序
軽快なメロディで我に返る。反射的に「い、いらっしゃいませ」とつかえながら声を上げた。
今や町中の至る所にあるコンビニエンスストア。もうすぐ日付が変わろうとしているが、客足が完全になくなることはない。ちらりと自動ドアの方を見る。フードをかぶった小柄な人影。多分、人間。手元にあるスマホをいじりながら、すぐに棚で見えなくなる。
僕はどくどくと脈打つ鼓動を押さえながら正面を睨んだ。
――頼むから何も起きないでくれよ。
レジに突っ立ている僕から見えるのは、ペットボトル飲料や酒、缶飲料が並ぶ冷蔵棚だ。
今、このコンビニに客は一人しかいない。レジ番も僕だけだ。それなのに。
――ぱた。
引っ張るのもそこそこ力を必要とする扉が、ひとりでに開く。流れ出た冷気が背中をなでたかのように粟立った。扉はゆっくり、しかし大きく開く。まるで地獄の釜の蓋が開くみたいに。
さっと血の気が落ちる。そして小走りで近づくと扉を閉めた。
ぱたん、と扉が閉まるのと同時にフードの人が現れる。間一髪。ふっと鼻から息を吐けば、訝しげな視線が刺さった。びくっと体が縮む。
フードをかぶった小柄な人影は女、それも二十歳前後の若い女性だ。マスクに眼鏡という出で立ちから、ノーメイクを気にする年頃なのは間違いない。片手に持ったスマホは、入店時のまま。フードからこぼれる二つに結わえた髪が、どこか幼さを感じた。
どこからどう見ても不自然な行動だろう。気まずさのあまり、口角をあげてみる。しかし、女性は一瞥しただけですぐに背を向けてしまった。
――帰りたい。
ぎゅっと口をすぼめレジに戻る。その途中、ポップコーンがはじけるように、陳列してあったパンが落ちた。それを拾って元に戻す。
頼むから、あと少しだけ大人しくしてくれ。
強く祈る。それしか方法を知らない。ちらっと店内の時計を見る。午後十一時四十五分。あと十五分。それで僕はここのバイトではなくなる。約二年。僕にしてはよく持った方だ。
レジカウンターに戻り、威嚇するように店内を睨む。
神奈川県にあるこのコンビニエンスストアは、大通りに面しているわけでも、駅前でも、繁華街に位置しているわけでもない。それなのに最近、人の出入りが多い。それも今いる女性のようにカメラを回している感じの人が。
「なんか最近このコンビニ出るらしいよ」
二週間前。そう言いながら入ってきた女子高生の会話に僕は耳を立てた。なんでもひとりでに物が落ちたり扉が開いたりするという。
「結構バズっている動画があって――ね、絶対ここでしょう?」
すっと血の気が落ちたのがわかった。別に初めての事じゃない。どういうわけか、僕が留まる場所では、必ずと言っていいほどポルターガイスト現象が起きる。そうなったのは、十七の夏。高校を卒業と同時に逃げるように実家を出て、これで一安心と思いきや一人暮らしのアパートでも同じ現象に悩まされた。おかげで今でも転々とする生活。家どころか、働く場所すらままならない。
潮時だ。
その日のうちに辞めることを伝え、最終出勤日が決まる。別に自分が困るわけではないのだが、自分が原因でこの現象が起きているということは誰にも知られたくない。
僕は店内の時計を見続ける。長針が少し動いた。
早く、早くと心の中で念じていると、たんっと物を置く音がした。びくっと肩が震える。見るとカウンター前に女性客が立っていた。塩にぎりが二つと水のペットボトルが置かれている。肩の力が抜ける。ぴ、ぴ、と甲高い機械音が響いた。
「合計で三百二十六円です」
そう言ったとき、女性は片手に持っていたスマホをかかげ、ぐるっと回った。彼女がこちらに背を向けたとき、スマホがカメラ機能になっていることに気づく。
この人も動画配信者か。
目をすがめたときだ。僕は見た。カメラを通した店内にたくさんの人が映っている。かごを持って歩く女性や弁当の棚の前で吟味するサラリーマン、目的の物しか目に入らない作業着姿の男性――日中の様子だ。しかし、今ここにいるのは、僕と目の前の彼女だけ。
「なにがどうなって――」
思わずつぶやいたとき、「すごい」という小さな声が確かに聞こえた。
すごい?
僕は目をすがめる。日中撮った映像を流しているだけではないのか。
しかし、彼女の動きにここまで合うのも逆に不自然だ。
頬をつねってみる。痛い。確かに現実だ。
突然、彼女が振り向いたものだから慌てて手をおろす。会計をしてくれるのかと思いきや「紙とペン」と言われる。まっすぐ射抜くような視線。左目の下に泣き黒子があるのが見て取れた。
紙? ペン?
突然の要求に理解が追いつかない。彼女は不快そうに目を細めると「紙とペン」ともう一度言う。
「文房具売場は」
そう言えば「違う」と蠅を叩き潰す勢いで言った。
「貸して」
投擲のような言葉に背中を丸めながら、カウンター下にあるメモ用紙と胸ポケットに挿したペンを差し出した。
ツインテールの長い黒髪が、カウンターの上で円を描く。一体何を書いているかと思いきや、彼女はメモを破りこちらに差し出してきた。僕はただ目を丸くする。深く考えるより先に体が動いた。片手で差し出されたメモを名刺のように両手で受け取る。
目に入ったのは、どこかの住所。神奈川県内なのはわかる。でもそれがどこにあるのかまではわからない。おまけにビル名かマンション名かわからないカタカナが並ぶ。
「今日の夕方六時に来て」
瞬きを繰り返しながら彼女を見る。ツインテールの若い女性はめんどくさそうな顔をして「今日の夕方六時」と同じ言葉を繰り返す。
「絶対来て。――多分、悪い話じゃない」
そう言って彼女は、カウンター上の商品を手に取ると風のように去っていく。あとには、トレーに置かれた小銭と呆然と立ち尽くす僕だけが残された。
「あらあら、最後の最後に春が来ちゃった? 家守くん」
はっと振り向けば、ふくよかな中年女性がバックヤードから現れた。店長の奥さんだ。時計を見ると午前0時を回っている。
「家守くん、顔整っているからなあ。まあ、こういうことがあってもおかしくないと思っていたけど」
そう言ってのぞき込むように見上げてくる。
「バイト、まだ続けてもいいんだよ? こっちとしても助かるし」
そのとき、ぱたん、と冷蔵扉が開く音が響いた。続いて雑誌を落とす音、入店を知らせるメロディ音が続く。二人で出入り口を見るが人影はない。
「今、お客さんいる?」
その問いかけに僕は首を横に振って答えた。奥さんは、大きなため息を吐く。
「嫌ね、本当。そろそろお祓いでも頼もうかしら」
僕は身を縮ませて黙っていた。
蜩の鳴き声を久々に聞いた。
生まれ育った故郷と比べると、ここは山もなく木も少ない。コンクリートだらけで他の生物にとってけっして心地いい場所ではないはずなのに、力強く生きるものは生きる。夏盛りは過ぎ、暦の上では秋とはいうものの、まだまだ暑い。額に浮かぶ汗を拭って、ポケットからメモ用紙を取り出す。
多分、このあたりのはず。
坂道を上った先にある住宅街を抜けると、商業ビルが並ぶ一角にたどり着く。都心まで電車で行けるこの場所は、ベッドタウンとして栄えていたのだろう。ここに来るまでに廃墟のような団地や更地、駐車場を見た。老朽化や人口減少といった時代の流れに乗れず、廃れていったのは目に見えてわかった。飲食店やスーパー、コインランドリーが点在するが、昔はもっと多かったのだろう。ビルの高い位置にある看板は、少し古さを感じるフォントを抱え、緩やかに色あせていた。
電柱にある住所を頼りに目的地を探す。スマホを使えば楽なのだが、長年使っているせいかすぐに電池が切れる。それにバイトを辞めてしまった今、無駄使いはできない。
多分、ここだ。
大通りを外れた、人の気配が少ない場所に建つ三階建てのコンクリートビル。両脇のビルがそれなりに大きいせいか、満員電車の中で押しつぶされそうなサラリーマンを彷彿させる。
見たところ、中に店や会社が入っている気配はない。近づくと、メモに書かれたものと同じカタカナ名があった。
腕時計を見る。五時半。少し早く着いてしまったようだ。
我ながら何をしているんだと思う。でも、時間を無駄に持て余すよりはマシだ。バイト先をあとにしてから、何度も記憶が回る。
――悪い話じゃない。
そう言う彼女の強い意志を宿した瞳が、何度も僕を射抜く。
あの一瞬で、彼女は一体何を見抜いたのだろう。
ただ気弱そうな人間をからかっただけ、かもしれない。もしかしたら食事に誘って、高額な金額を請求してくるのかもしれない。もちろんそうなったら逃げるつもりだ。
でも。
口の内側を噛む。もし僕がポルターガイスト現象に悩んでいると見抜き「悪い話ではない」と言ったのなら――。我ながら夢見がちな少女のようだ。だけど、本当に藁だろうが蜘蛛の糸だろうが、現状から改善できる手だてがあるのなら、迷わず飛びつくだろう。
まあ、飛びついた結果ここにいるんだけど。
ビルの前で待っていればいいのかなと再びメモを見たときだ。そこにはビル名のあとにF3の記入があった。文字がかすれていたから気づかなかった。
貸したボールペン、そろそろインク切れだったしな。
そう思いながらビルを見上げる。思わず固唾を飲み込んだ。
大丈夫。
僕は自分にそう言い聞かせる。時刻は五時四十三分。十五分後くらいには、きっとあの女性も来るだろう。
汗ばんだ手をきつく握る。
今まで三十分以内で怪奇現象が起きたことは一度もない。だから大丈夫。
ふっと息を吐くと、僕は薄暗い階段を登った。
たん、たん、たんとコンクリートの階段は地をはうように音を響かせる。足音をたてないようゆっくり登ってみたが無駄だった。どうやらそういう構造らしい。三階まで登るとさすがに息が上がった。今年で三十一。誕生日はこれからなので、まだ三十だ。ひょろりと縦に長いものの、なんの運動もしてこなかったせいか、体力は著しく落ちた。
晩夏の熱気がこもっていたようで、ビルの中は異臭ともつかない独特の臭いが立ちこめていた。三階は探偵事務所だったらしい。扉にある蜘蛛の巣だらけのプレートにそう書いてあった。
僕はその場にしゃがみこむ。
水分不足と蒸し暑さのせいか、少しめまいがした。
自販機で水を買うの、ケチらなければよかった。
そのとき、足音が聞こえた。しかも下からではなく上から。おそらく屋上に続くのであろう階段からだ。まさか、最短記録をここで更新するのかと思ったときだ。
「具合悪いの?」
とんっと突き放すような冷たさのある声が降ってきた。顔をあげると、だぼっとした黒いパーカーに太股までのショートジーンズを着た若い女性が立っていた。高い位置に結ったツインテールの黒髪が、耳のように揺れる。陶器のように透明感のある足が一歩一歩と階段を下る。立ち上がらなければと思うものの、不調を自覚したせいか、体は重く視界は揺れる。目頭をもんでいるときだ。視界に何かが入った。お茶の入ったペットボトルだ。
「あげる」
ぶっきらぼうな声が上から降ってくる。
「まだ開けてない」
僕は顔を上げた。左目の泣き黒子が目に入る。相変わらず片手でスマホを持っているが、視線はこちらを向いている。格好はともかく、彼女が救いの神に見えたのは間違いない。お礼を伝えようと渇いたのどに力を込めたときだ。
「それとも飲みかけの方がよかった?」
言葉が引っ込んだ。目をすがめると「冗談だって。怒らないでよ」と笑いを含んだ声で言われる。
「これから大事な話をしようってときに倒れられても困るからね。おじさん、話理解するの遅いみたいだし」
お、おじさん!?
僕は腹の底にぐっと力を入れる。言いたいことは山ほどある。正直、ここまで言われて怒っていないといえば嘘になるけど、面と向かってそれを伝える勇気も度胸も残念ながら僕にはない。はけ口の見つからない怒りは、供え物のように置かれたペットボトルを無造作にとり、一気に飲み干すことで少し落ち着いた。
「なんだ、元気そうじゃん」
手の甲で濡れた唇を拭う。空っぽの胃に突然突っ込まれた茶は、胃を驚かせるには十分だったらしい。今度は腹の調子が悪い。しかし、そうと悟られまいと僕は必死に平静を装う。やはり軽い脱水症状だったのだろう。さっきよりはまだマシだ。
「おじさん、私の道具になってよ」
「へ?」
思わず声が出る。聞き間違いかと思ったが、険しい表情の彼女を見るにそうではないらしい。今言われた言葉をゆっくりかみ砕く。私の、道具――。道具?
「だから、私の道具になってってば」
何を言っているんだ、この娘は。
痺れを切らしたように言われるが、正直意味がまったくわからない。同じ言語を話しているはずなのに、だ。まだ魔法少女になってよ、と言われた方がしっくりくる。――いや、魔法少女にはなりたくないが。
僕はこめかみを押さえた。胃だけじゃなく、頭も痛みだした。
「申し訳ないけれど、言っている意味がさっぱり――」
そこで言葉を途切る。おずおずと彼女の方を見上げたのが悪かった。
「じゃあどうすればわかるわけ?」
棘のある言葉。針山に転がったような感覚を受ける。明らかに怒っている。こちらを見下ろす視線が鋭い。
そのとき、たったったった、と階段を駆け上がる足音が響いた。二人して視線を向ける。響く足音は明らかに上に向かってきている。僕は身を固くした。
誰か来たのなら問題ない。でも、もし足音だけだったら――。
怖がるか、面白がるか。きっと後者じゃないかと思ったとき、足音はここに来た。姿はない。僕は息を止める。最短記録更新だ。よりにもよってなんで今、と自分の運のなさを呪う。
ピンポーンと間延びしたチャイムが響き、扉が閉まる音が続いた。おそらくこの探偵事務所のインターホンの音。もちろん今押しても音は鳴らないだろう。ここが利用されていたときの音に違いない。
途端、まるで動画の一時停止ボタンを押されたように、一気に静まり返った。僕はじっと己の靴先を見つめる。何年も履いているスニーカーは、ほどよく足になじんでいるものの、色あせ汚れている。呼吸音すらはばかれるような気がして、身じろぎせずじっとしていたら――。
「最高だわ」
という声が降ってきた。
「へ?」と二度めの言葉が口をつく。コンクリートについていた尻がわずかに動く。
「おじさん、モテモテだね」
誰に、という言葉は飲み込んだ。彼女は片手に持ったスマホを、ぐるりと周囲に向ける。その目に先ほどまであった不機嫌さはなく、ただ初めてテレビをみた異国の子供のように好奇心で輝いている。
「こんなにはっきり見えるのは初めて」
ちらりと見えた、スマホ画面。そこには、蜘蛛の巣や落ち葉、虫の死骸がない「人気があるこの場所」が映し出されている。
「気分転換に噂のコンビニに行ってよかった」
そう言って彼女はこちらを見る。嫌な予感がした。
「まさかこんな掘り出し物を見つけられるなんて」
ぞわっと全身の毛が逆立つ。やばい。冷や汗がどっとあふれる。心臓が早鐘を打つ。逃げたい。けど、腰が抜けて力が入らない。
確かに心のどこかで誰かにわかってほしいと思っていたし、助けてほしいとも思っていた。けど、利用しようとする人間が現れるなんて夢にも思っていなかった。
青い顔で彼女を見る。ツインテールの君は、獲物を見つけた魔女のように、妖艶に微笑んでいる。思わず距離をとる。当然、芋虫が身をよじらせるようなささやかな抵抗でしかない。
「私の道具になって」
彼女が僕の前でかがむ。ふわりと場にそぐわない甘い匂いが鼻をかすめた。
「おじさんにとっても悪い話じゃないでしょ?」
焦げ茶色の両眼は、獲物に爪を立てた狼を思わせた。それを正面から受ける度胸もなく、一刻も早くこの状況から逃げたくて僕は首を小刻みに振る。
「契約成立」
鼻歌でも歌い出しそうな声が不穏な言葉を落とす。彼女が立ちあがったことで、僕はようやく息を吐いた。圧が強すぎる。怖い。
「それじゃあ携帯貸して」
「ど、どうして」
どもりながら問えば「電話できないじゃん」と彼女は平然と言う。
「用があれば呼び出すから、ほら」
差し出された手に抵抗する気力もわかず、僕はスマホを彼女の白い手に乗せる。彼女は僕のスマホだけじゃなく、自分のスマホも素早い動きで操作する。瞬きを二、三度繰り返したあとには、僕の手に戻ってきた。画面には携帯番号と見知らぬ名前が表示されている。
――狩屋結生。
それが彼女の名前らしい。
「家守カナトっていうんだ、おじさん」
結生は、僕の携帯に設定してあるプロフィールを見たようだ。かあ、と一際大きいカラスの声が飛び込む。
「電話したら必ず出て」
僕は一体何をさせられるのか。きっとろくでもないことに違いない。不思議な現象が起きる動画は、きっと再生数も多いのだろう。
「あ、あの」
こんな僕にでもなけなしのプライドはある。
「法に触れるようなことは、ちょっと――」
「なにそれ」
冷たい炎が立ち上がったようだった。眉根を寄せた結生は、明らかに不機嫌だ。
「そんなことしないし。どうしてそういう考えになるわけ?」
いや、だったらもっとちゃんと説明してほしい。
「捜し物を見つける手伝いをするだけ。もちろん、報酬は払う。それなら文句ないでしょう?」
僕の心を読んだかのように彼女はそう言うと、「それじゃあ依頼が来たら連絡する」と言って階段を下りていってしまった。
あとに残されたのは、コンクリートに座り込む僕だけ。
「どういうこと?」
自分の体質(と言っていいのかわからない)が、どうして捜し物を見つけることにつながるのか。さっぱり想像がつかない。
しかし、金に困っているのは事実だ。
それから三日後。お守りと化しているスマホが喚いた。びくりと肩を振るわせ、スマホの画面をスライドさせる。
「――も、もしもし」
そう言えば、何の前置きもなくただ日時と場所だけ伝えられて切られた。
――夢?
着信履歴を見る。しかし、画面には「狩屋結生」としっかり表示されていた。




