2章 旅館の記憶 6
部屋に戻って早々結生を呼んだが、彼女は部屋から出てこなかった。仕方なく買ってきたコーヒー牛乳を冷蔵庫に入れ、室内の風呂に入る。
一般家庭の風呂場と違い、浴槽は木製だ。檜なのかわからないが、湯をためると木の匂いが立つ。狭いのが残念だが、それでも満足度は高い。
タオルで頭をふきながら、ソファーのある洋室に入ると、結生がテレビを見ていた。その手にある空の牛乳瓶を僕は二度見した。
「あ、おじさん。お帰りー」
すっかりくつろいだ様子でソファーに座る結生は、僕の様子がおかしいことに気づいたようだ。
「どうしたの?」
「いえ、その――それは」
恐る恐る指を指せば、「ああ、これ」と瓶を振って見せた。
「冷蔵庫に入っていたから飲んじゃった」
僕のだ!
膝をつきたくなる衝動を必死に押さえる。楽しみにしていたのに。
「もしかして、おじさんのだった?」
ごめんね、と軽い調子で謝られ、僕はそれ以上何も言えなかった。
夕食までの間、さっき見た家録について結生に話したところ「おじさん、もうちょっと頑張ってよ。ひとりで見ちゃってさ、まったく」と口をへの字に曲げて言われた。
何をどう頑張れと?
ソファーの上でひざを曲げた結生は、膝の上に顔を乗せた。今日は、ビビットカラーオレンジのゆったりしたズボンにフリルのついた若緑色のブラウスを着ている。出会う度に服装もその系統も違うので、実は狸に化かされているのではとちょっとだけ思っている。
もちろん、そんなことを言えば確実に怒られるので言わないが。
「私も見たい。ねえ、一緒に行くからその家録見せてよ」
「いや、無理ですよ」
僕にとって家録は、テレビをつけたらやっていた映画みたいなものだ。録画のように、巻き戻しも早送りもできない。
「まあ、そうだよね」
結生はソファーに深く沈み込む。
「おじさんは家解氏じゃないし」
家解氏ならできるのか、という言葉を飲み込む。
聞けば聞くほど謎の多い人々である。
「とりあえず、Aさんと一緒にいた男にいろいろ聞いた方がよさそうだね。依頼主にはそう言っておくよ」
これ以上、僕らにできることはない。そうわかっていても、例えようのない虚しさが胸の奥に居座る。
家録で見たAさんの姿が脳裏をよぎる。目の前で喜怒哀楽を見せていた人は、今どこにいるのかわかっていない。
ただ、水面の月を掴むことができないように、一個人ができることも限られている。
――うぬぼれるなよ、僕。
必死に押し隠してきたこの体質が、家解氏の結生の前では役に立つ。でも、万能ではないのだ。
後ろ髪引かれる思いだが、これ以上役には立てない。せめて、得られた情報で事態が好転することを願うだけだ。
そのとき、雷雲が轟いたような音が響いた。僕は顔を隠すようにうつむいた。腹の虫が盛大な一声をあげたのだ。顔が熱くなるのを止められない。
また結生に小言を言われる――そう思ったのだが。
「そろそろ夕飯の時間かな」
彼女はソファーから立ち上がると、テーブルに置いていたスマホをとる。そして、手を伸ばしてきたかと思うと僕の頭をわしゃわしゃっとなでた。まるで犬をなでるような軽い感じで。
「え」
両目で彼女を捉えれば、悪戯が成功した子供のように笑みを浮かべている。
「おじさん、よく頑張ってくれたので臨時報酬」
そして何食わぬ顔で先に部屋を出ていってしまった。残された僕は、驚きのあまり立ち上がれない。
頭をなでられたのは、いつぶりだろう。
僕の家族はあまり褒めることのない家だった。だからといって厳しい家でもない。良くも悪くも放任主義。自由にさせてくれるが、責任は自分で持つ。それが僕の生家、家守家だ。
彼女は親はいないと言っていた。けど、愛情なしで育てられたようにも見えない。
僕はくしゃくしゃになった頭に手を伸ばす。
「ああやって褒められたんだろうな」
しかし、心臓に悪い。家族ならともかく、他人にする褒め方ではない。
「なんというか、いろいろと教えないといけないな」
彼女は、大人しく言うことを聞いてくれるタイプではない。しかし、これから先の将来を思うと誰かが教えなければならないだろう。
少しなりを潜めた腹の虫を抱えて、僕も部屋をあとにした。




