2章 旅館の記憶 5
「それで、怖くなって部屋から一歩も出なかったんだ?」
夕方、戻ってきた結生はソファーで足を組み、温泉まんじゅうを頬張る。僕は背中を丸め「はい」と小さく呟いた。
「おじさんさ、自分の役目わかってる? これは仕事なんだよ」
言い返す言葉もない。結生は、僕が用意した緑茶に手を伸ばす。
「その従業員ってどんな人」
とりあえず、記憶をたどりながら話す。目立った特徴のない男だ。多くの人間が働くこの旅館で、客である僕らがすぐに認識することは難しい。
しかし――。
「あの人、かな」
結生の目元が細められる。湯飲みを置くと腕を組んだ。
「心当たりがあるんですか?」
そう尋ねれば「まあ」と気の乗らない声が返ってくる。
「何か話したりされたりしたわけじゃないけど、なんていうか感じ悪いんだよね」
僕は内心首を傾げる。それでどうして心当たりがあるのか。従業員のひとりとして気に留める原因がない。
「あの、どう感じ悪いんですか」
そう尋ねれば、うーんと唸った。
「なんというか、視線を感じる、みたいな?」
「極端に目が合うとか?」
家録を思い出し、背筋がぞっと粟立つが無視する。結生は僕の問いに首を横に振った。
「そういうのじゃない」
もしや、感覚で言っているのではと思ったとき。
「朝食の会場にもいたでしょ、その人」
「いや、さすがにそこまでは――」
「いたんだよ、その人」
平日であるが宿泊客は多く、朝八時頃の朝食会場はかなりの人でごった返していた。従業員も小走りで移動するほどだ。そんな中で特定の従業員がいたかどうか判別することは、運動会で自分の子供を見つけるより難しい。
結生の口がへの字に曲がる。
「やっとオムライスが食べられると思ったのに、そのせいであんまり食べられなかったし」
朝食は、三種類のメイン料理からひとつを選択する形式だ。サラダやスープなどはビュッフェとなっている。
たしかに、結生はオムライスを三口ほど食べて止めてしまった。口に合わなかったのかと思ったがそうではないらしい。
「なんでオムライスとその人がつながるんですか」
思ったままを口にしただけなのだが、彼女は「わからないんだったらいい」と拗ねてしまった。
「その男の視線の先に誰がいたか気になるところだけど、私たちが探しているのは女性だからね」
「わかってますよ」
そのとき、ドンっと扉を叩きつけるような音が響いた。二人で音のした方へ視線を向ける。結生が素早く立ち上がり確認したが、誰もいなかった。
「とりあえず、いい兆候ってことで」
僕は、喉までせり上がってきたため息を静かに飲み込んだ。
やっぱり僕も人間である。
どうしても欲望には逆らえない。
夕食のあと、部屋に引きこもった結生を見届けてから僕は大浴場へ向かった。怪奇現象が起こるようになった今、脱衣所に行けば裸体の男女が平然とした顔でうろついているだろう。
だから、できるだけ素早くコーヒー牛乳を買わなければならない。
どうして脱衣所にしかないんだよ。
床を睨みながら自販機まで行くと、牛乳、フルーツ牛乳、コーヒー牛乳が並ぶ。握りしめた小銭を入れ、ボタンを押せば、機械が瓶を掴んだ。ひんやりとした瓶を取り出すと、汗が吹き出たように水滴がつく。
部屋の風呂でも、風呂上がりに一杯楽しむことは許してほしい。本当はビールがいいのだが、味を思い出してしまえば戻ったときにつらくなる。
さっさと部屋に戻ろうとエレベーターに向かったとき、またあの男性従業員と目があった。正確には、家録だ。今は周りに家録でない宿泊客もいるため、それほど怖くはない。
――この人たちには、見えないんだ。
僕はすれ違う宿泊客を眺めながら、家録の男に近づく。初めて家録を見たのが、僕と結生しかいない一般住宅だったこともあるだろう。家解氏や家録について、僕はまだ知らないことが多い。
知りたいわけじゃないけど。
ポルターガイスト現象が起きるようになったのだ。もしかしたら、彼の視線の先に例の女性の姿があるかもしれない、と言い訳をしつつ、この男が一体何をそこまで憎んでいるのか少し興味があった。
この前、部屋に来たとき憑いているとか神とか言ってたし。
あんなことを言われて、気にならない人間の方が少ない。
不審者に思われないよう、周囲の視線を気にしながら男の見ているものへと目を向ける。
「あれは」
見知らぬ男性だった。背が高く、肩幅が広い。何かスポーツをやっていたのか、浴衣姿でもわかるほど体格がいい。さわやかな笑みに短い髪。好印象をもたれそうな三十代くらいの男だ。今ここにいる宿泊客ではない。浴衣の色と柄が違う。
僕は目の前に立つ背の低い男に視線を向ける。彼はまだ黙ってじっとロビーを見つめている。呪いのような言葉は出ていない。
これはさっき見た家録とは違うのかも、そう思ったときだ。角から一人の女性が現れた。髪を頭のてっぺんで団子にまとめた二十代くらいの女性だ。風呂上がりなのか、首元が赤い。女性は男性の元に笑みを浮かべて駆け寄る。そして、その太い首元に腕を回した。二人の顔が近づく。
リップ音が聞こえた気がしたが、幻聴かもしれない。そのときだ。
「沙耶」
目の前の男が言葉をこぼした。
「どうしてこんなところに、いや一緒にいるのは……」
明らかに動揺している。
知り合いだろうか。男の頭部を見下ろしていると、
「呪ってやる」
聞き覚えのある声が吐かれた。ぞっと身の毛がよだつ。赤の他人に向ける感情ではない。状況から見て、彼女か奥さんか、その裏切りの現場を意図せず見たというところ――だろうか。
僕は足早にその場から離れる。
探している女性に関係ないのなら、これ以上家録を見る必要はない。
上に行くエレベーターのボタンを押し、さっさと乗り込む。上昇を表示するパネルをじっと見ていたときだ。
「ここで出会ったのも何かの縁だと思うんです」
突然女性の声が聞こえてぎょっとする。ひとりだけと思っていたエレベーターの中に、肩で切りそろえた黒髪の女性がいた。こちらを見上げる女性の瞳は、みずみずしい果実を思わせるほど潤み、その奥に隠しきれない熱情が見え隠れしている。
だ、誰!?
硬直していると、するり、と腕を組まれた。腕に当たる女性の体。熱いくらいの体温と自分のものではない柔らかさに目眩がしてきた。じわじわと真綿を口に突っ込まれている気分だ。
「す、すみません!」
体を引いて距離を置く。しかしここはエレベーターの中。短い時間とはいえ密室。いや、こういう場合防犯カメラが設置されているのかもしれないが、とにかくこの状況に頭が追いつかない。
目線を泳がせつつ、僕は壁を隔てるように言葉を吐く。
「ど、どなたかと勘違いされていませんか? 僕はまったく貴方に見覚えが――」
「つれない人。どうせここじゃあ知っている人もいないんですから、少しくらいいいじゃないですか」
まとわりつくような甘ったるい声。僕は首をぶんぶん横に振った。
「いえ、僕はひとりじゃ――」
「気持ちはうれしいよ」
かぶるように聞こえた、知らない男の声にぎょっとして女性の方を見る。すると、女性は見知らぬ男性と腕を組んだままだった。
か、家録――!?
紛らわしいと思いつつ、気まずい雰囲気に居場所なく隅の方に立つ。浴衣でなく私服姿だと家録か現実か判別しづらい。
本職の方はどうしているのだろう、と別のことを考えながら素知らぬ顔をして無視を決め込んでいたとき、女性が男性の正面に立った。
「奥さんとは離婚調停中って、昨夜バーで教えてくれたじゃないですか」
身長差があるため、女性は見上げるようにして男性を見つめる。
「まあね。だから精神的にボロボロだったし、友人に無理矢理『旅行でも行け』って送り出されたようなもんだし。君も彼氏にフられて来たんだっけ?」
「傷をえぐるようなことは言わないでください」
「ごめん、ごめん」
男性は、女性の小さな頭をぽんぽんっと優しくなでる。
「俺も君とはかなり気が合うと思っているよ。でも、さすがにこれ以上は――」
「私は本気です」
なんか、ドラマのワンシーンに放り込まれた気分だ。ちょっと人間関係がドロドロな感じのドラマ。残念ながら、落ち着ける部屋が持てないため、ドラマを見る機会はほとんどない。スマホも古いのでなおさらだ。
小説は現実よりも奇なり、とは言うけどと思いつつ視線をあげると女性の顔が見えた。口元にある黒子を見た瞬間「え」と声が出た。
「もしかして、Aさん?」
結生に見せてもらった写真が脳裏をかすめる。一度認識してしまえば、そうとしか見えない。
結構大人しそうな印象だったけど。
写真と実物(正確には記憶だけど)が違うというのは、よくある。人に限らず、雑誌やテレビで見る商品でもそうだろう。
当然、僕の声は二人には聞こえない。流れ続けるドラマのように言葉を交わしあっている。
これは、結生さんに伝えないと!
そう思っていると、エレベーターの扉が開いた。記憶とわかっていても、僕にはそこにいるように見えるため避けて降りようとした。しかし、僕が動くより先に二人が連れ立って先に行く。
腕に巻き付くAさんと男性の様子からして、このあとも二人で過ごすのだろう。
同じ階だったんだ。
遠巻きに眺めていたときだ。視線を感じて顔を逸らしたとき、僕は思わず足を止めた。憎悪と例えるには生やさしすぎる目がこちらを見据えている。
あの男性従業員だ。
角を曲がり、歩き続ける二人の背中を射殺す勢いで睨んでいる。
家録が見えているってことは、あの人も家録か。
ややこしくてわけがわからなくなる。こめかみを押さえたときだ。
「……救わないと」
言葉とは裏腹に地をはうような声。今にも喉を締め上げそうな殺意に満ちた声は、救うというより呪うと言われた方がしっくりくる響きだった。
 




