4章 ××邸 上
タクシーがたどり着いたのは、周囲を木々で囲んだ洋館の前。街灯が届かないせいか、月明かりを浴び、ぼんやりたたずむその存在感はどこか異質だった。しんっと静まりかえった森は光を吸収する闇のようで、自然と背筋が伸びる。僕らが降りたタクシーは、逃げるように去っていった。途端、肝が冷えるほどの静けさが僕らを包み込む。
「せっかくだし、寄っていきなよ」
「え」
呆けた顔をする僕を置いて、結生は腰ほどの高さがある門扉を押し開けた。悲鳴にも似た甲高い音が響きわたる。
「泊まっていってもいいよ。部屋も余っているし。それに、ここなら怪奇現象も起こらない」
僕は思わず息を飲み込んだ。
それは、かなり魅力的な話だ。しかし、いくら結生からの申し出とはいえ、二つ返事で飛びつくのはみっともない。「そういうわけには――」ともごもごと口の中で返せば、「そう? まあ無理にとは言わない」と返された。
そのまま門をくぐるものだから、僕は慌てて「すみません、やっぱりお言葉に甘えます」と宣言してあとに続いた。
錆びた門扉の向こうは、広い庭だった。テニスコート二面分くらいはあるだろうか。きちんと整備すれば絵に描いたような庭園が広がるのだろう。しかし、長い間放置されていたのか、玄関まで続く石畳以外は草だらけで、葉の落ちた枝の庭木は、まるで人影のようだった。
ぽつぽつと石畳を照らすように、小さな照明が置かれているため足下には困らない。結生の言葉通り、外観からでもそれなりに広い家なのはわかった。だが、家に明かりは灯っていない。
もう寝ているのだろうか。
そう思っていると先に玄関にたどり着いた結生が振り返る。
「おじさん、早く」
慌てて追いかければ、扉のドアノブに手をかけた結生が、その手を引いた。すると、扉は抵抗なく開く。僕は眉をしかめた。
「あの、鍵は」
「私がここに来たときから、鍵なんてない」
思わず言葉を飲み込む。今の一言で聞きたいことは山ほど出てきたが、尋ねても答えてくれる保証はない。
家解氏の家だから、鍵などなくても問題ないということだろうか。たしかに、泥棒が入っても家録を見ればすぐに犯人はわかる。ただ、もう一つの方はまったくわからない。
――私がここに来たときって、ここが結生さんの家じゃないのか?
ふと両親はいないと言っていたことを思い出す。だとしても、保護者はいるだろう。祖父母や叔父叔母などの親類が。
「ぼさっとしてないで早く入って」
我に返った僕は、慌てて狩屋邸に足を踏み入れた。
◇
外観は洋館だったが、リフォームをしたのか内装は今時の家と変わらなかった。結生が壁の電源を押せば、玄関の照明がつき、フローリングの床と白い壁が目に入る。留守にしていた家は、外と同じく冷たい空気で満ちていた。
「こっちがリビング、あっちの扉がトイレ」
足を引きずるようにして一通り案内した結生は、「自由に使っていいから」と言って二階に続く階段の手すりを掴んだ。
「ちょ、ちょっと待ってください」
思わず呼び止めれば「まだ何かあるの」とその目は雄弁に語る。
「せめて手当をした方がいいんじゃないですか?」
「大丈夫」
ぴしゃりとはねのけるような声だった。いつもなら引き下がるが、状況が状況だ。怪我や病は放っておけば取り返しがつかなくなることだってある。
「で、でも」
自分でも情けない声が出た。階段を上がる結生の足が止まる。不機嫌さを露わにした視線が飛んできた。反射的に身を強ばらせる僕に彼女は「あとでやる」とだけ言い捨てて痛む足を引きずるように上っていく。結生が怪我をした原因は僕にもある。冷やせるものをあとで持って行こうと密かに決意した。
自由に使っていいと言われたものの、他人の生活が染み込んだ場所を荒らすほどの度胸はない。砂城に触れるように、そっとドアノブに手を乗せ回す。暗い。電気の場所がわからず、壁をなでるように動かせば指先にスイッチらしきものが触れる。迷わず押した。
まばゆい光が視界を奪う。白光に慣れた目が捉えたのは、広いリビングだった。
「――暖炉がある家、初めて見た」
思わずつぶやきがこぼれる。昔見た洋画のワンシーンが自然と脳裏をよぎった。ゆりかごのようなウッドチェアはないが、革張りのソファーが暖炉に向かうように置かれている。その上、テレビやダイニングテーブル、食器棚もこの一部屋に収まっていた。
首を動かすと、カウンター式キッチンも視界に入る。
「お水を一杯、いただきます」
さすがに冷蔵庫を開ける勇気はない。蛇口をひねり出た水をコップに入れる。腹は減っているが、そこまで図々しくもなれず、僕は二階へ濡らしたハンカチを持ってあがる。本当は氷嚢がよかったが、引き出しを開けるのもためらってしまい、結局作ることができなかった。
こんなものでもないよりはマシだろう。
タオル地のハンカチは、僕の私物だ。
扉をノックしたあと、はたと思い至る。
僕のハンカチなんか使いたがるだろうか、と。
何度も見た凍るような視線を思い出し、自然と肩が落ちた。
絶対、受け取らないよな。
どうしよう、と途方に暮れても時間は巻き戻らない。その場から逃げようか隠れようかあたふたしている間に、扉が開いた。
「なに」
暗い部屋から顔をのぞかせた結生。両目が赤い。
「えっと、その――」
言いよどむ僕に彼女は呆れ混じりのため息を吐く。
「使っていいのは、向かいの部屋。シャワーも洗濯機も自由に使っていい。それともトイレの場所?」
「も、もう大丈夫です!」
そう言えば「そ」とつぶやかれ扉は閉まった。
僕の手の中には、濡れたハンカチが隠すように握り込まれていた。
ドアノブの先にあったのは、物の少ないこざっぱりとした部屋だった。明かりをつければ、シングルベッドと机が目に入る。机の上には、本が五、六冊だけ置かれていた。民俗学、心理学、物理学といった専門書ばかりで一見ジャンルの違う本が並んでいるように見える。
でも僕はすぐにぴんときた。
家録に対応するためではないか、と。
あまりの物のなさに客間ではないかと疑いだしたとき、入ってきた扉の高い位置に四角いメモ用紙のような物が見えた。
なんだ?
近づき、メモ用紙の文字を目でなぞる。そこには子供の文字で「ちーにい だいすき」と書かれていた。
ちーにい?
その瞬間、稲妻が走ったように記憶が駆ける。
「ちーにいって――」
僕が呟いた途端、コンコンっと控えめなノックの音が響いた。思わず身を堅くする。しかし、ここは狩屋邸。ポルターガイストのはずがないと思い直す。
どうしたんだろうか、そう思いながら扉を開ける。
誰もいない。
部屋の明かりが暗い廊下をわずかに照らす。しかし人の気配はまるでない。あるのは僕の陰だけ。
さっと血の気が引く。
ここでも僕は普通になれないのか。
そう思ったときだ。
「ちいにい!」
喜びあふれる子供の声。視線を落とせば、見知った面影のある子供が満面の笑みで飛び込んできた。結生だ。ただ、年齢は五歳前後に見える。
一瞬思考を止めた脳は、すぐにこれが家録だと訴える。
「おかえりなさい」
そう言って僕の足に飛びつく小さな子供は、小さな歯を見せて笑った。呆然とする僕をよそに、節の目立つ白い手が小さな頭に乗った。
「ただいま。着替えるから結生は部屋に戻ってな」
若い男の声。おそらく、十代の少年だ。しかし、結生は首を横に振る。
「いやだ。ちいにいと一緒にいる」
蝉のように足にしがみつく結生の頭に、再び手が乗った。
「そうだな。じゃあ、今日は一緒に寝るか」
そう少年が言えば、幼い結生の目が輝いた。
「でもなあ、にいちゃんこのままだったら着替えられないし、お風呂も入れないから結生とは寝られない――」
「じゃあ、早く来てね!」
ぱっと離れた結生がばたばたと足音を立てて部屋を出ていった。騒々しい。しかし、微笑ましい。この瞬間を閉じこめることができたなら、きっと大金を積む者もいるのだろう。
そして僕は、それを知っている。
――家録は家族の思い出を記憶している。
視線を逸らしたとき、僕は「ちいにい」と呼ばれていた少年を見た。途端、心臓を鷲掴みされる。
僕は、この人を知っている。
「悪趣味だな」
びくっと飛び上がると、風にかき消されるように家録は消える。しかし消えないものもあった。
睨むような視線を向けられ、旅館で現れ、姉のアパートでも姿を見せた緑青の瞳の男。
「――狩屋千景」
そう呟けば、男は鼻で笑った。
「なんだ、知っていたのか」
もちろん、最初からではない。ただ、僕でなくてもいずれその名にたどり着くだろう。
失踪中の結生の兄。おそらく、彼女の保護者。
「お前がどれだけ好かれるのか嫌というほどわかった」
千景はベッドに腰掛けると僕を睨んだ。
「だが、金輪際この家の家録を見ることはない」
その目は戒めるようにこちらを見るが、僕としては願ったり叶ったりだ。人様のプライバシーをのぞき見る趣味はない。――この人は勘違いしているようだけど。
「あの、ひとつ聞かせてください」
どうしてもこれだけは尋ねなければならない。
「あなたは――幽霊、なんですか?」
途端、男は立ち上がると長い足であっという間に距離を詰める。
「阿呆か、お前」
深緑の瞳に侮蔑の色が宿る。背丈は僕とそう変わらない。目の前で理由もなくそう言われ、さすがの僕も腹が立った。
「阿呆って――じゃあ、何なんですか! 人間でもないでしょうに!」
「失礼な奴だな。人間だよ、俺は。訳あってこうなっているだけだ」
その「訳」が知りたいんだろ、と心の中で叫ぶ。言い方からして、教えるつもりはないのだろう。
「――だったら僕じゃなくて、結生さんに姿を見せてあげればいいのに」
僕では、彼女の目を冷やすこともできない。聞こえないように呟いたつもりだったが、男の耳にはしっかり届いていたらしい。
「お前、バカだな。それができたらお前なんかの前に現れるか」
この男、今度はバカって――。
小さく咳払いをして気持ちを落ち着かせる。つまり千景は、結生の前で姿を見せることができないのか。
ますます疑問が深まる。
理屈はわからないが、彼は僕にしか見えない存在らしい。
「でしたら、せめて今どこにいるのか教えてくれませんか。彼女、心配していると思うんです」
しかし、千景は黙ったまま。目の前で腕を組み棒立ちしているせいか、威圧感が半端ない。
「あの――」
聞こえていないのではと思い、もう一度声をかけようとしたときだ。
「うるさい。蠅みたいに騒ぐな。鬱陶しい」
「……蠅」
なんなんだ、この男。
なにか事情があるのか、所在を言いたくないのだろう。それは百歩譲って納得できる。だけど、言い方くらい考えろよな、と心の中で毒づくのは止められない。
こういうところは兄妹だと思う。どこか人を寄せ付けない雰囲気を持つ美形というところも似てはいるが。
「お前、結生に伝えてくれないか」
僕は幽霊を信じていない。けれど、さんざん家録を見てきた今、目の前の男が何だろうがどうでもよかった。でも、千景という実在し、今行方不明の男がその言葉を口にすると、何となく最悪な想像をしてしまう。
僕はただの道具に過ぎない。これ以上、彼女のプライベートに首を突っ込むのは気が引ける。
「すみません、さすがにそれは――」
「あんた、人の話聞いてたか?」
千景はやれやれと言わんばかりに肩を落とす。
「俺とそう変わらなさそうなのに、話を理解する力がないなんて――先が思いやられるな」
あれ、このやりとり前にもやった記憶が――そう思っていると盛大なため息を目の前で吐かれた。
解せぬ。
「今、俺の姿が見えるのも声を聞くことができるのも、お前だけなの。わかる?」
深緑に囲まれた湖のような双眸が、有無を言わせない力強さを持って僕を捉える。僕は、渋々首を縦に振った。
「あんたは、俺の言ったことを結生に伝えればいいの。小学生でもできる」
「もうわかりましたから」
本当、十分すぎるくらいしつこいのは。
できることなら関わりたくないのが本音だが、適当にあしらうことができないのも事実である。
仕方なく僕はその先を促した。
「正直なところ、結生があんたと一緒にいるのは癪に障るが――」
何なんだ、この人。
わき上がった感情を必死に押し込める。顔に出たら最後、反感を買うのは目に見えている。
「本来なら、結生は家解氏とは無縁の生活を送れるはずだった。それが結生のためでもあったのに」
射殺すような冷たい視線が僕に向けられる。
「欠点を補えるレアアイテムが手に入ったんだ。そう簡単に捨てるはずもない」
――兄妹そろって人を道具扱いですか。
とほほ、と内心肩をすくめていると「だからあんたにも責任はある」と言われた。
そんなことを言われても、というのが本音だ。
家録や家解氏という存在は、結生に出会って初めて知った。それも半ば強引に、というのが事実だ。
――でも、彼女に出会わなければ今でも自分が起こす怪奇現象の原因を知ることはなかった。
もし今も周りの目に怯える日々を過ごしていたら――そう考えるとぞっとする。年を重ねたとき、ストレスや睡眠不足などの不摂生がたたり、きっと早死にしていただろう。
だからといって、根本的に原因が解決したわけではない。しかし、この体質が誰かの役に立つのは、悪い気分ではなかった。
僕は、彼女に出会えて本当によかったと思っている。だから、僕にできることはできるだけ協力したい。
千景が結生に伝えてほしいというのなら、もちろん協力する。僕にしかできないのならなおさらだ。
彼はきっと陽炎のような存在。物を掴んだり音を出したりすることはできない。けれど、実存する人間以上に生々しい生命力を感じる。視線一つでその場に縫いつけられ、言葉一つで叩かれたような衝撃を受ける。例えるなら、光源を直視しているような感じだ。
そんな千景の薄い唇がゆっくり開く。
一言一句、正確に結生に伝えようと紡がれる言葉を待つ。
そして彼は言った。
――家解氏を辞めろ、と。