3章 家族と僕 下
無人の他人の家は、どうも居心地が悪い。
しんっと静まりかえった部屋の中には、時計の秒針や冷蔵庫のモーター音、外を走る車の音などが流れる。
早く帰ってこないだろうか。
慌てて出て行った姉の様子が脳裏をよぎる。子供は弱い。病気にはすぐなるし、持て余す体力を発散させようと走り回って怪我をする。
――美波、特に大事なければいいけど。
それにしても、我が姉はすごいなと改めて感心する。家事に育児、それと仕事。それらをどうにか両立させている。美波が比較的手の掛からない子供というのと、今回のように手を貸してくれるママ友など、支えになってくれる人が周りにいるからだろう。
ふっと息を吐く。日は傾き、空は生命力を吸い取られるようにゆっくり、しかし確実に暗くなる。鍵を預かっているので、出て行こうと思えばできるのだが、中途半端に放り投げるわけにもいかない。暗くなる空を明かりもつけずじっと眺める。
結生さんは、一体何を見たのだろう。
今回、僕は家録を見ていない。彼女の言葉を疑うわけではないが、家族のことだ。あんなに不安そうな姉を見てしまった以上、原因はなんだったのか。気にするなという方が難しい。
せめて原因くらいわかればなあ。
姉に何かしらのアドバイスができたかもしれない。
まあ、姉さんのことだから聞く耳を持ってくれない可能性もあるけど。
そのとき、ぎいっとフローリングが軋む音がして、僕は反射的に振り返った。
その瞬間、見知らぬ男の姿が目に入った。
闇に飲み込まれる寸前のぼんやりした光が、男の存在を曖昧にさせる。人間か、幽霊か。言葉を失った僕は、その場に縫いつけられたように男を見ることしかできなかった。
四十後半から五十代くらいの男だ。瞼が厚く下がり目に見せている。中肉中背、面長の男は、こちらを見向きもせず、肩に担いでいた小さめの脚立を床に立て始めた。
真っ白だった僕の頭に、警察という文字が浮かぶ。しかし、携帯を取り出す前にふと我に返った。
――これは、家録では?
あり得る。同じような場面に何度か出くわしたのだ。そうと思えば、それしか考えられない。
玄関を開ければ、あの甲高い音が響くし、さっきからこの男、僕の方を見ないし。
意識的に無視しているのだとしても、不法侵入した男が在宅中の存在を完全に無視できるとは思えない。
――やっぱり家録だ。
そうとわかれば、取り乱していたのが嘘のように冷静さを取り戻す。映画でも見るように、男の動向を観察した。
◇
「ただいま」
美波を抱き上げた腕が温かい。小さな頭を押しつけるようにして眠る我が子に慈愛の視線を向ける。ただの風邪だと診断され、薬を処方してもらっていたら思いの外時間がかかってしまった。
すっかり暗くなった夜道を急ぎ足できたせいか、寒さはあまり感じない。
押し開けた玄関の向こうが暗い。帰ったのだろうか。いや、ポストに鍵は入っていなかった。自然と眉が寄る。
「もう、カナト。電気くらいつけなさいよ」
片手を伸ばし電気ひもを引っ張れば、ついた明かりに目を細める。明かりもつけずにいた弟に文句の一つでも言おうと口を開いたときだ。
明るくなった部屋に結生という子はいない。一方、弟は食い入るようにじっと部屋の一点を見つめていた。
その異様さに言葉が引っ込む。
「虫でもいるの?」
ようやく出た声は、思っていた以上に弱々しかった。
カナトの視線をたどるが、なにもない。少し手狭な台所があるだけだ。不意に中古で買った冷蔵庫のモーター音が
止む。途端、カナトが電源が入ったおもちゃのように立ち上がった。
「姉さん、それじゃあまた」
そう言って通り過ぎる前に、美波の頭に手を乗せる。
「ちょっと、カナト!」
呼び止めるより先に、玄関の扉が閉まる音が耳に入った。大声をあげたせいで、美波がぐずる。
「まったくもう!」
もうそこにはいない弟を睨みつけながら、次会ったときは説教だと決心した。
◇
「おい、もっと早く走れ」
前を行く男が振り向き怒鳴る。
これでも全力で走っているのだと訴えたかったが、開いた口から出るのは、懸命に酸素を取り込む呼吸音だけだった。
前方から舌打ちが飛んでくる。街頭がまばらな路地でも、男の姿は日の光に当てられたようによく見えた。緑味がかかった瞳が、僕を睨む。
「鈍い! 何かあってからじゃあ遅いんだぞ!」
そんなの言われなくてもわかっている。
言い返したいが、呼吸を整えるより一歩でも早く前に進むのが大事だ。
旅館で見たあの男が現れたのは、家録が消えたときだった。チューニングが合っていないラジオのように、最初何を言っているのかさっぱりだったが、部屋に明かりがついた瞬間、霧が晴れるように耳に聞こえ始めた。
「今すぐ追え! 結生が危ない!」
その意味は言われなくても察しがついた。
僕は走った。どこをどう行けば普通なら迷うところを、先頭を切って男が走るおかげで僕はそれを追いかけることに集中した。
自動販売機の明かりが眩しく感じる。街頭の明かりもどこか頼りなく、人の気配もない。こんな場所があるのかと気にする余裕もなく、ひたすら男の怒声を追いかけるように走っていると、抵抗する女性の声がかすかに聞こえた。
息も切れ切れになりながら、重い足を引きずるように行った先、行き止まりの路地にもみ合う影が目に入る。
星も月も照らすことを諦めたような黒い路地には、開封された段ボールが乱雑に積み重なっている。その奥からくぐもった叫び声があがった。大きな影が覆い被さるように小さな影の口元を押さえ込んでいる。
「やめろ!」
僕はかすれた声で叫びながら、黒い影に体当たりする。吹っ飛ばされた影は尻餅をつき、僕を見た。さっき家録で見た男だ。すぐそばで、せき込む声が響く。
「大丈夫、です、か」
ぜえぜえ息を乱しながら、座り込む結生に声をかけた。結生はせき込みながらも頷き返す。
男はその隙を見計らい、落ちていた結生の鞄をひったくると風のように逃げていった。追いかけようとしたが、一度止まってしまった足は、もつれてうまく走れず、僕は転んだ。
男の姿はもうない。とりあえず、間一髪だったが危機は過ぎ去ったようだ。
コンクリートの路地に大の字になれば、結生がのぞき込む。
「おじさん、なんでいるの」
「家録を、みました」
姉が感じていた視線。その正体は小型カメラ。つまり盗撮だ。
「火災警報装置に仕掛けられるところ、と、さっきの男が無断で部屋に侵入していたのを、みました」
姉が簡単にアパートの鍵を渡すとは思えない。おそらくあの男は、管理人かそれに近しい人物だろう。さっき結生が踏み台にしたのは、仕掛けられたカメラをとるためだ。不法侵入までしてくる男だ。取られたことに気づけば、自分の犯行がバレたと焦ることは目に見えていた。
「警察、呼びますか」
そう言えば、結生は意外にも首を横に振った。
「今日はもういい。疲れた」
「でも、さっきあの男、結生さんの鞄盗んでいきましたよ?」
そう言えば、彼女はあからさまに顔を歪めた。
「最悪。財布とSuica入ってたのに。帰れないじゃん」
いや、怒るところが違いますと心の中でツッコミを入れる。
「まあいいや。歩いて帰れば」
「帰れる距離なんですか?」
「さあ?」
――さあって。
呆れつつ起き上がる。彼女は少し怒っているようだった。
まあ、窒息しそうになったあげく、鞄を盗られれば怒るよな。
それもこれも、根本的な原因は僕だ。
結生の正面に立った僕は、腰を折るように深々と頭を下げた。
「な、なに、急に」
「本当に申し訳ありません」
「おじさん、頭でも打った?」
「あの、そういうわけでは。ただ、僕が結生さんをつれてこなければこんな目に遭わなくて済んだのに――」
そのとき、無防備なつむじに衝撃が走った。「いてっ」と顔をあげれば、むくれた結生と目があった。
「言っておくけど、これは私が自分で決めたことなの。おじさんがいちいち気にする必要はない。ただでさえうじうししているのに、これ以上湿っぽい空気を出すつもりなら塩をまくからね」
あれ、今ナメクジ扱いされた?
正直気は晴れないが、これ以上食い下がっても嫌がられるだけだ。本当に塩をまかれたら、精神的にもくるものがある。
「ありがとう、ございます」
僕は感謝の気持ちをありったけこめて言葉に乗せる。
カメラを見つけたとき、僕に言えばよかったのにそうしなかった。それが危険なことだとわからない彼女ではない。
「あとで笹本さんに伝えておく。だからもうこの件は終わり。――正直ちょっと疲れた」
あんなことがあったばかりだ。結生に気を使えない自分を恥ながら、僕はスマホで現在地を調べる。駅までは三十分くらい歩かなければならない。
「とりあえず駅に行きましょう。電車賃くらいなら僕が出しますから」
歩きだそうとしたとき、結生が息を飲むような音を出し、足を止めた。その視線は自身の足に向いている。
「痛めたんですか」
「大丈夫。これくらい平気」
そう言うものの、足を引きずるようにして前に進む姿はとても大丈夫には見えなかった。
「タクシーを呼ぶので、座って待っていてください」
僕はどんどん消耗するスマホに「もう少し保ってくれ」と祈りながら、電話をかける。先ほど見たマップの地名をうる覚えで伝えていたら、思いの外時間がかかってしまった。電源が切れる前にどうにかタクシーを呼び出すことに成功しほっと息を吐く。
やってきたライトの明るさが、頼もしく見えた。
「これ使ってください」
財布からすべての札を取り出し、結生に渡す。これでスマホなし、金なしになったのは僕の方だ。
正直不安はあるが、姉に頼るという最終手段が残っている。ただ、そうするつもりはなかった。
小銭は残っているし、充電さえできれば日雇いバイトを見つけられるだろう。
先にタクシーに乗った結生は、差し出した札ではなく僕の手首を掴んだ。氷のような冷たさに、一瞬心臓が跳ねる。
「おじさんも来て」
「いや、さすがにそういうわけには――」
「いいから!」
車内の暖色照明が、結生の左目の黒子を際立たせる。そんなに強い視線を向けられては、断ることもできない。
渋々乗り込むと、ばたんとドアが閉まった。ビビる僕をよそに、彼女は淡々と行き先を乗務員に伝える。
僕は借りてきた猫のように背中を丸め、成り行きを見守ることしかできなかった。