5章 兄の行方 3
青木ヶ原樹海にあるこの別荘地は、県が率先して行った新観光事業の一環として十年前に完成した比較的新しい場所だ。大小さまざまな溶岩の上に樹木が生い茂る樹海は、土地を整備することに時間がかかる。また、珍しい生態系であるこの森を破壊することがないよう、樹海といっても奥まった場所ではなく、比較的市街地に近い。それでも地図アプリで見れば、樹海の中にあるように見えた。
「少し歩けば樹海に入ることができ、車で十分くらいで市街地に戻れる。その非日常間が人気の別荘地なんです」
ハンドルを握りながら、笹本が説明する。たしかに、道はきれいで目に入る建物も黒を基調としたモダンなものから、ロッジ風なもの、絵本の中に描かれていそうなかわいらしい洋館まで様々だがどれも新しい。
「樹海といっても広いですからね。昔から迷いの森というのもあながち嘘ではなく、同じような景色が続き、溶岩で起伏が激しいことから方向感覚を失いやすいんです。とはいえ、本来樹海に入るには許可証が必要ですので、保有敷地内だとわかるようある程度行った先に看板が立てられているようですよ。オーナーに確認したところ、ここの分譲地区を購入する際には必ずそのことを説明し、同意を得ているようです。それ以上先に行かないように、と」
「つまり、何があっても責任はとりませんっていう意味ね」
後方から結生が口を挟む。「そうですね」と笹本は同意した。
「まあ、溶岩の跡地とはいえ、今は自然豊かな森ですから。熊も生息しているので、そのあたりも兼ねているのでしょう」
熊――。
さっと指先が冷える。もちろん対策はしてあるのだろうが、僕の脳裏には市街地に現れる熊の姿しか浮かばない。
「笹本さん、兄は依頼を受けてここに来た――そこは間違いないんでしょ」
「ええ。うなり声が聞こえるという住人からの依頼を受けたようです」
そんなオカルトじみた依頼も家解氏が受けるのか。
ひやりと胃が冷えたところで、ため息が飛び込んできた。結生だ。
「相変わらず雑食というか、仕事熱心というか。兄じゃなきゃそんな依頼受けないでしょ」
「彼の場合、仕事というより趣味でしたから。まあ、今回は霊媒師とか払い屋とかに頼む案件だと私も思いますけど」
千景がこの場にいたら一体どんな顔をするだろう。
想像してみてすぐに辞めた。怒っている顔しか浮かばない。
二人して軽口を叩き合っているが、笹本も結生も本心はかなり心配しているはずだ。
千景や結生の話しぶりからしても、笹本は多忙な身だろうし、結生だって僕に道具を辞めていいと言うほどだ。千景の身を案じていないはずがない。
僕が「彼とたまに会っています」と言ったら、二人はどんな顔をするだろう。
千景の姿が見えることは誰にも言っていない。本人にも脅されているし、必要に迫られるまで口を閉ざしているつもりだ。ただ、ふとした瞬間、誰かを探すように視線をさまよわせる結生の姿に、少しだけ決意が揺らぐ。だが、何となく感じるのだ。彼らにそのことを言ったら最後、千景は二度と姿を現さなくなる、と。
それにいつ現れるか僕にもわからないし。
僕が会っている千景は、幽霊みたいなものだ。今どこにいるんだと尋ねたところで教えてくれる人でもないし、もしかしたらもうこの世にいない可能性だってある。結生や笹本が相手なら、千景も口を開くかもしれないが、それもできない。
だったら、藁でも蜘蛛の糸でもいい。いつか彼にたどり着く可能性は掴んでおきたい。
自分だけでは手に入れられない、普通の居場所を提供してもらっているのだ。協力できることはしたい。
車を降りた僕の目に飛び込んできたのは、広いウッドデッキがある、ダークブルーの壁をした平屋の建物だった。
「持ち主から許可は取っています。特に使う予定もないので好きなだけ利用していいそうです」
「笹本さん、そんなに休み取れるの?」
荷台からキャリーケースを取り出した笹本は「問題ないです」と短く答える。
「ここを拠点に仕事すればいいだけの話なので」
――え、ここに泊まり込むの?
嫌な予感がして結生の方を見る。彼女はスマホを操作したかと思うと、それを耳元に当てた。
「すみません、今日宿泊の予約をしていた狩屋ですが、キャンセルでお願いします」
「え」
呆然と立ち尽くす僕の背後で、鍵が開く音が響く。
「ちゃっかりしてますね。私がいなかったらどうしていたつもりですか」
「そのときはそのとき。近くのホテルを予約していたけど、移動時間がもったいないし、使えるものは使うべきでしょ」
荷物を持った結生がそう口にすれば、小さなため息が落ちた。
「それも千景の教えですか」
「そう」
――なんとなく、僕が道具扱いされる原点が見えた気がする。
開け放たれた扉に入っていく二人の姿を見つめながら、僕は静かに肩を落とした。
何泊かするだろうと思っていたが、まさかほぼ住むような流れになるとは。
足を一歩踏み出せば、砂利道が音を立てる。笹本も僕の体質を知る人なので問題はないが。
ほぼ初めまして、みたいな人だからなあ。
わかっていたら少しは心の準備ができたのにと思ってしまうが、最初から決まっていたわけではない。体が重く感じるのは気のせいではないだろう。リュックサックの肩紐をかけなおしたときだ。
「こんにちは」
びくっと肩を震わせながら顔を上げると、奥まで木々が広がる場所に立つ女性と目があった。結生と同い年くらいだろうか。白いワンピースにつばの広い白い帽子をかぶった若い女性がほほえみを浮かべこちらを見ている。
「こ、こんにちは」
挨拶を返しながら、僕は不思議に思う。
だ、誰?
敷地内ではないが、周囲の森は樹海。そこから現れたように立つ女性は、薄暗い森の中で一人だけ浮いて見える。モノクロ写真に写り込んだカラーのようなちぐはぐ感。
幽霊――じゃないだろうけど。
「あなた、お名前は?」
「え?」
いきなり名前を尋ねられ、思わず呆けた声を出してしまえば「ごめんなさい」と謝られた。
「名乗りもせず、お名前を聞くなんて失礼でしたよね。わたくし、香織と申します」
途端、風が吹き抜けた。足首まであるスカートが大きく翻る。香織は片手で帽子を押さえる。木の葉のこすれる音が、雨のように降ってくる。標高が高いせいか、五月の風でも鳥肌が立つほど冷たい。思わず両腕をかき抱いたときだ。
「おじさん、何してるの」
扉が開き、結生が顔を出してきた。
「挨拶されたので」
そう答えれば、彼女は周囲を見回す。
「誰もいないじゃん」
「え」
そんなはずは――。
しかし、さっきまで香織が立っていた場所には誰もおらず、どこまでも続く木々が鬱蒼と連なっていた。
開いた口がふさがらない。
「寝ぼけたこと言っていないで、さっさと入って。笹本さんが家録を見たいって」
「あの、結生さん」
僕は恥を忍んで尋ねる。
「この森に狐は出るんでしょうか」
「いきなり何言ってんの?」
ゴミを見るような冷たい視線に、ぐさっと何かが思いっきり刺さる。
あれは幻や白昼夢ではない。だったら、狐や狸に化かされたのでは――そう思っての質問だったのだがどうやら僕も冷静さを欠いていたようだ。
「ふざけたこと言っていないで、さっさと来て」
つり上がった彼女の目が怖い。これ以上機嫌を損ねてはならないと僕の中で警報が鳴る。香織と名乗った女性は何者なのか。気にはなりつつも森に背を向け、駆け足で結生の元へ向かった。
「千景が最後に訪れた場所は、ここで間違いなさそうですね」
思いの外すんなりと家録を見た僕らは、それを笹本に伝えた。笹本はずっとこの別荘の中で過ごしていたが、僕らが見た家録は一切見ることはなかったようだ。
「依頼を途中で放り投げるなんてこと、あれはしませんから」
千景を「あれ」呼び――。
恐れ多くて僕にはできない、そんなことを思っていると「でも」と結生が声をあげた。
「特にこれといった手がかりもなかった」
ソファーに座る彼女は、迷子のような表情を浮かべ膝を抱えていた。家録の中では、どこに行くとも告げてはいない。依頼人から詳細を聞いた後、周囲を調べに外に出たきり、戻らなかったのだ。
「いいえ、そうとも言えないですよ」
笹本は眼鏡のフレームを持ち上げながら言う。
「彼はこの場――別荘地で行方をくらませた。それだけでも大きな手がかりです」
「……前向きだね」
いつになく弱気な結生の声が気になった。その声は、不協和音のように僕を不安にさせる。
結生は一度唇を引き結ぶと、自身の両膝に顔を埋めた。つかの間の沈黙。しかしすぐに破られる。
「ちい兄は、兄は……死にたかったのかな」
一瞬、息を吸うことを忘れた。
青木ヶ腹樹海といえば、自殺の名所として名高い。しかし、ここは別荘地。そういう目的で訪れる場所ではない。
否定しなければと思うものの、すぐに口に出せなかった。人の心の中はわからない。ただ、ふらりと現れネチネチと絡んでくる千景からそういう印象を受けたことは一度もなかった。
「結生さんはそう思うのですか」
笹本の静かな声が落ちる。必死に言葉を選んでいた僕は、いつも大事な局面で遅れをとる。
――こういうところが、嫌われる原因なんだろうけど。
笹本に問われ、結生は両膝を抱える腕に力を込めた。
「――思わない。思いたくもない」
「ならば、それがすべてですよ」
笹本がそう言えば、結生が睨む。
「子供だましの慰めなんかいらない」
「慰めなんかじゃありません。あれがあなたの望まないことをするはずがないんですから」
シスコンですから、とぼそっと付け加えられた言葉を僕の耳は拾う。やっぱり、と妙に納得してしまった。
千景と付き合いが長いだろう笹本が言うのだ。間違いではない。しかし、それならなぜ家解氏を辞めるよう言い出したのか。疑問が深まる。
まあ、危険な役目だし途中で辞めることも難しいのだろうけど。
これまでに少なくとも二度、結生は危険な目に遭っている。一度目は家解氏とは関係ないが、二度目はその力が招いたと言っていい。
それに国が家解氏の力を必要とする以上、己の意思とは関係なくその力を強要されることもあるはずだ。
顔には出さないけど、かなり妹を大事にしているからなあ、千景。
オムライス作りのときを思い出していると、ぐうっと腹の虫が鳴った。かっと顔が熱くなる。
「す、すみません――」
穴があったら入りたい。
消えそうな声で謝れば「ふふ」と空気を揺らす笑い声が聞こえた。
「おじさん、空気読んでよ」
そう言うものの、結生の声音は優しい。
「もう昼時を過ぎていますからね。ひとまず買い出しと昼食にしましょう」
寝室に使えそうな小部屋がふたつ、大部屋がひとつ二階にあったため、鍵がかけられる小部屋を結生と笹本、大部屋を僕が利用することになった。
ベッドが二つ並ぶ部屋にひとりで過ごすのは少し寂しい。僕自身、小部屋でよかったのだが「仕事をする関係上、鍵がかかった部屋の方が何かと便利なので」と笹本に言われてしまえば、喜んで大部屋を使わなければならない。
――怪奇現象が起きたとき、広い部屋だとちょっと怖いんですよね、なんて口が裂けても言えない。
結生がいるので頻繁には起きないだろうが、それでも絶対ではない。
電気や水、ガスなどのライフラインの確認や家電や風呂場などの設備に破損がないかチェックしたあと、近くの飲食店で遅めの昼食をとり、スーパーで買い出しをする。
戻ってきたときには、日は沈みかけていた。
「まわりが背の高い木ばかりだから、景色がいいとは言えないね」
リビングにある大きな窓の前に立った結生は、カーテンを片手にぽつりと呟く。
結生のリクエストで夕飯はオムライスである。もちろん、作るのは僕だ。笹本は片づけたい仕事があると言って部屋にこもってしまった。リビングにある大きなテレビは真っ黒いまま。玉ねぎを切る音だけが天井の高い部屋の中に響く。
カウンターキッチンのため、台所に立っていてもリビングの様子がよく見える。日が落ちるのは早い。色の乗った筆を滑らせたように、朱色の光は絞られ、部屋の四隅の影は濃さを増す。結生はまだカーテンを閉めるつもりがないのか、さっきからじっと窓の外を見ている。暗くなった手元では包丁を扱えない。電気のスイッチを探そうと視線をあげたとき、僕はほんのつかの間、窓際に視線をからめ取られた。
色彩を抜いていくように訪れる闇。特に窓の向こうに広がる樹海は、昼間の瑞々しい緑の姿は欠片もなく、黒い巨人の影が並んでいるように見える。それをじっと見ている結生。ただそれだけのはずなのに、なぜか彼女が今にも闇に飲み込まれそうに見えた。
昼間であった香織のせいだろうか。少しでも動いた瞬間、実体を持たない煙のように霧散してしまう――なんとなくそう思った。声をかけても間に合わず、細い手首を掴もうにも距離がありすぎる。そんな焦りが胸に迫る。
どうすれば。
額に汗がにじんだとき。
「なんで電気をつけないんですか」
突然、まぶしいくらいの光が降り注いだ。スポットライトを浴びたように、見るものすべてがはっきりと輪郭を持つ。
「明日の段取りをしようと思ったのですが、後の方がいいですか?」
笹本が眼鏡をかけ直しながら尋ねる。僕の心臓は、全力で走ったあとのように飛び跳ねている。
「今でいい」
幕を引くようにカーテンを閉めた結生がそう返した。