2章 旅館の記憶 7
ソファーで寝るのも慣れれば意外と快適である。身長のせいで足が飛び出しさえしなければ、このまま使い続けてもいいと思えるほどだ。
寝返りを打って背もたれからテーブル側に向いたとき、若干開いた目が人影を捉えた。僕は慌てて目を閉じる。
夢だ。
一瞬で意識が覚醒したが、目は開けられなかった。まだ起きるには早すぎる。二度寝しようとするが、寝られるはずもない。
あれは夢。もしくは家録。
だから早く寝ろと自分に暗示をかけていたときだ。
「起きろ」
知らない男の声。ぞわっと背筋が粟立つ。
「お前が起きたのはわかっている」
大丈夫。きっと家録だ。エレベーターのときと同じ、状況が合いすぎているから、僕に話しかけているように聞こえるだけ。
閉じる瞼に力がこもる。そのときだ。
「俺はお前に言っている。家守カナト」
僕は弾かれたように飛び起きた。名を知っているということは家録じゃない。だったら考えられることはひとつしかない。
部屋に不審者が入り込んだ!
助けを求めるため、廊下に続く扉まで走ろうとしたが、ローテーブルに足をぶつけ転んだ。しかも当たりどころが悪かった。目の前に星が飛ぶ幻覚を見た。
「いったあ!」
すねを抱え転ぶ僕に「鈍くさいやつ」と声が降ってくる。そこでようやく声の主を見た。
全身真っ黒な服に身を包んでいるというのに、スタイルがいいせいかやぼったい印象はない。服のせいで肌の白さが際だち、顔も青白く見える。まっすぐ通った鼻筋に品のよい唇。はっきりと描かれた形のよい眉に合う目。その両目は、深い森にある湖を連想させる緑色をしていた。
日本人にしては、少し彫りのある顔立ち。モデルやアイドルと言われても遜色ないこの男を僕は知っている。
「なんで……」
日記と手紙を見つけるため訪れた人のいない家。その帰りに見かけた男だ。
「今は時間がない」
そう言われてテーブルに置いた腕時計を見る。明かりを消しているのでよく見えず、たぐり寄せれば午前三時を過ぎたあたりだった。
「あの、貴方は一体――」
「そんなことはどうでもいい」
いや、よくない。あのときも遠巻きに睨まれていたのだ。完全に不審者である。心臓が早鐘を打っている。暑くもないのに、額に汗が浮かんだ。
こういうとき、どうすれば――。
思考停止しようとする頭に渇を入れ、必死に考える。
まずは助けを、フロントに電話すれば異変に気づいてくれるかも。でも武器を持っていたらまずい。
僕は注意深く男を見る。そこでふと気づいた。
こんなに暗いのに、どうしてはっきりと見えるんだ?
「俺もお前に言いたいことは山ほどあるが、今はそれどころじゃない」
人間じゃ――ないのか?
なら家録、と思ったけどそれならなぜ僕の名を知っている?
まさか、幽霊?
「なに腑抜けている、阿呆」
その一言で後頭部をひっぱたかれた気がした。
阿呆なんて言ってくる幽霊がいるか。いや、いない。
むっと睨み返せば、ふんっと鼻であしらわれる。
「いいから来い」
そう言って男は部屋の外へ出ようとする。
一体どこに行くのか、口を開く前に男が噛みしめるように呟いた。
「早くしないと取り返しがつかなくなる」
ひどく焦っているらしい男の様子に、妙な胸騒ぎがした。普通なら、得体の知れない人間の言うことを聞く方がどうかしているだろう。でも、無視して二度寝を決めることはできなかった。痛みの引いた足で立ち上がる。そして、先を行く男を追いかけた。
旅館の外に行くのかと思いきや、男が向かったのは大浴場。それも女風呂ののれんが掛かっている方だ。
「ちょ、ちょっと待ってください! さすがにそれはまずいですよ!」
小声で訴えるが、男は躊躇なく踏み込んでいく。
あー、もう!
ここで突っ立ている方が目立つ。深夜の時間、誰もいないことを祈って、のれんを押しくぐった。
幸いにも人の気配はない。そう言えば、清掃の時間だったかと思ったが、それらしき人の姿もなかった。
「早くしろ」
男の叱責が飛んできた。
歳はそんなに変わらないはずなのに、なぜか偉そうな態度である。初対面でこんな態度をとられれば、当然、好印象なんか持てるはずもない。
なんなんだ、こいつ。
ただ、突然部屋の中に現れたのは確かだ。家録みたいに他の人に見えないなら、ここでお咎めをくらうのは僕になる。
「あの」
腹の底から怒りが湧いてきた。
男が振り返る。それだけで、絵になるのだからさらにムカつく。
「せめて何をさせようとしているのか教えてください」
噛みつくように言えば、鋭い眼光が飛んでくる。鷲や鷹といった鳥類を連想させる力強い視線に、ふつふつと湧いていた怒りがシャボン玉みたいに消えた。
すみません、と口から吐きかけたときだ。
男が親指で扉を指す。のれんをくぐった先、脱衣所や洗面台に続く廊下の途中にある「関係者以外立ち入り禁止」と書かれたクリーム色の扉。
ぽかん、としていると「なに阿呆面をさらしている」となじられた。
ダメだ。あまり人を毛嫌いすることはないけど、この男だけは無理だ。
「言わなきゃわからないですよ」
むっとしながらドアノブに触れる。そこでふと我に返った。
関係者以外立ち入り禁止と書かれているのに、開けようとしていいのか?
「早くしろ!」
背中に浴びせられた鋭い声に、考えるより早く体が動いた。ドアノブをひねり、勢いよく扉を開ける。鍵はかかっていなかった。扉の向こうはコンクリートの廊下。左手にモップやバケツなどの清掃道具が置かれている。さらにその向こうに「ボイラー室」と書かれた扉があった。
振り返れば、顎で奥を示される。どうやらあの扉も開けないといけないらしい。
自分で開ければいいじゃないか。
思うけれど口にしない。言えばどうなるか火を見るより明らかだ。
「扉は開けたままにしておけ」
「どうしてです?」
返事はない。ただ「早く行け」と目が強く訴えている。
もう、何なんだよ。これで大したことなかったら怒るからな。
ドアノブを握り、力を込めて引く。きいっと小動物の鳴き声にも悲鳴にも聞こえる甲高い音が耳を刺し、暗い室内に光が射し込む。巨大な生物のいきびに似た轟音が、わずかに開いた重い扉の隙間から流れてきた。
この扉も開けっ放しにした方がいいのか?
男の目的がわからないまま、ぐいっと力を込め大きく扉を開けたときだ。
暗い部屋の奥、光がわずかに当たるその先に人の足が見えた。
二度、三度。瞬きを繰り返すが足は消えない。マネキンのようにも見えるが、間違いなく人の足だ。
額に浮いた冷や汗が頬を伝って流れ落ちた。
これは、夢?
轟音が耳をふさぐ。
今も僕は、ソファーの上で眠っているのではないか。
波が引くように、音がだんだん聞こえなくなっていく。男が何か言っているような気がするが、夢ならどうでもいい。早く覚めてしまえばいいのに。目線をそらそうとして、僕はその先を見てしまった。
途端、電流を浴びたように足が動いた。
「結生さん!」
抱き起こせば、彼女の小さな頭は力なく傾いだ。さっと血の気が引く。
どうして彼女がこんなところに?
寝室で寝ていたのではないのか。
わけがわからず硬直していると「おい」と男が扉の前に立っていた。
「早くそこから連れ出せ。多分、一酸化炭素中毒を起こしている」
ぎょっとして抱え上げれば、彼女の瞼がわずかに動いた。ここに放置されてからそんなに経っていないのかもしれない。抱え上げたとき、こんっと何かが落ちた。見ると未開封のコーヒー牛乳の瓶が転がっている。
もしかして、飲んでしまった僕のコーヒー牛乳を買いに来ていたのか?
いや、そんなまさか。
しかし、考えている余裕はない。急ぎボイラー室を出る。ロビーまで行くと、ソファーの上に寝かせ中庭に通じる扉を開いた。水気を含んだ冷たい空気が土の匂いと共に流れ込む。
「救急車。それと警察に連絡しろ」
混乱する僕とは間逆に、男は淡々と指示を出す。
「でも、スマホを持ってな――」
「結生のがあるだろ」
ポケットからはみ出る四角い板が目に入る。緊急事態だから、と心の中で詫びを入れすっと抜いた。
スマホ画面をタッチする指先が震える。こういうとき、何番を押すんだっけ。
「しっかりしろ!」
背中を思い切り叩くような声が耳を刺す。
「百十九番。あと警察も呼べ」
僕は何度も頷き、画面の数字を押す。通話ボタンを押そうとしたとき「きゃっ」という短い悲鳴が聞こえ、飛び上がった。見ると大浴場の前で結生が腕を引っ張られている。そして、薬をかがされたのか瞬く間に気を失い、のれんの奥に連れて行かれた。
これは家録だ。そして、結生を危険な目に遭わせたのが誰なのか僕は見た。
――あの男性従業員。
神だ、救いだと意味のわからない声が蘇る。どうして結生を襲ったのか、その心当たりがまったくない。それが逆に不気味だった。
ちっと舌打ちが飛んでくる。ちらりと視線を向けると、形のよい顔を歪め、殺気のこもった視線で結生が消えた方を見る男がいた。
「おい」
びくっと肩が跳ねる。
「これは立派な殺人未遂だ。いいか、狩屋が関わっていると言え。絶対にだ」
僕は、男に見守られながら連絡をする。旅館の従業員に声をかけるべきなのだろうが、とてもそういう気分にはなれない。
途端、結生がせき込む。
「結生さん!」
呼びかければ、結生の瞼がゆっくりとあがった。
「ここ、は」
「ロビーです。ひとまず、救急車を呼んでいるので安心してください」
彼女は息を吐き出すように「そう」と短く答える。そして僕をまっすぐ見据えた。
「どうして、ここに?」
もっともな疑問だ。結生のことだから、僕が寝ているうちに、こっそりコーヒー牛乳を補充しようと思ったのだろう。あまり素直ではない彼女なりの優しさだ。
僕はありのままを言おうとして、言葉を飲み込んだ。
男が、鬼も逃げ出しそうな睨みを僕に向けていたのだ。
どうやら結生に存在を知られたくないらしい。
まあ、態度は置いておき、男がいなかったら取り返しがつかなかったことは確かだ。恩はある。仕方がない。
「か、家録が見えて、それで追いかけてきたらって感じ――ですね」
男が額を押さえ、救いようがないと言いたげに首を振る。僕は男を睨みつけたかったが、結生の前だ。ひきつった笑みでどうにか場を取り繕うとする。
ふと顔を上げれば、男の姿はどこにもなかった。




