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5章 兄の行方 9


 別荘に戻った僕と笹本さんは、軽い食事をとって各々の部屋にこもった。早朝、結生さんを探しに行く。そう決めた。


 だけど――。

 このまま寝るのは無理だな。

 ベッドに入ったものの、目は冴え冴えとしている。今もどこかで助けを求めているのではと思うと、じっとなんかしていられない。

 なんで現れないんだ。

 僕は千景に苛立ちを募らせる。いつも彼女が危険にみまわれるとき、千景は必ず僕の前に現れた。だが、彼が現れないから結生は大丈夫と思えるほど、僕は楽観的に考えられない。

 そのとき、ごうっと唸るような音がして僕は小さく飛び上がった。


 何かいる――?

 しかし、頬を吹き抜ける冷たい風と共にカーテンが揺れたことで、僕はほっと胸をなで下ろす。ごうっと鳴るのは、細く開いていた窓のせいだ。

 ベッドから起きあがる。スリッパを履けば、ひんやりとした床の空気が足首にまとわりついた。僕はそれを振り払うように、部屋の中をぐるぐる歩き回る。幸い、この部屋は広い。未使用のベッドを横目に、ぐるぐる部屋の中を歩き回っていると、甘い匂いが鼻をかすめた。外から漂ってきたものではない。当然、僕は香水をつける習慣もない。

 クローゼットを開ける。匂いが再び鼻先をかすめた。

 砂原が占ったときの光景が脳裏をよぎる。あれはもっと甘い匂いだった。どうして草や花が乾燥しているだけなのに、あぶっただけであんなに甘い匂いがしたのか不思議だった。占い自体を否定しているわけではない。当然、僕が知らないだけで、火を当てるだけで強く香るものもあるだろう。

 今、僕が羽織っていた上着はほのかに甘い匂いが漂う。それこそ、砂原や香織がまとっているような。


「そうか!」


 頭に雷鳴が走ったように全貌が見えた気がした。同時に、策が浮かぶ。

 いや、策というほど立派なものではない。僕にできるのは、頼ることだけ。寝間着を脱ぎ捨て服を着る。なるべく音を立てないように階段を降りると外に出た。

 自分でも馬鹿げていると思う。大人しく朝が来るのを待つのが一番いいだろう。

 でも。

 ここに来たときの話が脳裏をよぎる。

 千景は、この別荘の主からうなり声の正体を突き詰めるよう依頼を受けていた。そして今日、砂原は落とし穴のような洞窟があると話していた。


 もしかすると――。

 人が落ちるような穴はなくても、そこに通じる小さな通気孔のようなものがこの近くにあったなら。

 風の吹き方によって、巨大な空洞を持つ小さな穴は音を鳴らすのでは?

 ペットボトルの口に向かって吹きかけたとき、低く唸るような音が鳴るように。

 つまり、この近くにも未確認の洞窟があるのかもしれない。そこに足を滑らせて落ちたと考えれば、結生が戻ってこれないのもつじつまが合う。

 きっと笹本に話せば、朝になったとき、このあたりを重点的に調べれば問題ないと言うだろう。二次災害になれば、それこそ目も当てられない。笹本が警察組織の人間ということもある。

 でもその間、結生は心細い思いをしているはずだ。

 一刻も早く彼女を助け出すには、あの人の助けを借りる必要がある。

 額に浮かぶ汗を拭う。懸命に走っているものの、車やバイクに比べると圧倒的に遅い。息を切らし、立ち止まる。両膝に手を乗せ、呼吸を整えていたときだ。


「お困りですか?」


 はっと顔を上げる。「どうして」という疑問の声は、ぜえぜえという乱れた呼吸音でかき消えた。

 僕が向かっているのは、砂原たちのいる別荘。だが、僕が頼りたい人は砂原ではない。


「こういうの、昔からわかってしまうんです――と言っても信じてもらえないでしょうけど」


 くすくすっと笑う香織は、街灯の少ないこんな場所でも異様な存在感を放っていた。黒いスカートが光っているような錯覚すら覚える。

 砂原は言っていた。彼女は、空洞がどこにあるのかわかる、と。

 僕はその場に膝を折ると額をこすりつけた。「あら、いやだ。やめてください」と言う彼女の声を無視して頼み込む。


「お願いです。人を探すのを手伝ってください」


 肩に手がかかる。ゆっくり顔を上げるとしゃがみこんだ香織と目があった。その顔にはほほえみが浮かんでいる。彼女なら助けてくれる、そう確信したときだ。


「では、見返りになにをいただけるのでしょうか」


 すっと体温が下がった。冗談か何かかと思ったが、彼女はほほえみを浮かべたまま、こちらをまっすぐ見据えている。獲物を前にした捕食者のような鋭さが見え隠れしているから、冗談ではないらしい。

 だが、特別おかしなことを言っているわけではない。相手に何かを望むのなら、相応の対価は必要だ。僕は固唾を飲み込む。


「お金はあまりありません。でも、ぼ、僕にできることなら――なんでも」


 消えそうな声でそう言えば、「ふふ」っと上品な笑いが返ってきた。


「なんでも、ですか。――それならわたくしと籍を入れてくださいといっても、叶えてくれるのですか?」

「そ、それは!」

「家守さん、あまり軽薄な発言はしない方がいいですよ。特に、この界隈に身を置き続けるのであれば」


 ぐうの音もでなかった。

 彼女の言うとおりである。脳裏に笹本の姿が浮かぶ。僕が知る中で、結生が信用している「しっかりした大人」だ。

 彼女から見た僕は、笹本の足の先ほども「しっかりした大人」ではないだろう。だが――。

 少しでもいいところを見せたいと思うのは、僕のエゴだろうか。

 ふっと自虐的な笑みが浮かんだ。きっと暗くて香織には見えなかっただろうが。

 それで結生が見つかるのなら、と静かに覚悟を決めたときだ。


「ダメです!」


 唐突に香織が斧を振り下ろすように声をあげた。


「わたくし、そういうのが一番嫌いなんです」


 思わず首を傾げる。

 ――まだ何も言っていないんですけど。

 しかし、彼女は何かを感じ取ったらしい。ぶつぶつと「他人に」とか「強制ではなく」とか「まるで本物のお姫様」などと親指の爪を噛みながら悔しそうにつぶやいている。そこにいつもの優雅で妖艶な雰囲気は微塵もなかった。


「――やっぱり、一番嫌いな類の人間ですわ」

「す、すみません」


 思わず謝れば「違うのです」と僕のよく知る香織が、慌てたように言う。


「ごめんなさい、変なことを言ってしまって。でも、家守さんは嫌いではないのですよ?」


 嫌いな方をお茶になど誘ったりしませんから、と言われれば確かにその通りだなと思う。


「籍は追々にして――」


 聞き捨てならない言葉を聞いた気がしたが、僕は黙った。一秒でも早く、結生を捜したい。

 しばらくして、考え込んでいた香織が手を打った。


「家守さん、携帯を貸してください」


 何をされるんだろう――。

 不安に思いつつも、差し出された手に充電したばかりのスマホを乗せる。

 香織は両手でそれを操作し始めた。既視感のある光景である。しばらくするとお礼の言葉と共にスマホを返された。


「連絡先を交換させていただきました」


 にっこり笑う彼女は満足そうだった。


「何かあったときは連絡してください。わたくしも困ったことがあれば電話しますので」


 香織の姿が結生を重なる。しかし、左目の下にほくろはない。


「家守さん、それでは行きましょうか」


 現実に引き戻された僕は「は、はい」と裏返った声で返すと、その後ろ姿を追った。


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