5章 兄の行方 2
電車を乗り継ぎ、たどり着いたのは山梨県。駅から出た瞬間、眼前に広がる巨大な富士山を見て、僕は思わず声が出た。
「……近くで見るとまた別物ね」
つばが広い白い帽子をかぶった結生が、ぽつりと呟く。淡い水色のワンピースを着た彼女は、一見どこかの令嬢のようだ。
よく晴れた空にたたずむ富士の姿は、いつも頭の先しか見えない山とは思えないほど雄大で畏れを抱かせる。まだ頭に雪が乗っているが、これも夏にはなくなる。季節を通し、さまざまな表情を見せる山はそうそうない。
観光名所だからか、駅構内はもちろん、バスの車体や幟、タクシーでさえ富士山が描かれている。当然、五月という過ごしやすい時期もあり、観光客も多い。
「このあとは、バスに乗るんでしたっけ?」
「そう。たしか――あれ」
結生の指さす方を見て僕は目を丸くする。バスローターリーは見渡す限りの人、人、人。人が入れそうなほど大きなキャリーケースを連れて歩く外国人観光客の姿も少なくない。
「――乗れるんですかね、僕ら」
列の最後尾に並び、様々な言語が飛び交うのを聞きつつ、僕は思わず呟いた。
「鮨詰め状態は嫌」
結生はそう言って、スマホで何か検索を始めた。
「ここからそう遠くないようだし、タクシーで行こう」
しかし、タイミング悪くタクシーも出払っている。少し待てば来るだろうという話になり、近くのコンビニで飲み物を調達しようと向かっていたときだ。
ピ、と短いクラクションが響く。車道を歩いている人でもいたのだろうか。振り向きもしないで歩いていると、再び鳴る。
もしかして、僕?
恐る恐る車の方を見れば、黒いセダンのハンドルを握る運転手と目があった。しかもその顔には見覚えがある。
え、幻?
「笹本さんじゃん」
目をこすっている間に、結生は風のように横を過ぎていく。コンビニに入ってきたセダンの窓が開いた。
「なんでいるの? まさか仕事?」
「いやいや、刑事でも休みはありますって」
「じゃあ、なんでここにいるの?」
「逆に聞きますけど、あなたに情報を与えたのは誰です?」
結生が唇を引き結んだので、おそらく今回ここに来た目的を笹本は知っているのだろう。
依頼ではない。けれど付いてきてほしい。
――たしか、笹本さんの電話を受けた後だったな。結生さんがそう言いだしたのは。
「どうせ目的地は一緒でしょう? 乗って行きますか?」
「じゃあ」
そう言って結生は、後部座席に座る。
「家守さんも」
さあ、と促すような爽やかな笑みを浮かべる笹本は、結生が時々僕に向かって言う「おじさん、もう少しちゃんとした大人になったら?」の「ちゃんとした大人」なのだろう。
僕は運転免許を持っていない。別に生活に支障はないし、彼女の言う「ちゃんとした大人」の中に持っていない人もいるはずだ。
でも、なんか――。
僕は助手席のドアを開けると乗り込んだ。革張りのような椅子が僕の背中を包み込む。荷物を抱え込むように持っていたら「家守さん、シートベルトしてもらってもいいですか?」と指摘され、慌てて窓際に取り付けられているそれを引っ張った。
顔が熱い。
恥ずかしいんだか、悔しいんだかわからない。僕はなけなしのプライドからか、ひたすら自身の足下を睨みつけていた。
◇
「到着しましたよ」
車のエンジン音が止んだのと同時に僕は顔を上げる。新緑あふれる森の中に、ぽつりと家が建っている。一瞬、住み慣れた家に戻ったのかと思った。
――僕の家じゃないけど。
目の前の家は狩屋邸に比べると新しく見える。黒いシックな外壁ではあるが、広いウッドデッキがあり、家のそばには薪置き場がある。視線をあげると屋根に煙突があり静かに目を見張った。
ばんっと車の扉が閉まる。後部座席に座っていた結生は、さっさと車を降りたらしい。
ここが目的地で違いない。ドアノブに手をかけたときだ。
「家守さん、もしかして車苦手でしたか?」
唐突に声をかけられ、思わず小さく飛び上がる。
「え、あ、その――」
「あ、遠慮しなくていいですよ。同い年ですから」
なぜ同い年と言い切れるのか、と疑問に思っていると「この仕事をしていると、身辺調査は日常茶飯事ですから」とさらりと怖いことを言い出す。
調べたってこと――? 僕を?
なぜ、と思っていると笹本は笑みを浮かべる。
「家解氏という特殊な人々を守ることも、僕らの勤めですので」
背筋がぞっとした。
「安心してください。家守さんは無害と認められましたから」
引き続き、結生さんの力になってあげてください――そう言われ僕はどう返していいかわからず、固まったままだった。
千景が結生に家解氏をさせたくなかった気持ちが、少しだけわかった気がした。
車を降りると、全身を爽やかな風がなでていく。木の葉がこすれ合う音が雨のように降り、地面に差す木漏れ日が、新緑に染まって見えた。
同じく車を降りた笹本は、都会とは違う空気の流れに感動する様子もなく、ダークグレーのチノパンを履いた足で、まっすぐ目の前の家の玄関を目指した。節くれ立った長い指が、躊躇なくインターホンを鳴らす。
「結生さん」
小鳥のさえずりより小さな声で呼びかければ、彼女はぱっと振り向いた。
「あの、ここはどこなんですか」
笹本は結生がここに来た理由を知っている。ならば、僕もそろそろ教えてもらってもいいはず。
「見ての通り、別荘地。笹本さんは、管理人から鍵を借りに行っているの」
だから目的地はここではないという。
「――別荘」
見渡す限り、森しか見えない。だが、ここが別荘地なら少し歩いた先にも同じような家が建っているのだろう。
「どうして別荘地に?」
狩屋という一族なら、別荘のひとつやふたつ持っていそうではあるが、まさか遊びに来たわけではあるまい。
そもそも遊びに行くだけなら、僕にあんなことは言わないよな。
最後――その言葉が、胸の奥に小骨のように刺さってとれない。
結生はちらっと僕を見て少し黙ったあと、大きなため息を吐いた。
「私には兄がいるの」
その一言で千景のことだとすぐに思い至る。そういえば、彼女の口から千景のことは語られたことがなかった。
「もう三年も行方知らずの兄だけど、いなくなる直前ここで依頼を受けていたらしいの」
「つまり、千――お兄さんの行方の手がかりがないか探すってことですか?」
口を開くのも億劫そうな結生は、僕の言葉にうなずいた。なるほど。たしかに依頼ではない。けど、責任は重大だ。
「でも、今になって足取りが掴めるなんて――その、遅くないですか?」
「しょうがないの。元々依頼であってもなくてもいろんなところを転々とする風のような人だから」
――つまり、千景は僕と同じ根無し草だってことか。
最近姿を見ない彼だが、自分のことは一切話さないので知らないことの方が多い。
「だから今まで、兄が最後に訪れた場所って教えてもらったところに行ってきたけど、しばらくするとここじゃなかったという話になる」
「それは――大変ですね」
「まったく」
それでも話があがれば行くあたり、兄思いなのがわかる。行かなければ気が済まないというのもあるのだろう。
「でも、笹本さんはオフだって言っていましたよね?」
そう言えば、結生は目を伏せた。
「もう兄の捜索は打ち切られているから。でも、笹本さんは仲がよかったこともあって、勤務外でいろいろ情報を集めてくれているの」
「へえ」
笹本にとって狩屋家は、利害関係の延長――というか仕事上の付き合いみたいなものだと思っていた。
千景みたいな人でも、友人はいるんだ。
本人がいたら間違いなく僕の心中を見抜き、睨みをきかせてくるだろう。が、ここに千景はいない。
話し込んでいた笹本が戻ってきた。
「鍵を借りたので、行ってみましょう」