ。
ガラス玉のように感情の見えない瞳は、何を考えているのかわからない。
僕は座卓から手を離し、少し距離をとって座る。背中を丸め正座する姿は、端から見ればしかられているように見えるだろう。
「なにか勘違いしているみたいだけど」
そう言って、彼女は洋室の方を指さす。大きな窓に面しているその部屋には、壁に大きなテレビとローテーブル、そしてテーブルを挟むようにソファーが置かれている。
「おじさんのベッドはあのソファー。言っておくけど、寝室に入ってきたら殺すから」
「……わかりました」
僕と彼女は、労働者と雇用主。彼女から言わせれば道具と使用者だ。
とほほ、と肩を落とすしかなかった。