2章 旅館の記憶 終
それからすぐに救急車、そしてパトカーが到着した。
事前に旅館のスタッフに説明していたため、男性従業員の身柄は速やかに警察に渡された。「罪を犯していない人間を捕らえるな」と怒鳴る声が救護室まで聞こえ、僕は思わず身を縮ませる。
――だ、大丈夫だろうか?
言われるまま警察を呼んだが、証拠はない。防犯カメラ、と思ったが死角だからこそ、あの男性スタッフは犯行に及んだのだろう。僕も嘘は言えない。その現場に居合わせたと証言しても、もしエレベーターにカメラがあったらそれが嘘だとすぐにバレる。
「おじさん、顔色悪いけど」
顔を上げれば、結生と目があった。
「倒れる予定があるなら、どうぞ。今度は私が椅子に座っているから」
「結生さん」
言い返す気力もない。ただ、少しでもこの不安を減らしたくて僕は口を開いていた。
「警察、呼んでよかったんですよね?」
結生がじっとこちらを見る。自分でも大人げないとは思っている。ただ、さっき聞こえた男の怒鳴り声が耳から消えない。
しかし――。
「当たり前じゃん」
起き上がった結生は、丸椅子の上に置いてあったペットボトルを口に付け、迷いなく言う。
「だって、犯人を見たんでしょ? なら警察呼ぶでしょう、普通」
「で、でも、家の記憶で見たなんて言っても警察は信じてくれませんよ。おかしい人だと思われるだけです」
結生が口を開きかけたとき、救護室の扉をノックする音が響いた。返事を待たず扉が開き、銀色フレームめがねをかけた、長身の男性が入ってきた。僕と同い年くらいに見える、若い人だ。
こちらを見た切れ長の目が、わずかに開かれる。
「結生さん、なぜこんなところにいらっしゃるのですか?」
「笹本さんこそ、多忙なはずの刑事さんが、どうしてこんなところにいるんです?」
この人、刑事なのか!
確かに、グレーのスーツがよく似合っている。
目を白黒差せる僕の前で、笹本と呼ばれた刑事は「狩屋と名乗る男性からの通報だと聞いたので」とばつが悪そうに答える。
結生が「どういうことだ」と言いたげに僕を見るので、慌てて首を横に振った。
狩屋とは名乗っていない。ただ電話口で「狩屋さんが関わっています」と言っただけだ。男に言われたとおりに。 笹本の視線が刺さる。
「こいつが千景のフリをしたのか」
「それはない」
ぴしゃりとはねのけたのは、結生だ。
「今、家解氏として依頼を受けているの。この人はそのための便利道具」
紹介の仕方!
僕は心の中で叫んだ。当然、彼らの耳には入らない。
「なるほど」
笹本は頷きながら言う。
「先日、結婚詐欺の被害者についてあなたから報告があったと聞き、まさかとは思っていましたが。はぐれ家解氏と手を組んでいたのなら納得です」
はぐれ家解氏? 僕が?
結生が訂正するだろうと思ったが、彼女は何も言わなかった。
それよりも――。
「結生さん、この前のこと、ちゃんと警察に言ったんですね」
それがなんだか嬉しくて、自然と口元がほころぶ。
「おじさん、顔きもい」
真顔で言われ、僕は深く傷ついた。
「まあ、とりあえず病院で診てもらいましょうか」
救急隊員を呼んできますと言って、笹本は部屋を出ていく。
「結生さん、刑事さんと知り合いなんですか」
彼女は「そうだけど」と少し疲れた様子で言った。
「家解氏は家録を見るから、その辺の防犯カメラより役立つし、警察ができる前から家解氏はいたから、そういう組織とは結構密着してきたみたい。だから警察でも、笹本さんみたいな家解氏専門の部署があるらしいよ。詳しくは知らないけど」
「なるほど」
となれば、この人が犯人だと主張する人間が家解氏であれば、それも立派な証言になるのだろう。
まさかあの男、それがわかっていて「狩屋が関わっていると言え」って言っていたのか?
さすがに、勘ぐりすぎか。
「まさか、こんなことになるなんて」
結生がため息混じりに言う。
「おじさんがいて助かったよ」
「役に立てたのなら、まあよかったです」
あの男が現れなければ、今ものんきに眠っていただろう。その感謝を向けるべき相手は僕ではない。
でも言えないんだよなあ。
律儀に守るあたり、僕も甘いというかなんというか。ただ、言ってしまったら最後、死より恐ろしい目に遭う気もしなくもない。
それから病院に行き、身体に別状はないことを診断してもらって残りの数日を旅館で過ごすことになった。
「おはようございます」
チェックアウトの日の朝、朝食前に僕らを呼び出したのは笹本だった。
「こんな朝から――一体何です?」
眠そうに目をこする結生だが、フリルとレースをふんだんに盛り込んだ白いワンピースを身にまとい、三つ編みを左右の肩から流している。襟元には目が覚めるようなコバルトブルーのリボンが結ばれていた。
「今から撮影を開始します」と言われても、すぐ対応できそうなほどの完璧ぶりである。
「結生さん、相変わらず朝が弱いんですね」
そう言って、めがねのフレームをくいっと持ち上げる笹本にも隙はない。エレベーターに向かって歩く若い二人組の女性が、スマホを向けようとして「やっぱりよくないよね」と言って仕舞う。
カメラを向けたくなる気持ちはわかる。頷くほどわかる。ただ、一緒に映ってしまう僕の気持ちを考えてほしい。
なんだか、場違いな気がする。
部屋に戻りたい、と身を縮ませていると前に座る笹本が「聴取にご協力いただきありがとうございます」と頭を下げた。
「まさか、それを言いにやってきたわけじゃないでしょう?」
腕を組む結生に「ええ」とにこやかな笑みで返す。
「一年前、この旅館で起きた失踪事件。あれも今回の犯人が関わっていました。――結生さん、依頼を受けていたのでしょう?」
結生は顔を曇らせる。
「相変わらず、犬みたいに鼻が利く」
「褒め言葉をして受け取っておきますよ」
犯人は、婚約者に浮気されていた過去を持っていたらしい。それが深いトラウマになり、旅館にやってくる不倫カップルを見ると殺意が湧き押さえられなかったという。
「相当ぶっとんでいるみたいで、悪魔にそそのかされている同類を救う役目を自分は神から与えられたんだって大まじめに語るんです」
そこで僕は、あの男性従業員が言っていた言葉の真意がようやくわかった。犯人から見れば、僕らは不倫カップルだったということだ。
「それじゃあ、私は勘違いされて襲われたってこと?」
「まあ、そうなりますね」
「バカバカしい。どうしてそうなるのか理解できない。せめて娘と父親じゃない?」
いや、さすがにそれは無理がある。
僕は心の中でツッコんだ。
「まあ、死人が出てないことが幸いですね。行方不明だった女性も奴の自宅で保護されましたし、結生さんも無事だった」
「殺されかけたけどね!」
結生がむっとして答えれば、笹本は余裕のある笑みで流す。
「殺意はあっても冷静だったってことです。チャンスがなければ、見逃すほどですから。結局、自分の身が一番なんです」
「笹本さんは、私が隙だらけだったって言いたいんだ?」
「結果的にはそうなります」
結生は口をとがらせると背もたれに寄りかかった。僕はできるだけ視線を遠くに向ける。朝日が中庭の松の葉に当たり、小川は光を反射して輝いている。二羽の雀が、幹に水辺にと移りながら戯れる様子が微笑ましい。
「おじさん」
呼ばれてふと我に返る。
目をつり上げる結生と視線が合った。
「おじさんは何とも思わないわけ?」
「えっと――」
いきなり巻き込まれて僕は必死で頭を動かす。しかし、結生は諦めたように「もういい」と言って打ち切った。
「家守さんも大変ですね」
笹本の同情的な声に深く頷きかけたが、どうにか耐えた。
「しかし、今回はお手柄でした。まるで千景のようです」
そう笹本が言った途端「やめて」と結生が語気を強めた。
この前も聞いたけど、チカゲっていうのは人の名前だろうか。
首を傾げる僕の隣で、結生が縫いつけるように笹本を睨む。笹本はそれを笑って受け流しながら僕の方を見た。
銀フレームの奥にある目が冷たい。
「結生さんのこと、頼みますね」
言葉の真意が掴めない。
だけど僕は深く考えず流れのままに「はい」と答えていた。




