5章 兄の行方 4
標高が高い場所にあるこの別荘地は、天候によっては四月半ば頃まで雪が降る。冬の寒さが厳しいこともあり、冬季はほぼ無人なことが多いそうだ。ちょうど今頃やって来る者も多いと昨夜笹本から説明された。
「自然が豊かですし、なにより日本一の山が間近で見えます。フリーランスやリモートワーカーの方以外にも療養目的でここの別荘を購入する方もいるようです」
たしかに空気は澄んでいるし、鳥のさえずりはよく聞こえ、花や虫などの生命をすぐ近くで感じる。癒しを求める場所としては適切だろう。
まあ、僕には無縁の話ですけど。
とはいえ。
「なんで僕が聞き込み役なんだろう」
絶対に役割ミスではないか。きれいに舗装された道を歩きながら僕は静かにうなだれる。
まあ、仕方ない。
結生は千景が森の中にいると考えているようだし、彼女ひとりを樹海に向かわせるわけにもいかない。仕事柄、聞き込みだったら笹本の方が適任だろうが、僕に結生を任せ樹海を歩かせるのは危険と判断したらしい。
まあ、土地勘のない人間が歩くのは危険だって前にネット記事で見たことがあるし。
もっともそんな危険な場所は、樹海の奥地のことだろうが、僕よりも千景の身を案じている二人だ。手がかりがありそうな方を探したいに決まっている。
「でもなあ」
気が進まない。一体どう聞き込みをすればいいのか、さっぱりわからない。
インターホンを押す、住人が出る、警戒されないように明るく挨拶をする、それで? そのあとは?
三年前このあたりで行方不明になった人を探していますが、なにか心当たりはありませんか、と尋ねるのか? 写真もないのに?
無理でしょう――。
絶対怪しい人物だと思われる。ましてや僕にとって兄弟でも友人でもない。警察ならまだしもただの一般人だ。宗教勧誘の訪問みたいに適当にあしらわれて終わるのが目に見える。
――想像しただけで胃がきりきりしてきた。
でも、力になりたい。
僕は両頬を叩く。誰も見ていないのだ、このくらい気合いを込めても問題はない。よし、と両手で拳を作ったときだ。
「ずいぶん威勢がいいのですね」
びくっと小さく飛び上がった僕は、くすくすと笑う女性の姿を捉えた。香織だ。今日は丈の長い黒いワンピースを着ている。昨日と違って妖艶な雰囲気だ。
「こんなところでどうされたのですか?」
「えっと――その」
とっさに言葉が出てこない。だが、彼女にとってはどうもいいことらしく、答えを待たず距離を縮めると僕の袖をそっと摘んだ。
「よろしければ、うちに来ませんか?」
「え」
猫を思わせる大きな瞳が、困惑した僕の顔を映し出す。
「心配いりません。今、家には誰もいませんから」
いやいや、心配するところそこじゃないから。
僕の思考は停止しかけている。どうにかしてこの場から逃げたくて仕方がない。
名前しか知らない相手から、急にそんなこと言われても困るし怪しすぎる! 怖い!
僕の肩くらいしかない小柄な香織は、小動物のように僕を見つめ返す。
「すみません、僕ちょっと忙しくて――」
「こんなところにいて忙しいなんてあるのですか? 大丈夫です。ちょっとお話ししてみたいだけですので」
「いや、でも」
僕には、簡単に頷けない理由がある。
ポルターガイストを起こしたら、彼女の居場所はなくなってしまうのではないか。姉の顔が脳裏をよぎる。家は安心できる場所でなければならない。
短期間遊びに来ているだけだとしても、嫌な記憶を与えたくないんだよな。
「じゃあ私があなたの家に行きます」
「いやいやいや」
さすがにそれはダメだ。あの家は僕の家ではない。
何よりもし二人にそのことが知られたら――僕はうまく説明できる自信はないし、結生からは今までにないほどの軽蔑した視線を向けられるだろう。僕は思わず腹を押さえた。
「――また今度じゃダメですか」
その場から逃げたくてそう言ってみたが、このままでは何の成果もあげられない。それはそれで結生から冷たい視線を向けられるだろう。もしかしたら、「ちゃんとやって」と怒るかもしれない。きっと僕は言い返すこともできず貝のように口を閉ざし、見かねた笹本が「彼にとって千景は赤の他人。そこまで肩入れする方がおかしいのです」と慰めるのではないか。
感情を飲み込むように、のどに力を込める。
「……やっぱり行きます」
絞り出すような声だったが、香織にはきちんと届いていた。ふふっと可憐な笑い声が沸いてくる。
「おもしろい人ですね。賽子を転がすようにころころ言葉が変わるなんて」
もう少ししたら、やっぱり行かないと言い出すのではないでしょうかと頬に手を当て言うものだから、僕はもう一度噛みつくように言った。千景はともかく、結生に失望されると思うと、胸の奥が鋭い針で刺されたように痛い。
「なら参りましょうか。あなたの気が変わらないうちに」
舞台役者のようにスカートの裾を翻しながら、香織は意地悪げにそう言った。
「こちらの方が近道なんです」
そう言われるがまま、樹海の中を歩くはめになった。先頭を行く香織の足取りは軽い。森の中を泳ぐ魚のように長いスカートを翻す。その度にウェーブのかかった栗毛の髪がふわりと浮かんだ。僕は何度も足を取られながら、そのあとを必死で追いかけた。
溶岩の上に育つ命は、強い。
土の上というより、岩の上と言った方がしっくりする場所もある。それでも生きようとした木は、縦ではなく横に幹をのばしたり、根を宙にさまよわせたりしている。傾斜を登ったかと思えば下り、視界を遮るほど大きな岩に気を取られ転びそうになり、倒木の上を這う木の根を乗り越えて進んでいるうちに、ふとあたりを見回して僕は青ざめた。
――どこから来たのか、さっぱりわからない。
ぐるっと見回す。けれど、目に映るのは木だけ。どの方向に行けばいいのか検討もつかない。鳥の声が僕の背後から聞こえた。
このままではまずい。そう思ったときだ。
「どうかしましたか?」
黒いワンピースの裾を揺らしながら、香織は僕の方へやってくる。
「あ、いや」
「そんな青い顔をしなくても大丈夫です。言いたいことはわかりますから」
そう言ってにこっと微笑む。
「あともう少しで着きます。この道はあくまで近道と言いましたでしょう?」
「そう、ですね」
僕が絞り出すように返事をすると、満足したのか香織は再び前を歩き始めた。その足取りに迷いはない。
目印か何かがあるのだろうか。
それとも香織は、実体を持たない幽霊か何かで僕を迷いの森に閉じこめようとしているのではないか。
――なに非現実なことを考えているんだ、僕は。
ひらひらと遊ぶように揺れるワンピースが視界に入る。昨日の結生もワンピースを着ていたな、と僕は同じ森に入っているだろう彼女に思いを馳せた。
彼女はこの森に入り、一体なにを思っているのだろうか、と。
どこまでも続く森の奥をじっと見つめる。
だが、すぐに視線を外すと、さっきよりも小さくなった香織の後ろ姿を追いかけた。
たどり着いた先にあったのは、童話に出てきそうな木製のロッジハウスだった。緑色の三角の屋根が森になじんでいる。他に家はなく、森の中に突然現れた山小屋のようだと思った。鬱蒼とした森の中のせいか、日は射さず薄暗い。そんな中、デッキに立つ人影が見えた。僕や千景と同い年くらいの細身の男だ。
「あら砂原さん。もう帰っていらしたの?」
香織が駆け寄る姿を僕は呆然と眺めていた。
誰もいないって言っていたのに。
額の汗を拭えば、前髪が肌にくっついた。正直、のどはカラカラだ。せめて水だけでももらわないと。
「おや、客人かい?」
デッキに寄りかかっていた男が、ゆっくりと姿勢を正す。肩まであるだろう黒髪を後ろでひとつにまとめ、グレーのサングラスをした男は、口から紫煙を吐きながら僕を見た。
「すみません。香織が変な道を使って連れてきたようで」
「砂原さんったらそんな言い方しなくてもよいではないですか」
香織が頬を膨らませて抗議する。二人の容姿は似ていない。見た目からして親子でもなければ、兄妹でもないだろう。
「私、この方と今からお茶をするのです。邪魔しないでくださいね」
「へえ、君がお茶に誘うのか」
どこか物珍しげな声で砂原が言う。
「それ、ボクも混ぜてほしいな」
「ダメです」
香織は首を横に振りながら拒絶した。
「さあ、遠慮せずにあがってくださいな」
舞台上の踊り子のように可憐な、しかし素早い動きで僕の前まで来ると、手首を掴んだ。拒絶する間もなく引かれる。忙しない女性だ。
「お、お邪魔します」
デッキに立つ砂原に会釈をしながら、僕は引きずり込まれるように中に入った。途端、強い木の香りを浴びる。香水などの人工的な香りではない。
――どこもかしこも木造だ。
天井を見上げれば木の梁が見え、床はもちろん、壁も一面木板である。丸太を切ったようなテーブルに切り株のような椅子、デッキに続く大きな窓の前には、足を伸ばせるほどのウッドチェアがある。
「どうぞ、座ってくださいな」
香織が促したのは、背もたれのある椅子だ。足が棒のように疲れていたので言われるがまま座れば、目の前にあるテーブルの木目が飛び込んできた。側面は樹皮を削っただけのようで、凹凸がある。重そうなテーブルだが、木そのものを感じられるデザインだ。
「今、飲み物を用意するので少々お待ちくださいね」
そう言ってくるっと背を向けた香織は、キッチンに向かう。キッチンには麻紐のようなものが壁から壁にかかっており、名もわからない草や花、実の付いた枝などが吊り下げられている。
僕は背もたれに寄りかかった。気を張りすぎたのか、それとも足場の悪い道を歩いたせいか、正直くたくただ。できることなら、寝そべりたい。
結生さん、今日はかなり疲れているだろうな。
同じように樹海を探索する二人に思いを馳せる。
ねぎらってやりたいが、結生はきっと望まないだろう。彼女が今一番欲しているのは情報だ。結生と笹本が森を捜索している以上、情報収集は僕にかかっている。
結生さんも笹本さんもあまり期待していないだろうけど――僕だって役には立ちたいから。
どうせなら千景が出てきてくれるのが一番いい。口を割ってくれなくても、本人なのだ。態度や仕草からヒントを得られるかもしれない。
でも――。
最近、全然現れないんだよなあ。
誰も見ていないことをいいことに、ずるずると溶けるように姿勢を崩したときだ。
「なんのつもりだ」
突然耳元で聞こえた男の声に僕は飛び跳ねた。その拍子にテーブルに膝をぶつける。声を押し殺し、辺りを見回したとき、僕は背後に立つ千景を見た。深緑の湖を思わせる瞳には激しい怒りが宿っている。すっと血の気が引いた。
「千景、なんで怒って――」
「二度と俺の前に姿を見せるな」
怒りを通り越し、殺気のこもった声が耳を刺す。僕は硬直したまま、彼が部屋を出ていくを見つめた。
「ちょ、待っ――」
立ち上がろうとして、足がもつれた。椅子が重くすぐに立ち上がれない。
どうしてこんなところに千景が?
わけがわからない。しかし、考えるより先に足が彼を追いかけようとする。
そのときだ。
「見えてますね、アナタ」