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4章 ××邸 下


「ちょ、ちょっと待ってください」


 僕は髪をかき乱す。


家解氏(やかいし)を辞めろって――それが結生さんに伝える言葉ですか!?」


 聞き間違いだと思った。だが、千景は「他に誰がいる」と短い首肯の言葉を吐く。迷いなく振り下ろされた刃のような言い方に、僕は思わず食らいついた。


「どうしてですか。結生さん、家解氏になるために頑張ったんですよ?」


 実際にその姿を見たわけでも、話を聞いたわけでもない。ただ、言葉の端々からそうだったことは疎い自分でもわかる。それに、家解氏の血筋でありながら家に嫌われるという体質に、一番悩み、苦しみ、もがき続けたのは彼女自身だ。相談できる相手もいなければ、元々自分の話をすすんでする人でもない。

 真逆の悩みだったとはいえ、僕自身も同じ。だから、彼女の気持ちが少しだけわかる。


「それはあまりにも酷だと思います」


 長い下積み期間を経て、ようやく舞台に立てたと思った瞬間、引きずり降ろされる――千景が言っているのはそういうことだ。

 目でも髪でも命でも、それを引き替えにしてでも叶えたい願い。それが結生にとって家解氏になるということのはずだ。


 ――伝言とはいえ、僕がそれを口にすることは。

「伝えろ、絶対にだ」


 有無を言わせない力強い言葉に、僕は下唇を噛む。


「……理由を聞かせてください」

「あんたには関係ない」

「ならばできません」


 僕は目をそらしながら言う。


「理由もなく人の気持ちを踏みにじるような真似、僕にはできません」


 腕の震えを止めようと拳を強く握る。しかし、体は言うことを聞かない。自分でもおかしくて笑えるくらい震えている。

 いやでも視線を感じた。いつもみたいに消えてくれと心の底から願うが、叶う気配はない。このままだと、息が詰まりそうだ。


「あ、あなたは結生さんのお兄さんなんですよね? だったら、妹の夢、応援するべきなんじゃないですか」


 震える声で絞り出すように言う。

 正直、立っているのがやっとだ。罠にかかった兎よろしく、逃げることもできないなら、動かせるのは口だけ。言葉を吟味することなく、思いのままに吐き出せば、今度こそ取り返しかつかなくなったことに気づく。

 頭から水をかぶったように血の気が引く。

 実体がないのなら危害を加えられることはないのだが、彼の存在はそういう次元ではない。少なくとも僕はそうだ。嵐が通り過ぎるのを待つ心持ちで、ぎゅっと目を閉じたときだ。


「――それも、そうだな」


 それは吹けば消える煙のような呟きだった。

 僕は恐る恐る目を開ける。目の前の男は、人知を越えた得体の知れない存在ではない。人間なのだ。

 彼と目が合う。頭ではわかっていても体が否定する。思わず目をそらせば、ふんっと鼻で笑われた。


「お前の言うことも一理ある。だが、俺の主張は変わらない」

「理由を説明してくれなければ、僕は伝えませんよ?」

「かなり癪に障るが、まあ今はいい。――いずれわかる」


 なにがわかるというのだろうか。だが、それ以上追求する気分にはならなかった。ほっと安堵のため息をこぼしたとき、地をはうような轟きが響く。かっと顔が熱くなって、僕はうつむいた。

 ふんっと鼻で笑う音が耳をさす。


「あんた、本当緊張感がないな」

 腹の虫に空気を読めという方が無理である。


「仕方ない」


 そんな呟きを耳に入れたとき。


「ちょっと来い」


 僕に拒否権はない。





 向かった先は、台所だった。


「いいか、お前はこれから俺の言うとおりにやれ」

「な、なにをするのでしょうか」


 震える声で尋ね返せば、睨まれた。


「とりあえず、冷蔵庫を開けろ」

「え」


 思わず声を出せば「文句でもあるのか」と言いたげな視線とぶつかる。


「あの、勝手に開けていいんでしょうか」


 僕にとってここは他人の家。招かれたとはいえ、さすがに冷蔵庫を勝手に開ける客人はいない。

 僕の問いかけに、千景は一瞬鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、ふっと笑う。


「あんた、俺が誰か忘れたのか」

「それは――千景さんというのは知っていますが」

「呼び捨てでいい。そう年も変わらない奴にさんづけされると気持ちが悪い」


 吐き捨てるように言われ、僕は内心「言い方さえなんとかなればなあ」と肩をすくめる。


「ここは俺の家でもある。俺が許可しているんだから開けてもいいに決まっているだろ」

「でも、三年ほど帰ってきてはいないんですよね?」


 深い意味はない。ただ、今実際に使用している結生の許可がなくていいのだろうか、そう思っての発言だ。しかし、今の一言が千景の機嫌をそこねたらしい。

 鋭い視線に僕の背筋がぴんっと延びる。

 これ以上機嫌を損ねない方がいいと判断し、僕は仕方なく冷蔵庫を開けた。

 一般家庭によくある大型冷蔵庫の中は、思いの外食材が豊富だった。卵や野菜、肉魚など一通りはそろっている。


「保護者の方、料理が得意なんですね」


 思わずぽつりと呟けば「誰だ、それ」と背後から声が刺さった。


「結生さん、ここでどなたかと暮らしているんじゃないですか?」

「結生がそう言っていたのか?」


 僕は記憶をたどる。親はいないと言っていたのはたしかだ。しかし、彼女が誰かと暮らしていると口にしたことは一度もない。

 顔に出ていたのだろう。千景は呆れたように息を吐き、壁に寄りかかった。


「今の俺たちに親族はいない」

「じゃあ、今ここに暮らしているのは結生さんだけ、ですか?」


 軽く睨まれたが、事実に変わりない。

 ――自分が行方不明なことに負い目を持っているんだろうな、この人。


「前は祖父が住んでいたけどな。今は二人だけだ」


 そして、兄である千景は三年間行方知らずになっている。

 ――目の前にいるけど。


「じゃあ結生さん、自炊しているんだ」


 ちょっとだけ意外である。


「俺はほとんど家にいなかったからな」


 冷蔵庫の中を吟味しながら、千景はぼそりと呟く。僕に聞かせるための言葉でないことは明らかだったので、返事はしなかった。


「あんた、そこにある卵のパックと挽き肉をとってくれ」

「え」

「え、じゃねえよ。早くしろ」


 嫌な予感がする。

 その後も野菜室から食材をとりだし、冷凍庫にあった白米を見つけて千景が満足そうな声を上げる。台所にある収納スペースからボウルを取り出すよう言われたとき、もう黙っていられなかった。


「まさかとは思うんですが、もしかして僕、今から料理をするんですか?」


 そう問えば「そうだが」とまるで僕の方がおかしいみたいに返された。


「無理です! 僕、料理だけは本当に無理なんです」

「物切って、鍋に入れるだけだろ。別に難しくも何ともない――」

「いえ、本当に無理なんです!」


 僕は噛みつくように遮った。

 母や姉が、呆れて僕に料理を教えるのを諦めたほどだ。僕にできるのはせいぜい野菜を洗うくらい。


「じゃあお前は、俺にしろっていうのか」


 彼の双眸が鋭さを増す。それができないから僕を手足の代わりにしているのは、十分理解している。だけど――。


「無理なものは無理です!」


 この人は、僕がどれだけ壊滅的な腕前か知らないからそう言えるのだ。食材を無駄にしてしまえば、結生にどう説明するのか。


「僕が失敗したとき、結生さんにあなたのことを言ってもいいんですか」


 途端、千景の雰囲気が変わる。


「もしお前が話したら、お前の血を引く人間すべてを地獄に落としてやる」


 この世のものとは思えない、地をはうような低い声は、僕の全身を恐怖で縛り上げた。この男ならやりかねない。


「……わかりました。結生さんにあなたのことは言いません」


 そう言えば、ため息が耳をついた。


「あんた、結生を喜ばせたくはないのか」


 千景の一言に、目を赤くした彼女の姿がよぎる。


「そんなことはないです」

「なら俺の言うとおりにしろ」


 なんて横暴な、と思ったが黙った。


「――それが料理をすることなんですね」

「腹が減っているんだろう? それに、できることは増やした方がいい。いつかきっと役に立つ」





 それから千景の指導をみっちり受けながらできあがったのは、オムライスだった。


「ったく、卵が足りなくなるかと思ったぞ」

「すみません」


 嵐でも通り過ぎたのかと思うほど、台所は荒れ放題だ。飛び散った卵に欠片、床にも落ちている玉ねぎのみじん切りに焦げた挽き肉。汚れた包丁やボウルなどあちこちに点在している。まだ、後かたづけが残っていると思うと、気が落ち込んだ。


「卵の焼きが甘いが、まあ及第点だろう」


 ――料理ができない人間にオムライスを作らせようとする時点でかなり狂ってるって。

 だが、それでも作らせた千景の手腕は相当なものだ。癪に障るが、教えるのはうまいらしい。

 テーブルの上に避難させてあるオムライスは二つ。ひとつは形がそこそこ整っているが、もうひとつはオムライスというよりチャーハンである。


「あんたはこっちを食え」


 そう言われると思った。

 しかし、いい匂いが鼻をくすぐれば、腹の虫はこれでもかと言わんばかりに暴れ回る。さっきから雷鳴のごとく腹が鳴っていた。


「もちろん、そのつもりでしたよ」


 食べられるのなら何でもいい。僕はスプーンを用意すると、皿を持ち上げる。


「ちょっと待て」


 スプーンを突き立てようとしたとき、千景が止めた。


「なんですか」

「立ったまま食うつもりか」

「座ってもいいんですか?」

「当たり前だろ」


 いや、やっぱり許可なく利用するのは抵抗がある。怪奇現象が起きない最高の場所だとしても、この家にとって僕は異物でしかない。


「律儀というか頑固というか。変わってるな、あんた」


 あなたほどではないですよ、と心の中で返しておく。

 僕はお言葉に甘えてイスに座り、自分で作ったオムライスもどきをすくうと、口に運んだ。途端、ケチャップの酸味と卵の甘みが広がる。唾液が自然とあふれた。


「おいしい!」

「当たり前だ」


 空腹のせいもあるだろうが、世界が一瞬にして色鮮やかに見えるような満足感が全身を駆けめぐる。


「もう一つはラップをして冷蔵庫に入れておいてくれ」


 一度スプーンを置くと、言われたとおりにする。いつまでも置きっぱなしでは気になってしまう。


「千景さ――千景は料理上手なんですね」


 さん、とつけようとしたら睨まれたので慌てて取り払った。


「人並みくらいだろう」


 なんとなく、この食卓に兄妹が座って食事をする風景が浮かぶ。結生から千景の話を聞いたことはないが、仲は悪くないはずだ。


「今日はずいぶん長いですね」


 沈黙の中、自分だけ食事をするのが少し気まずくなってそう声をかける。


「悪いか」

「いえ、そういうつもりはまったく。ただ、いつも気づいたら姿を消しているので」


 そう言えば、暖炉の前のソファーに座っていた千景が鼻で笑う。


「たまたまさ」


 独り言のように付け加えられた「運が良かっただけ」という言葉の意味を僕は聞けなかった。


「でも、そろそろかな」

「何がですか」


 最後の一すくいを口に入れる。しかし、返事はない。


「千景?」


 先ほどまで確かにあった姿はもうなかった。


   ◇


 目が覚めて時計を見たとき、まず沸いてきたのが最悪だという感情だった。置き型のデジタル時計は午前十一時を示している。明らかに寝過ぎだった。

 ベッドから起きあがると、ぼさぼさの髪を一つにまとめ、気だるげに立ち上がった。カーテンを開ける。太陽の光がまぶしい。

 目は覚めたが体は重い。疲れがとれていない証拠だった。

 再びベッドに座れば、兄の言葉が脳裏をよぎる。


 ――家解氏は危険な役目だ。お前は知らなくていい。

「……それじゃあダメなの」


 千景は結生に家解氏のことを何も教えなかった。結果、千景が行方不明になったとき、どうすればいいのかさっぱりわからなかった。


 ――私の体質を思って、兄さんはああ言っていたんだろうけど。

 笹本に心当たりを訊ねられ、何も答えなかったあのときの無力感。もう、二度と味わいたくはない。

 だから危険な目に遭っても、家解氏として活動できるありがたみの方が強かった。

 もう、泣いたりしない。

 昨夜、思いっきり掴まれ倒された感覚がまだ腕に残っている。死ぬんだと本気で思った。恐怖で思考が停止する感覚を初めて知った。

 旅館でも危険な目に遭ってはいたが、気を失っていたこともあり、それほど強い恐怖は植え付けられていない。

 でも昨日のは――。

 間近で見た目の粘液。生臭い息。炎のような体温。

 無意識のうちに掴まれた手首をさする。やけどになっているのではないかと何度も見るが、何もない。痣もなければ、傷もなかった。

 ――依頼によっては恨みを買うこともある。

 兄の言葉の真意が、今になってわかった。

 もちろん、私のことを想って言った部分もあるだろう。けど、そうでなくても危険なのだ。

 家解氏は、家の記憶を見る。

 そこには内密な記憶も含まれる。国家機密を知ってしまうことだってあるだろう。盗聴器を気にする者はいても家を警戒する者はいない。秘密は時に命を奪う。


「昨日のは完全に私の落ち度」


 電源を切れば問題ないと思っていたが、まさか追いかけてくるとは思わなかった。

 人の気持ちはわからない。何気ない言動が逆鱗に触れることもあれば、命を救うこともある。

 自分の身さえ守れれば、他人などどうでもいい人間もいる。もし私が死んでいたら、罪はさらに重くなるというのに、だ。

 家解氏の狩屋結生として依頼を受けている以上、気をつけようと思ったとき。


 ――お前のような人間が狩屋を名乗るな。この家から出て行け!

 祖父の突き刺すような叫びが耳元で蘇る。

 中学生になっても家録を見ることができず、いろいろ調べた結果、家に嫌われていることがわかったとき、祖父は鬼のような形相でそう叫んだ。

 四歳の時、祖父と名乗る人物が現れ、私をこの家に連れてきた。母の記憶はあまりない。ただ、子供の世話を好んでする人ではなく、「あの男の親? この子の祖父? ならさっさと連れて行って」と犬猫を追い払うような仕草を見せたことに幼心ながら深く傷ついた。

 父は、顔すら知らない。

 しかし祖父いわく「あいつは種馬だ。それ以上のことは期待していない」と言い捨てられるほど親子関係はよくない。

 祖父は、狩屋という家解氏を守り後生に残すという使命に人生をかける人だった。そのくせ、いろんな女性と関係を持ったにもかかわらず、できた子供は父一人だけ。そしてその息子は家解氏に興味を示さず、祖父同様、いろんな女性と関係を持ちつつ遊び呆けながらこの場所に寄りつかない。

 だから祖父は、父が落とした子を拾っては連れてきて狩屋の者として育て上げることに注力した。


 ――おじいさんの怒りはわかるけど。

 窓の外を見る。

 代々続く狩屋家として威厳は保たねばならない――そう言って、庭師を雇い時々手入れさせていたが、今は見る影もない。


 ――結局、狩屋の家解氏は私だけになっちゃった。

 天井を見上げる。しかし、目からこぼれたそれは、頬を伝って静かに落ちた。




 階段を降りたとき、リビングに通じる扉がわずかに開いていた。不思議に思ってのぞき込むと、テーブルに突っ伏すようにして寝ている男の背中が見えた。そっと近づけば、寝息が聞こえる。


「――なんでベッドで寝ないの」


 首を傾げたとき、ほのかに食欲を誘う匂いが鼻をかすめた。

 そういえば、もう昼時だっけ。

 何か適当に作ろうかと冷蔵庫の中を開けたとき。


「なんで」


 思わず取り出す。その皿の上には、ラップのかかった歪な形のオムライスがあった。シンクの方へ目をやると、乾かし中の皿が目に入る。


「夜中に作るには、ちょっと手が込んでない?」


 いくら空腹だったとはいえ、うどんやラーメンなど手軽に作れるものは他にもある。

「変なおじさん」

 そう呟きながら、レンジで温めケチャップをかける。寝顔を眺めながら食べる趣味はないので、台所で立ったままスプーンを口に運んだ。


「――嘘」


 一口、二口と続けるうちに涙がぼろぼろこぼれ始めた。

 手の甲で乱暴に拭う。


 ――もう泣かないって決めたのに。

 そのオムライスは、二度と食べられないと思っていた兄特製のオムライスと似た味がした。


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