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5章 兄の行方 7

 僕は息をすることすら忘れ、その言葉を何度も頭の中で繰り返す。


「ど、どういうことですか!」


 うわずった声で問う。思いの外大きな声だった。


「説明は後です。とりあえずそこを動か――」


 笹本の声が突然途切れる。画面を見た僕は、思わず髪をかき乱した。携帯の電池切れだ。


「なんで」


 カーテンを閉める彼女の姿が脳裏をよぎる。窓の前でたたずむ彼女の横顔からは、普段感じることのない哀愁が漂っていた。

 笹本のことだ。彼に落ち度があったとは考えにくい。


 だとすれば――。

 思いたくはないが、彼女が単独で森の中を捜索し出した可能性が一番高い。唯一の肉親なら、自分の身を危険にさらしても見つけたいと思うのは、別におかしなことじゃない。

 日はすでに落ち始めている。木々の影が瞬き一つする度にどんどん濃くなるのは、けっして気のせいではないはずだ。

 めまいがして、その場にしゃがみ込む。何かしなければと思うものの、その何かがわからない。

 無力だ。

 さっそく砂原に協力を願い出たいところだが、携帯は使い物にならない。周囲の別荘は暗く、無人であることが伺える。

 幕が落ちるように暗くなる。ひとり取り残される気分だった。

 しかし、こうしてうずくまっていても何も解決しない。

 なら、考えろ。

 今まで窮地に立たされたことは何度かあった。でも、どうにかなったのは、運が良かっただけにすぎない。暗い森の中を明かりもなしに入るのは無謀だ。なら、誰かに助けを求めればいい。

 はっと顔を上げる。


「千景!」


 僕は誰もいない空間に向かって呼びかけた。


「千景!」


 もう一度口を開く。端から見れば狂ったと思われるだろう。けれど、ここに人目はない。


「結生さんが、妹が危険に巻き込まれているかもしれない。頼むから力を貸してくれ」


 しんっと静まりかえる。千景の姿はもちろん、返事もない。


「……どうして」


 いつもならこっちの事情なんかお構いなしにやってきて、彼女の危機を知らせているのに。

 危険に巻き込まれてない、のか?

 いや、そんなはずはない。千景のことだ。夜の森をさまよい歩くことすら許さないはずだ。

 なら、どうして。


「頼れる相手なんて、千景くらいしか浮かばないのに」


 僕は唇を噛む。思いっきり息を吸って、吐き出すように彼の名を叫ぶ。驚いたカラスが、非難の声を上げながら飛び立っていった。

 周囲を見回すが、千景の姿はない。


「どうして」


 足から力が抜けた。迷子みたいにうずくまる。他に方法は浮かばなかった。


「やっと見つけました」


 視線を上げれば、笹本が息を乱しながら駆け寄ってきた。髪は乱れ、靴は土で汚れている。


「何度も電話したのに、どうして出ないんですか」


 つながったと思えば切れるし、と冷静な笹本にしては感情がこもった言葉をぶつけられる。


「すみません」


 砂原のいるあの場所では圏外になる。のんびり茶をしている間にこんなことになっているとは、まったく考えていなかった。


「ひとまず、車に乗ってくださ――家守さん、どうして泣いているんです?」

「え?」


 手の甲で目元を拭うと、冷たいものがついた。


「野暮な質問かもしれませんが、一応聞いておきます。――あなたたち、恋仲ですか」


 笹本の言葉に、僕は勢いよく首を左右に振った。


「ち、違います!」

「そうですか。まあ、もしそうだとしても私は構いませんが」


 そう言って、笹本は眼鏡の縁を持ち上げる。


「ただ、アレが黙っているとは思えません。まあ、せいぜい消されないよう頑張ってください」

「いえ、だからそういう関係ではないですから」


 笹本の言うとおり、もし結生に恋人でもできれば、千景は黙ってはいないだろう。


「では、どうしてそこまで結生さんに執着するんです?」


 なるほど。笹本にはそう見えるのか。僕は顔を洗うように手で顔をこすった後、すくっと立ち上がった。職務をまっとうしようとする笹本の視線がまっすぐ刺さった。


「僕にとって、彼女は家ですから」


 笹本は目元を歪める。当然の反応だろう。これで理解できたらきっとその人は僕と同じような悩みを抱えている。僕は少し言葉を探して言う。


「笹本さんは、僕の体質をご存じでしょう?」

「ええ、まあ」

「落ち着ける場所がないのは苦痛なんですよ。思っている以上に」


 職場や学校、地域や家に居場所がない。そう嘆く人間はきっと少なくない。けれど、職場に居場所がなくても家にはある。学校になくても地域にある。人間関係に限った話じゃない。どこにも居場所がないと言っても、家はある。

 でも僕には安心できる家がない。


「結生さんは自身の体質を恨んでいるかもしれませんが、僕にとっては拠り所のようなものなんです」


 一緒に住み始めたらもう元の暮らしには戻れない。いや、戻りたくないのだ。

 いつか彼女に否定されるその日までは。


 ――実際、もうカウントダウンは始まっているんだけど。

 道具を辞めていいと言った彼女の声が蘇る。


「そうですか」


 笹本は興味なさそうにそう言った。


「結生さんのことです。単独行動をしたのは軽率だと思いますが、自分の身を危険にさらすほど馬鹿な人じゃない」


 頷いて同意する。


「しかし、日が暮れかけているのに戻ってこないのです。何かしらのトラブルに見舞われていると考えるのが妥当でしょう。……この森は普通の森ではないですから」


 根を下に伸ばすことができない木の根が横に広がり、標高の高い地に立ちこめる霧が苔を繁殖させ大地を覆う。緑豊かな大地に見えるが、実際は岩盤の上の森。それが青木ヶ原樹海だ。目を奪われる景観、多種多様な生物の生息地、そして迷いの森。


「警察を呼びましょう」


 そう言えば、笹本はきょとんとした表情を浮かべる。そして指をさした。自分自身に。


「家守さん、お忘れでしょうが私も警察組織の一員ですよ」


 にこやかに言われ、さっと血の気が落ちる。


「す、すみません」

「いえ、謝ることでもないですよ」


 笹本は停めている車へ視線を向ける。


「とりあえず戻りましょう。たとえ今通報しても本格的に活動できるのは夜明けです」

「僕らはただ待つしかできない、と?」


 そう問いかければ、彼は無言で頷いた。


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