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3章 家族と僕 中


 姉が結婚し、美波が生まれたとき、僕は初めて姉夫婦の家を訪れた。都内にあるマンションだった。


「狭い場所だけどどうぞ」


 そう言って迎えてくれたのは、ほぼ初対面の義兄だった。足を踏み入れた途端、義兄の言葉が謙遜だと知った。

 広々とした空間に、品のいい玄関マット。何が描いてあるのかわからない絵がよくなじむほどおしゃれな玄関。靴を脱ぎ、足を乗せるのに躊躇したほどだ。

 白い壁は眩しく、スリッパで歩くフローリングはよく滑る。転ばないよう足下に集中していると、天井まである本棚が目に入った。

 どうやらここがリビングらしい。薄いテレビが壁と一体化しており、革製のソファーが部屋に高級感を持たせていた。ベランダに通じる大きな窓から柔らかな光が射し込む。そのベールのような光が、ダイニングで赤子をあやす姉を柔らかく包み込んでいた。

 昔どこかで見た宗教画が脳裏をよぎる。

 僕はそのとき思ったのだ。

 これが幸福の形なんだ、と。




「誰かに見られているんですか?」


 結生がミサキの言葉を復唱すれば、姉は頷いた。


「この部屋、道沿いにあるし周りに住宅もあるでしょう? だけどそういう一瞬だけ目を向ける感じじゃなくて、じっと見張っている感じなの」

「そういう人を見かけたことは?」


 ミサキは頭を左右に振る。


「不審者がいたら弟じゃなくて警察に相談している。団地に住む人にも聞いてみたけど、それらしい人は見たことないって」


 姉のことだ。自分一人ならまだしも、美波に危険が及ぶ可能性がある以上、気が気ではないのだろう。

 ミサキは玄関をあがってすぐにある台所を指さす。


「一番違和感があるのはあそこ。外から帰ったとき、たまに物が動いているの」

「気のせいじゃなく?」


 僕がそう言えば思いっきり睨まれた。


「シンクの中にあったはずの箸が外に置かれていたの。絶対に間違いじゃない。それに、洗濯物もたまになくなっているし」


 ミサキは両腕をこすりながら、視線をさまよわせる。いつもの豪快な姉の姿はそこにない。


「それは不安ですね」


 結生はそう言って僕に視線を向ける。何となく、何がしたいのかわかってしまった。僕らをつなぐものはひとつしかない。


「姉さん、ちょっと周辺を見てくるよ」


 僕が立ち上がれば、結生もそれにならう。ミサキは結生の方を見た。


「結生ちゃんはここにいなよ」

「いえ、おじさ――家守さんが痕跡を見落とす可能性もあるので」


 歯に衣着せぬ物言いに、僕は呆気にとられる。もちろん、これが結生だ。しかし、僕の姉の前でもそう言ってしまうあたり、度胸が据わっているというかなんというか――大物である。

 家族によっては、怒り出すかもしれないがミサキは違う。口を大きく開け、腹から声を出すように笑った。

 驚く結生に「ごめんね」と謝りながら、目に浮かぶ涙を拭う。


「いや、カナトがバイト先の子と一緒に来るって聞いたときは、彼女でも紹介するのかと思ったけど」


 否定しようと口を開きかけた僕に、姉は微笑みかける。


「大丈夫。違うってわかってる。むしろ、手綱を握ってくれているのがわかった」


 僕はいたたまれない気持ちになって、すぐにその場から逃げたくなった。姉は、結生のことを気に入ったらしい。


「この子、背が高くて見てくれも悪くないのに、昔っから自信がないというか冴えないというか。そのくせ、ちょっと抜けているし。だから、結生ちゃんみたいな子が背中ひっぱたいてくれるってわかって安心した」


 もちろん、本当に叩くって意味じゃないよとミサキは付け加える。


「姉さんもういいから」


 これ以上、姉の口を開かせてはならない。しかし、興が乗った姉を止められたことは、過去一度もない。


「あんたもあんたよ。こんないい子を連れ回して。それで自分を真人間に見せようなんて百年早いわよ。母さん、私に電話してくる度に『カナトの今後が心配だ』って嘆くのよ。いい加減、親孝行だと思って――」

「時間がもったいないし、ちょっと見てくるよ」


 そう言って飛び出す。それしかマシンガンのような言葉の嵐から逃げるすべが思いつかなかった。


   ◇


 きいっと甲高い音を上げ玄関が閉まる。姉が追いかけてきそうな気がして、靴のかかとを踏んだまま、階段を駆け下りた。最後の段を降りたとき、勢いあまって転びそうになる。


「子供みたいに転ばなくてよかったね、おじさん」


 振り向くと白い息を吐く結生がいた。とんとんっと軽い足取りで階段を降りると、僕の前を行く。

 中で待っていてもよかったのに。

 しかし、確認したいことがあると結生の目が雄弁に語っていたのも事実だ。色彩が曖昧に広がる曇り空の下、黒髪が宙を舞う。


「ほら、ぼさっとしてないで行くよ」


 ぞんざいに扱われても嫌悪感を抱かないのは、姉に少し似ているからかもしれない。どんどん先を行く結生の背中を追いかけた。


「お姉さん、おじさんと同じってことはない?」


 隣に並んだ瞬間、そう尋ねられ僕は首を横に振った。


「それはないです。姉は至って普通の人です」


 そう、普通の人。ポルターガイストなんて起こすことがない人だ。


「じゃあおじさんは、生まれたときからそういう体質なの?」

「いえ、そうでもないです」

「じゃあ、おじさんみたいに目覚めちゃったってこともあり得るんじゃない?」

「それは――」


 ないとは言い切れない。ただ、あってはならないことだ。僕は歩きながら彼女へ視線を流す。


「そうならないようにする方法ってあるんでしょうか」


 結生は眉を寄せた。何か言いたげに開いた口を見て、ふさぐように僕は続ける。


「もちろん、結生さんのことはわかっています。ただ、僕は素人なので、家解氏である結生さんほど知識がないんです。方法があるかどうか知りたいだけで――」

「なんで知りたいの?」


 尻すぼみする僕に噛みつくような勢いで彼女は尋ねる。僕は口を閉ざす。でも、ここで嘘をついてもすぐにバレるだろう。そのくらいのことはわかるようになった。


「・・・・・・姉が離婚をしたのは、僕が原因なんです」


 脳裏に聖母のような姉の姿が浮かぶ。一枚の絵のような美しいそれは、一瞬にしてどろりと溶ける。


「どういうこと?」


 まっすぐ見据える視線に耐えかねて、僕はそっと顔をそらした。


「姉夫婦の新居に行ったとき、怪奇現象が起きたんです。インターホンが鳴る、でも誰もいない。浴室のシャワーが勝手に出る、ベランダを歩く足音が聞こえる――当然、僕が原因なんですけど」

「それがなに?」

「結生さんにとってはたいしたことないかもしれないですけど、普通そういうのは怖がられるものなんです。幽霊とかそういうのを連想して気味悪がられる」


 家解氏である結生には、その感覚はないのかもしれない。けれど、彼女は先を促すように黙っていてくれた。僕は唇をなめる。


「直接、姉の口から聞いた訳じゃないです。でも、そのときをきっかけに家にいることを気味悪がった義兄が、家に寄りつかなくなり――浮気をしました」


 僕は数歩前に進むと、振り返って結生と向かいあった。そして振り下ろす金槌のごとく、頭を下げる。


「お願いです。姉が僕と同じ体質になることは避けたいんです。――怪奇現象を起こしたのは自分だなんて、思ってほしくない」


 あの性格だ。浮気をした夫を許すことなどあり得ず、肝っ玉の小さい男だとなじることで、どうにか気を保っていた姉だ。それを根本から否定してしまえば、どうなることか。

 考えたくもない。


「残念だけど、それは私も知らない。知っていたら、おじさんなんて眼中になかったし」


 それもそうだ。結生自身、体質のせいで家解氏と名乗ることもできなかったはずだ。それをどうにかできる方法があるならば、きっと何を差し出しても求めていただろう。


「でも、そうと決まったわけじゃない」


 結生はスマホを片手に持ち振る。


「まだ、確かめる方法は残っている」


   ◇


 三棟あるアパートの階段を上がっては下りてを繰り返す。五階立てのアパートだ。一棟五列あるため、全十五回、アパートの一階から五階まで往復しなければならない。

 普段運動なんかしない僕は、早々にバテてしまった。息を弾ませ、結生の後ろを鉛を持ち上げるような気分でついていく。


「おじさん、もっと体力つけたら。そんなんでへばってたら老後困るじゃん」


 言い返す気力すら湧かない。結生はスマホを片手に踊り場で僕が上ってくるのを待っていた。


「なにか、見えましたか?」


 息を上げながら尋ねれば、彼女は首を横に振る。


「こういう場所っていろんな人が出入りするでしょ? それもホテルとか旅館と違って年単位で住む。だから、家録も結構濃厚なんだよね。・・・・・・条件を付けて見れたらいいんだけど、私には無理だし」


 つまり、めぼしい情報はないってことか。


「せめて怪しい人間だけでもわかればいいんですけどね」

「簡単に言ってくれるじゃん」


 結生はスマホ画面に目を落としながら言う。


「言っておくけど、怪しい人間はそれなりにいる。でも、時代も季節もバラバラ、しかも今までここで起きたことをまとめて表示しているような感じだから、学園祭の舞台裏みたいにごっちゃごちゃ。目がいくらあっても足りない」


 結局何の手がかりも掴めないまま戻ったとき「ちょうどよかった」と出迎えた姉が口早に言う。


「ちょっと美波を迎えに行かなきゃならなくなって」

「なにかあったの?」

「急に吐いたみたい。様子を見てそのまま病院に行くかも」


 そう言って姉は僕に鍵を渡した。テーマパークのキャラクターキーホルダーが場違いに笑っている。


「本当に悪いけど、適当に過ごしていいから。帰るときは、鍵をかけて下のポストに入れておいて」


 そう言って慌ただしく出て行く。閉じかける扉から見えた姉の背中は、ひどく弱々しく見えた。


「心配だな」


 姪っ子のことを思っているそばで、結生は部屋に上がり込む。その手にはスマホが握られていた。


「おじさん」


 振り向けば結生と目が合う。


「さっさと原因を特定しよう」


 彼女がこんなにも頼もしく感じられるとは、思ってもいなかった。


「はい!」


 僕は初めて、彼女と知り合えてよかったと心の底から思った。




 姉のところに結生を連れてきたのは、怪奇現象を起こさないようにするためだ。その効果あって、滞在して二時間近くになろうとしているが、これといった物音も現象も起きていない。

 スマホのカメラを天井に向ける結生に僕は声をかけた。


「もしかして、旅館のときみたいに何も見えないですか?」


 暗に一度結生に退室をしてもらおうと思ったのだが、結生は「大丈夫」と答える。


 ――見えている、のだろうか。

 僕には何も見えない。映画の中に飛び込むように家録が見えればいいのだが、ここは姉ミサキの生活する場。バレた瞬間が怖い。

 しかし、姉が自分と同じ体質になっているのかいないのか、その点だけは確かめなければならない。

 結生の持つスマホ画面をのぞき見ようとしたとき、くるりと彼女が振り返った。


「変態」


 冷めた目で睨まれ、僕は猫のように飛び退く。


「いえ、そういうつもりは!」


 口から出る言葉をそのままたれ流せば、呆れたようなため息が耳をついた。


「おじさん、慌てすぎ。からかっているだけじゃん」


 いや、真顔過ぎて冗談かそうじゃないのか全然わからないんだけど。

 ひとまず、怒っていないことがわかり、ほっと一安心する。


「おじさん、ちょっとそこに四つん這いになってくれない?」


 突然そんなことを言われ、聞き間違いかと突っ立っていると「早く」と急かされた。


 なぜだ――。

 渋々フローリングの上で両手両足をつく。床は冷たく、体温を奪っていく。なんとなく嫌な予感がしたとき、背中に重みがかかった。


「うぐっ」

「変な声出さないでよ」


 背中の上に結生が立ったのだ。せめて一言ほしいと思いながら、ぐっと両手両足で踏ん張る。顔を上げることもできず、額に汗が浮かんできたとき「とれた」という彼女の声が聞こえすぐに背中が軽くなった。

 崩れるように座った僕は、頭上を見上げる。天井にある火災報知器が目に入った。


「何か、見えたんですか?」


 そう尋ねれば「そうだね」と結生は答える。部屋の隅に置いていた鞄を手に取り、スマホを入れた。


「お姉さん、家に好かれていたわけじゃなかった」

「え」


 結生の方を見れば「嘘じゃない」と少しむくれたように言う。


「いえ、別に疑ったわけでは――あの、それは本当なんでしょうか?」

「疑っているじゃん」


 結生は短く息を吐くと、呆れた様子で僕を見る。


「女の勘は鋭い――なんて迷信みたいなものだと思っていたけど。とにかく大丈夫だから」


 どこか押し切ろうとする雰囲気を感じて、僕はそれ以上追及するのはやめた。彼女が大丈夫というのなら、それを信じるしかない。


「私、このまま帰るよ」

「え、まだゆっくりしていけばいいじゃないですか」

「お姉さんの家なのに、なに自分の家みたいに言ってるの」


 じとっと睨んだあと「ちょっと寄るところができたから」と彼女は言う。


「もう、この件は解決したし、私がいなくても問題ないでしょ?」

「そんなことは――」

「大丈夫でしょ。物音鳴ってもお姉さん今いないし、私がしばらく滞在していたんだから、そういうことはすぐに起きないだろうし」

「でも――」


 今回は今までみたいに依頼ではない。

 僕から報酬は出せないし、彼女もそのことは承知の上でつき合ってくれたはずだ。だからこそ、今になって申し訳なさが際立ってくる。

 しかし、僕の迷いを彼女は別の意味で捉えた。


「あのお姉さんなら、おじさんの体質のこと話しても問題ないんじゃない? あんまりストレス抱えると禿げるらしいよ」


 誰のせいで――と心の中で思いながら、今にも去ろうとする結生をどうにか引き留めようと必死に頭を巡らせる。

 考えるよりも反射的に姉の家の冷蔵庫を勝手に開け、目についたペットボトルを取り出すとそれを彼女に差し出した。強炭酸水だ。

 いぶかしげに見てくる視線が痛い。


「たいしたものじゃないんですけど、よかったら持って行ってください」

「それをおじさんが言う?」


 ごもっともな指摘に言い返す言葉もなく黙り込んでいれば、結生はそれを受け取った。


「ま、ありがたく受け取っておくよ」


 そう言って彼女は足早に去っていった。


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