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5章 兄の行方 8


 やってしまった。

 私は右足に手を伸ばす。足首が異様に腫れている。少し触れただけで痛みが走った。

 なにやってるんだろ、私。

 体から力が抜ける。見上げれば、一面真っ暗だった。星も月も見えない。寒いと思うのは気のせいではないだろう。今は五月。日中は過ごしやすくても朝晩は冷える。標高が高い地域ならなおさらだ。


「……ちい兄」


 体をかき抱くように縮める。本当は両ひざを曲げたいが右足が痛くてできない。腕だけじゃあ寒さはちっともしのげなかった。

 兄はこの場所に来ていた。人生の終焉の地としても名高いこの森へ。家録で手がかりは見つけられなかった。もしかしたら、兄はこの森の中でさまよっているかもしれない。そう思ったらいてもたってもいられなかった。

 笹本の目を盗んで森の中を捜索したらこの有様だ。


 ――まさか、いきなり足下がなくなるなんて思わないでしょう、普通。

 大地がなだらかに続くという常識は、この森には通用しない。草や苔、木の根のせいで平坦だと思っていた場所が、二メートルほどの崖になっていることもよくある。

 でもまさか、落とし穴みたいになっている場所もあるなんてね。

 落とし穴といっても、人ひとり分の狭い穴ではない。穴こそ狭いものの、落ちた先は洞窟のようだった。明かりをもっていないため、正確な広さはわからない。ただ、時折ひんやりと冷たい空気が頬をなでる。手近にあった石を投げたら跳ね返ることなく遠くに落ちたことからも、そこそこ広いようだ。

 ここから出るには助けを呼ぶしかない。

 だが、スマホを使おうにも落下の衝撃で壊れてしまった。


 ――どうしよう。

 気を抜くと涙がこぼれそうになる。このまま誰にも見つけてもらえないのではないか。そう思うと胸が押しつぶされそうになった。呼吸すらまともにできなくなる。じわりとにじむ視界を拭うように、目をこすって細く息を吐いた。


「誰か――」


 小さな声でつぶやく。どういうわけか、おじさんの顔が浮かんだ。いつも自信なさげで目を伏せがちな兄と同い年くらいの男。本当は、おじさんなんて呼ぶ年ではないのもわかってはいる。ただ、ちょっとした当てつけだ。私にはないものを持っているから。それに、兄とは真逆でちっとも頼りにならなさそうなのに。


 ――いつも助けに来てくれるのは、おじさんなんだよね。

 鼻をすする音がむなしく響く。


「――私、死んじゃうのかな」


 視線を手元に落としながら、そう言葉をこぼしたときだ。


 ――大丈夫、絶対に大丈夫。


 声が聞こえた。それもよく知る声だ。


「ちい兄!?」


 大きな声が出た。辺りを見回す。しかし人影はなく、ただ深い闇だけが広がっている。声も止んだ。幻聴だったのだ、と手元に落とした視界が揺らぎ始めたときだ。


 ――聞こえるのか。


 戸惑う声が耳をつく。思わず叫んだ。


「ちい兄、やっぱり! どこにいるの!」


 しかし姿は見えない。けれど声ははっきり聞こえる。確かにいる。近くに兄が。


「お願い……返事をして」


 もうすがれるものはない。絞り出すようにそう言うのが精一杯だ。嗚咽をこぼさないよう手で口を覆う。誰もいないというのに、みっともない姿を見られるのではないかと怯える自分がいる。

 祖父に役立たずと罵られた日々が脳裏をよぎる。

 私に家解氏としての才がないとわかった途端、優しかった祖父が変貌した。手をあげられることはなかったが、常に言葉で殴られた。

 狩屋邸から出ていくことはできなかった。まだ子供の私では一人で生きていく力がない。まだ飢えないだけマシだと思ってこの場所で耐える選択をした。

 ただ、それが間違いだった。言葉は目に見えない。だから、私が限界に近いことは誰にも気づかれなかった。

 でも、何度も罵られるうちに、私は無能なんだと思い込むようになった。生きている価値もない。物を食べるどころか空気を吸って吐くことすら申し訳なく思えて涙が止まらないこともあった。

 死んだ方がいいんじゃないか。

 ロープを鴨居にぶら下げて、首をくくってみたら楽になれるだろうか。そう思って、倉庫で見つけた毛羽立っているロープを夜中、鴨居にくくりつけようと何日か苦戦していたときだ。

 兄が帰ってきた。

 血が半分しかつながっていない兄。そのせいか、兄は成人すると家に寄りつかなくなった。昔は仲がよかったが、結局あの人も私が邪魔なのだ。そう思っていた。

 けど――。


「あんたは結局、家のことしか考えられないんだな!」


 激しい怒声で目が覚め、こっそり居間をのぞけば、怒りに燃える兄の後ろ姿があった。祖父は動じることなくその視線を受け止めている。


「家録が見えないからってやっていいことと悪いことがあるだろう!」


 どうやら兄はこの家の記憶を見たらしい。でも、どうして怒っているのかさっぱりわからない。


「俺に仕事ばかり押しつけていたのは、そういうことだったのか」


 祖父は答えなかった。兄は舌打ちをし、居間を出る。見つかると思って慌てて隠れたが無駄だった。


「結生」


 包み込むような優しい声だった。ちらりとのぞくように顔を出せば手招きされる。おずおずと近づけば頭をなでられた。



「少しこの家を出ようか」

 そう言って、兄はさらうように私をあの家から連れ出したのだ。兄は転々と動き回る人だった。私はいろんな町を見て、景色を見て、人を見た。

 家録が見えなくても兄の役に立てるような、強い女になろうと決めたのはそのときだ。

 祖父が亡くなったと家政婦から知らせを受け、家に戻ったとき、私はもう少しも死にたいとは思っていなかった。だから、祖父の葬儀を終え、書類手続きも一段落したとき兄が「この家を立て直す」と宣言したときは疑問しかなかった。

 でも今はわかる。

 兄は、ちい兄は私のためにあの家を立て直そうとしたのだ。私にとって嫌な記憶が残るあの場所を、物理的になくそうとしたに違いない。なぜか。理由は薄々気づいている。


 ――もう一緒に連れていけないと決めていたようだから。

 私が足手まといだったのは、なんとなくわかっていた。依頼人の家に、連れて行ってもらうことはほぼなかったし、兄が仕事の話をすることもない。私は借りているアパートやホテルで留守番をすることがほとんどだったが、それでもたまにやってくる笹本さんからはちょっと困った顔をされた。きっと、聞かれてはまずい話もあったはずだ。

 兄の足は引っ張りたくない。

 だから、どう切り出そうか悩んでいた兄より先に、私から言ったのだ。

 ここに残る、と。

 本当は一緒にいたかったけど、もう少し私が頼られる存在になってからにしようと決めたのだ。それは、そう遠くない未来だと、当時は信じて疑わなかったから。


「……ちい兄」


 嗚咽混じりの言葉がもれる。不安や恐怖からくる幻聴だとしても伝えたかった。


「――早く、帰ってきて」


 かみ殺したはずの嗚咽をこぼしながら、私は絞るように言った。


 ――ごめんな、結生。


 兄の声。顔は上げられなかった。


 ――本当にごめん。


 謝って欲しいわけじゃない。ただ会いたいだけ。会ってたわいない話をして、笑いあいたいだけ。ただそれだけでなのだ。


 ――まさか、俺の声が聞こえるとは思ってもいなかった。


 あいつがそばにいるからだろうな、と独り言のように落ちた声を私は聞き逃さなかった。


 ――あの馬鹿、厄介な奴らと縁を結びやがって。おかげで近づくことすらできない。


 笹本と兄の三人でいたときのように、悪態をつく。それが無性に懐かしくて、また違った感情がわき上がる。


「あいつって誰?」


 返事はない。答えたくないことは黙っている、それが私の知る兄だ。


「……いつ帰ってくるの」


 幻聴だとしても、勇気をかき集めてようやく出せた一言だった。心臓がうるさい。胃が縮み、のどを絞められるような圧迫感が襲う。ぎゅっと目を閉じたときだ。


 ――まだしばらくは帰れないな。


 ぽろり、と涙がしずくとなって落ちた。帰れないと言わなかった。それだけでまだどこかにいるのだと信じることができた。

 これが幻聴でもいい。もう少しだけ、帰りを待つことができそうだ。


 ――結生、家解氏を辞めないか。

「私には無理ってこと?」


 返事はない。私は顔を上げた。人影はもちろん、遠くの景色すらわからない。闇一色の世界。


「兄さん?」


 返事はない。ざわりと不安が襲ってくる。


「兄さん!」


 声は洞窟の中を響かせた。反響する声に兄の声は混ざらない。やっぱり、都合のいい夢を見ていたのだ。目頭を拭う。


「――このまま、ひとりぼっちで死ぬのかな」


 そう心の声がこぼれたときだ。


「大丈夫。諦めるな」


 耳元で声がした。吐息すら感じた。しかし、誰もいない。声はだんだん遠ざかる。けれどずっと私を励まし続けた。

 ありがとう、兄さん。

 不思議と不安はなくなり、いつの間にか涙は止まっていた。


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