5章 兄の行方 5
びくっと飛び上がった。いつの間にいたのか、テーブルの斜め向かいに砂原が座っていた。サングラスで遮られているというのに、こちらを見据える視線が怖い。
「なんの、ことでしょうか」
尻すぼみになる声でなんとか応える。
非常にまずい状況だ、と僕の中で警鐘が鳴り響いた。逃げ出したくてうずく足を強く摘む。しかし、逃げたところで逃げ場はない。窓から見える巨大な木々が、僕には看守のように見えた。
「まあ、そんな青い顔をしないでください。別にとって食べたりなんてことはしませんよ」
腰を浮かせたままだった僕は、笑みを浮かべる砂原を見つめながらゆっくり座る。手足は冷たく、瞬きもできない。首に鎌を掛けられた気分だった。
場違いな甘い匂いが、鼻をかすめる。
「アナタ、家録が見えますね」
「家録?」
砂原は僕が家録が何か知らないと思ったらしく、説明を始める。それを遠くで聞きながら、僕は先ほどの千景を思い出していた。
あれは、家録だったのか。
そう指摘されれば、そんな気がしてくる。
突然現れるのはいつのものことだが、理由もなく感情をむき出しにする男ではない。となれば、彼はこの家に来たことがあるということだ。ただ、問題はそれだけじゃない。
――今まで結生さんがいないと見えなかったのに。
とんでもないことが起きているような気がするのに、それが何なのかわからない。
「失礼ですが、お名前は?」
「家守――」
と答えてから僕は慌てて口を閉ざす。頭の中で結生が「素性もわからない相手に本名を名乗るとか、うかつすぎる」と目をつり上げる。先ほど見たものが家録ならば、ここは千景が訪れ、そして尋常ではないほど怒った場所。そこにいる彼らに、ほいほいと情報を与えるわけにはいかない。子供でもわかることだ。だが――。
「家守さん、ですか」
僕は頭を抱えて突っ伏したい衝動をなんとか堪えた。
幻覚とわかっているが、結生や笹本の冷ややかな視線が刺さる。
早くここから逃げたい。
情報を得ようと迂闊に飛び込んだ先が、虎、いや竜のすみかだった――そんな気分だ。どうしたら、すぐにここを出ていけるか、必死で考える。
「変ですね。家解氏で家守という者はいないはず。少なくともボクは聞いたことがない」
それはそうだろう、と内心思う。
僕は家解氏じゃなくて、ただ家に好かれるだけだから。
家に好かれるってなんだ、と未だに思う。だが、結生と行動を共にし、数々の不思議な現象を目の当たりにすれば嫌でも自分がそういう類の体質なんだと思わざるを得ない。
「結局、砂原さんもいらっしゃるのね」
すねたようにそう言いながら、香織は慣れた手つきでティーポットとカップ、皿に並べられたクッキーを出した。僕の向かいに座ると、カップに飲み物を注ぐ。透明なティーポットの中で、茶葉がぐるぐると舞い、茶色い液体を濃くしている。差し出されたカップからは、紅茶の香りが立ち上った。
「やはり、君が興味を示すものは面白いものばかりだ」
テーブルに肘をつき頬を乗せた砂原は、茶器を観賞するような態度で僕を眺める。
「彼、家録を見るよ」
「あら、そうなのですか!」
目を丸くさせた香織が僕をまじまじ見つめる。黒い瞳はブラックホールのようで、見つめ返せば囚われてしまいそうだ。
「いえ、僕は家録なんて――」
慌てて否定してみたが、すでに後の祭り。「君は顔に出るタイプだから」と砂原に指摘され、何も言えなくなった。
誰でもいいから、僕をこの場から解放してくれ。
穴があったら入りたい僕を余所に「では、この方からいただくのですか?」と香織が砂原に尋ねる。
「いや、彼の場合は特殊だろう。たまにそういう人間が現れるからこそ、今まで家解氏は残っているんだ」
「では、確実な方法ではないのですね」
優雅な所作でカップに口をつけながら、香織がぽそりと言う。
カップに視線を移す。湯気を上げる茶色い液体には、情けない顔の男が写り込んでいた。
「それで。何が見えたのですか?」
身を乗り出しながら砂原が尋ねる。
サングラス越しの目に鋭さが増したのは、気のせいではないだろう。きっと僕が頑なに何も見ていないと言っても信じないだろうという確信があった。
人の話は聞いてほしいよ。
家録を知り、家解氏について詳しく、千景もこの場に訪れていたことからも、砂原と香織は家解氏またはそれを知る人間なのは間違いない。
「もしかして、長い話になるから遠慮されているとか? それなら大丈夫です。夕食をごちそうしますし、部屋も用意します。家守さんの気が晴れるまでここにいて結構ですから」
――これはもしや「お前が話さない限り逃がさないぞ」って脅迫しているのでは。いや、そんなまさか。
「いえ、一緒に来ている方に心配をかけるわけにはいかないので。お気持ちだけありがたく受け取ります」
僕は笑みを張り付けたままそう言うと、彼らに気づかれないよう、そっとポケットからスマホを取り出した。いつ壊れてもおかしくないご老体ではあるものの、昨夜フル充電をしたばかりだ。通話なら多少は保つはずである。この異様な状況を伝えれば、きっと助けに来るはず。そう思ってスマホ画面を見た僕は、目を見開いた。
え、圏外?
嘘だろと喉まで出掛かった言葉を苦い気持ちと一緒に飲み込む。
「あ、すみません。ここ別荘地帯から離れた場所にありまして。それにこの辺、そこそこ磁場が強いみたいなんですよね。科学的根拠とか、公的機関の記録とかそういうのはないんですけど」
砂原の声は、子供のいたずらを笑って受け入れる大人のそれだった。
逃げ場はない。
さっと顔から血の気が引いていく。それを見て「この部屋、寒いですか」と香織が気を利かせてくる。本心なのか、それともバカにしているのか。僕では見抜けない。
「紅茶、入れ直しましょうか?」
「いえ、大丈夫です」
僕は絞り出すように答えた。今にも泣き出しそうな子供の声と変わりない。
どうしたら、いいんだ。
真っ白な思考の中、必死で逃げ道を探すものの、考えれば考えるほどそんな方法はない現実を突きつけられる。
僕が話すまで彼らは絶対に帰さないだろう。
まさかこんなことになるなんて。
きっと砂原がいなければ、当初の予定通り千景のことをそれとなく尋ねるだけでよかったのだろう。自分の運のなさを恨むしかない。
「ちなみに、ひとりで外出するのもおすすめしませんね。玄関から続く一本道は、人通りのある場所まで通じていますが、当時の土木技術じゃあどうにもならなかった箇所も多いのでかなり迂回しています。それこそ蛇の蛇行のように。かといって、森に入れば最後、生きて戻れない可能性が高いです。なぜだかわかります?」
僕は首を横に振る。砂原は満足そうに笑みを深めた。
「昔、このあたりは小規模な湖があったようなんです。記録にもないですが、伝承や地名として残っていましてね。湖に蓋をするように溶岩が固まるとどうなるか。家守さん、わかります?」
砂原が楽しそうに問いかける。砂原の薄い唇が、小馬鹿にするように弧を描く。
僕が一体何をしたって言うんだよ。
とはいえ、その質問には答えられる。
「空洞でしょうね。このあたりには風穴、氷穴という観光名所もありますので」
以前、仕事でこのあたりの観光名所についてまとめたネット記事を書いたことがある。溶岩は洞窟のような空洞だけでなく、滝さえ作ってしまう。自然のコンクリートのようだと思ったことをよく覚えている。
「ご名答。実はこの周辺もあるんですよ、空洞。というより洞窟ですか」
それも落とし穴のようになっているものが、と砂原は加える。溶岩の上にできた森は、普通の森とは違う。それは、さっきここに来るまでの短い間に痛感した。
「彼女は少々特殊な子でして。どこにそれがあるか直感でわかるんです。ボクが同じことをやれと言われたら――」
そう言って砂原は首を横に振る。結ばれた後ろ毛が、ちらちら揺れた。
僕は唾を飲み込む。
世間話のように軽い調子で話しているが、完全に僕に脅迫をかけている。逃げ場はない、さっさと話せと。少なくとも僕にはそう聞こえる。
――だったら。
静かに顔を上げると砂原を見据えた。そして、一度息を吐くと口を開く。
「ここに狩屋千景という男が来ていましたね。どういうご関係なんですか?」